第7話
「発泡酒ってこんなに美味しかったっけ」
冷え冷えの仕事終わりの一杯は、きっと何を飲んでも美味しかった。私たちは喉が渇いていたのか、がぶがぶと一気に冷蔵庫の全部のお酒を飲み干してしまった。テレビからはバラエティの観客の笑い声が小さくぼわぼわと耳に近づいてきていた。アキさんは疲れたのかソファに座りそのまま寝てしまったので、ささやかなテレビの音と私のお酒を飲み干す音が部屋に響いていた。部屋と言うか、私の耳に。お部屋を少し片付けて、扇風機を消して電気を消した。テレビの明かりだけが室内を照らしていた。アキさんは小さくイビキをかいていた。鼻奥のほうから何故かピーピー鳴っていた。窓を開けた。外の匂いがする。何故かふと、彼を思い出した。罪悪感なんて何一つ無くて、ただただ自分が孤独になっただけだった。吸ったこともない煙草を吸ってみたくなった。彼の匂いが私の中で今は、外の匂いと、煙草の匂い。やっぱり、彼が一番好きだ。人の家なのに、アキさんをソファに寝かせて私はベッドで寝ていいのだろうか。そう何度か迷ってからなんとなくアキさんにタオルケットをかけて、私はベッドで寝た。彼から『おやすみ』とメールが来てたのに気づいて、なんだか涙が出そうだった。『おやすみ』と私も送った。ひどいよひどい。愛してるなら愛してると、どうでもいいならどうでもいいと言っておくれ。言葉にしなきゃ伝わらないことなんてこの世にたくさんあるんだ。
壁際を見て携帯をいじっていると、アキさんが起き上がった音がした。別に何もやましい事は無いが、液晶の画面を消して寝たふりをした。何の声も出さず、しばらくするとこちらに近づいてくるような足音がした。体が強張ったが、ひたすら寝たフリをするとアキさんは私の隣に寝転がった。心臓がバクバクしてるのを隠したかった。ぐっすり眠っている訳じゃないのを静かな部屋が全部種明かししてしまった。発泡酒のにおいがする、アキさんは私の体を掴んで自分のほうに裏返した。時間は23:45。今日が、終わってゆく…
「起きてたでしょ」
アキさんのそんな所、見たくなかったような気がした。素直にドキドキした。いつもなら「まぁこんなのもたまにはいいかな」と思っているところだがなんだか今日はいつもと違った。アキさんは、ねっとりとしていた。セックスというスポーツを楽しんでいた。最中に、色んなことを言ったり、たまに私を引っ叩いたりした。ベッドの下から、変な形の秘密道具も出してきた。秘密道具を使って、私で実験をしてるかのように弄んだ。体とか心とか無理矢理、切り裂かれたような気持ちだ。ねっとりと、違う生き物と接してるみたいに色っぽかった。なんだか怖くなって、楽しめなかった。次第に、吐きそうなくらい具合が悪くなった。
気色悪い。
あり得ないような、私の体の色んなところを口に含んで美味しそうにヨダレを溜めていた。そのうち、見たら入りもしないことくらいわかる拳を私の口に突っ込んで息ができなくなりそうだった。追い打ちをかけるように首を絞め、目から涙が伝う私をアキさんが見下ろす。嬉しそう。楽しそう。狂っている。身動き取れない。言葉も発せない。水の中に居るみたいに息苦しかった。吐き気がした。痛かった。それを鏡で見せられて、鏡には肌色のキチガイが二人写っていた。アキさんはそのうち、暴言に近い台詞を何度も私に浴びせた。まるで、人が違う。誰?これは、誰?
アキさんは楽しそうだったが、私は必死に平気な演技をして死にたくなっていた。悪い癖で、また必死に違うことを考え始めた。拳をリズムに乗って振りかざして、どこのかわからない応援ソングを歌う私が居た。蔓延の笑みで、学ランを着てはちまきを巻いていた。その光景が、どんどん近づいてくる。
助けて、彼。そう思った。
自分でこの家に迷い込んできたのにずうずうしくそう思った。間違えて怖い場所にきてしまった。誰も味方もヒーローも居ないと思った。
お父さん。
目覚ましの小さな音で目が覚めた。私は裸でベッドに横たわっていて、隣にはアキさんがすやすやと大きなイビキをかいて寝ていた。なんだかその顔を踏みつけて、潰れたみかんみたいにぐちゃぐちゃにしてやりたかった。優しくてお兄ちゃんで、そんなアキさんに対して初めてそんな事を思った。何故か思い出した。お父さんが昔、赤いカエルを間違えてつぶして、色んなことでやけになって更に何度も何度も足で踏みつけてぐちゃぐちゃにしたの。自分の弱さで、やけになってしまったの。うまくいかなくて、泣きたくなってしまったんだ。
私は服を着て、少し明るくなった外をチラッと見てから鞄を持った。アキさんが
「またね、気をつけて」と言った。起きてたのね。
早朝だった。まただ。深呼吸をした。珍しく晴れていたが、死ぬほど泣きたくなって鼻の奥が痛かった。誰のせいかも、もはやよくわからない。全部が全部間違ってる気がした。彼に『おはよう』とメールをした。余計に鼻の奥が痛かった。無駄に水色の薄暗い空を見上げて「はぁ」と言った。落ち着こう。今日は誰とも遊ばず、頭の中をクールダウンするんだ。
しばらく家の中でぼーっとしていたが、気がつくと寝てしまっていた。地獄のような夢を見て目が覚めたが、内容は覚えていなかった。私は昔から、何か思い悩むと悪夢にうなされ目が覚めていた。胃が痛くなることや、食欲が無くなる様なことはめったに無かった。カズキからまた『やり直そう』としつこくメールが入っていてストーカーのようだった。ぶちキレてやりたい気分になった。私はうぬぼれていて、おまけにとんがり直してしまったのでしょうか。彼が『今ヒマ?』とメールしてきたので会うことになった。誰とも遊ばないとは言えども、彼は別だった。
逢いたい。こんな私だけど、逢いたすぎる。
会う前に何度も鏡を見て髪型を直した。数日しかあいていないのに本当にしばらく会ってない気分になった。寂しい気持ちと一緒に楽しみが押し寄せてきた。男と会うのが、こんな楽しみって思うなんて奇跡だ。昼間の混雑する駅のホームで、彼を見つけた。にやにやが止まらず、こっそり近寄って「おはよ」と言うと、彼も口角を片方上げて「おー」と言った。
「あついねぇ」
「おー」
「おーばっかり」
「…何して遊ぶ?」
彼がこちらに目も向けずに言った。私は素直に微笑んだ。
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