第4話
がたんごとん。
彼が居る。気が狂ってしまいそうだった。ピアノの音がする。それも、すごく上手な演奏で、何の曲かわからない。
「何」
「なにが?」
「疲れてんじゃん」
彼がタバコに火をつけた。彼がタバコを吸うようになったのは最近だ。
「疲れてないよ」
「連勤続きだったっけ」
「いや」
携帯が鳴った。メッセージで、カズキから『やり直さない?』という文が軽々しく来ていた。一瞬見てすぐに閉じた。彼は、何も聞かなかった。むしろこっちも見ずに、何も気にして無いようだった。こっちも、こそこそ隠す気はまるで無かった。
静かな私の家に向かうまでの公園で、ベンチには誰一人座ってないどころか人一人見当たらなかった。夜の公園は少し涼しく感じた。
彼の横顔に街灯が当たってつやつやと、光っていた。私の顔は今、彼の顔の影で暗い色に染まっているかもしれない。彼の黒いティーシャツに気持ちの悪い熊の絵が描いてあって、首をかしげた。ちょっとだけにやけた。
「歌いたいわ」
私が言うと
「…歌うか。あーーーーーー」
「うっさいなぁ」
「あぁ」
「涼しいね」
「確かに」
「座る?」
気がついたらベンチの近くまで来ていたので、ベンチを指差した。彼はこっちの目を見て、なにかたくらんでるみたいな笑顔を見せた。
ベンチに座り、さっきより近くで彼の顔を見ると、カズキの顔が何故か思い浮かんで本気で吐き気がした。携帯をもう一度見た。のどに何かが詰まってる感覚がした。
「眠たい」
「涼しいからじゃない」
「うん、ねむい」
私は彼の肩にもたれかかった。彼は無表情のまま正面を見つめていた。
「なんか歌ってもいいよ」
「今は歌いたくない」
「あっそ」
「疲れたの」
「疲れてないって言ってたじゃん」
「あのさ」
「…」
「太郎さ」
「…」
「…」
「いいけど」
「やっぱやめた」
それから彼は無言で何も喋らなかったので、少し疲れたフリをして「帰りましょう!」と言った。聞けばいいのに。「お名前は?」のその一言が聞けないのは不安すぎるからだった。昔同じ場所で、私は野生動物みたいに彼を威嚇してたっけ。そんなようなことを、ふと思い出した。帰って寝る前に彼とセックスをしたがこの前のカズキとの夜と全然違った。幸せで嬉しい気分になった。だが、罪悪感は無かった。
次の日の朝、なんだか具合悪くなりそうになるのを堪えて、カズキに「ごめん」と返事をした。『また会ってくれる?』とすぐに返事が来たので私は「もちろん」と返した。ああぁ。何がしたいのかしら。私、どうしたいのかしら。
その夜はタルトの更衣室の鏡で、自分の顔をじっくりと見つめていた。赤い口紅を塗った。ここのオーナーの私物だった。安っぽいビーズで出来たのれんをくぐって、真っ黒なオカマが入ってきた。そんなことも気にせず、私は自分の顔を見つめて何重にも重ねて口紅を塗っていた。
「やけにでもなっているの。マリンちゃん」
この方は、タルトというこの店のオーナーだった。名前はもちろん、タルトさん。店で、私の名前はマリンと言った。一番最初にココに迷い込んだ夜。イライラした私はこの方に赤ワインを口から思いっきりぶっかけた。
黒い顔が赤黒く染まって、何もリアクションは無かった。吸ってた煙草の火も消えたようで、大きなピアスから赤い不気味な雫がたれていた。暗い店内で、ピアスだけが濡れてテラテラと光っていたのを思い出す。私はタルトさんから目を離さなかった。タンクトップの端からちらちらと刺青なのか、タトゥーなのか見たことも無い動物がうごめいてた。そんなこと、どうでもよかった。ワインをぶっかけたことだって特に、意味なんて無かったが
タルトさんはあの夜、色っぽく口角を片方上げた。
「やぁねぇ」と言いながら私の頬を思いっきり殴った。すごい力だった。私は壁までぶっ飛んだ。しばらくして、笑いが止まらなくなった。久しぶりにたまらなく面白いと思ったのだ。
タルトさんに裏に無理矢理引きずられてるときに、スポットライトが当たったステージの上を見た。綺麗な女の人が、変な格好をして歌を歌っていて。私はそこから目が離せなくなった。何故か赤いワンピース姿のお母さんが連想されたが、私にはステージの上が輝いて見えた。
裏の更衣室に連れてかれたはいいものの、ずっと笑いが止まらなくて困ったものだった。タルトさんは、そんな私に怒鳴るわけでも殴るわけでもなく。不思議そうな顔もしないでじっとりと見ていた。
しばらくして急に笑いが止まると、私はタルトさんに話しかけた。
「きらきらしてた」
「?」
「ステージの女の人」
「そうゆう場所なの」
「こんな部屋に連れてどうするつもりよ」
「ぶん殴ってぐちゃぐちゃにしようと思ったの」
タルトさんはなんの迷いも無くそう指の骨を鳴らしながら、私の目を見つめていったので私は噴出すように笑った。
「まさか、タルトってあなたの名前ですか?」
「そうよぅ。可愛いでしょ」
「うん!可愛い!」
心からそう頷くと、タルトさんは妖艶な笑みを見せた。
「お子様にもわかるのねぇ。やだわぁ。嬉しい」
「なんでぶん殴って、ぐちゃぐちゃにしないの?後でするの?」
「しないわよ」
「なんで?」
タルトさんは真剣な顔で、私の目を見た。
「もうぐちゃぐちゃよアンタ」
失礼な。
またもや笑いが止まらない。タルトさんはオカマなのに、どの行動も色っぽくて魅力的だった。肩から、カタツムリと虎とトカゲが混じったような意味不明なタトゥーがちらちらと見えた。こうなってみたい。と思った。私も、きらきらしたい。始めてそんな事を思ったので、私はとっさに
「手下になる」
と言った。
「手下?」
「子分にしてよ」
それから、なんとなく私がうんざりしてることをタルトさんに話しまくってみた。初めて、こんなに人に心を開いて話をした。タルトさんは、リアクションがいちいち大きかったが、最後には静かに微笑んで私を子分にしてくれた。マリンと言うのは、タルトさんがつけてくれた名前だった。
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