第11話

すごく簡単に言うと、母は自らどろどろした赤い部屋を幸せな家族の住む部屋に戻してしまい、また赤が好きになったらしかった。

解離性同一障害という病気だった。私は、そんな話どうだってよかったので、すぐに話も聞かず病院を出た。腫れた頬がまだじんじん痛かった。ていうか思ったの。きっと、私も別の病気だと。

コミュニケーション 障害ね。

なんちゃって。

何も考えてないとはこのことだ。疲れていた。コンビニでガムを買って、くちゃくちゃ食べた。財布の中の、命にしか変えられない三千四百五十円。少し家から歩いたところにある公園のブランコに座り足をぶらぶらさせていた。片方の鎖にもたれかかり、風船ガムを作った。とにかくダラダラしていた。風船ガムが、割れたと同時に叫んでしまいそうになった。

母が居なくなった。いや、かぞくが居なくなった。

居なくなるってわかっていても、寂しいものでした。急に電車に乗って、飽きるまで降りないということを無性にしたくなった。私は駅のホームに立ち、ただただ電車を待ってぼーっとしていた。寂しいけれどしばらく母のことを考えるのは、やめにしたかった。お父さんが居なくなったときは、たくさんお父さんのことを考えたかったのに。寂しいから。

悪循環。

「つまんない。つまんない。」

ボソボソと一人で喋るのが癖になっていた。電車に乗りっぱなしで、席が空いても座らなかった。人間観察をする余裕も妄想をする余裕も無かった。ツマンナイ。ツマンナイ。耳がぼわぼわした。「がたん」の「が」の字すら聞こえない。だが私はまともだ。

『次は高円寺』家の最寄駅でちゃんと降りるということが出来た。

空を見て歩いていた。もう夕方だった。

「つまんない。つまんない。」

上の空とはこのこと。

ふと視線を目の前に戻すと、見覚えのある顔があった。いかやき売り場に居た男だった。頭がボサボサでこんな時間に寝起きのようだった。まあ、私も変わらないか。男は、私を見るなり頭の上に視線を移した。リボンの、確認のつもりか。

「シーッ」と威嚇する猫のような音が出た。私は男に威嚇をした。爪が長ければ引搔いてやりたかったし牙があれば食いちぎってやりたかった。カメムシだったら臭いの出してぶっかけ。

むかつく。無視して家に帰り、窓際にぺたんと座った。

お腹が鳴ったので、舌打ちをして自分の腹を殴った。何度も、何度も。

この野郎。この野郎。いたい。この野朗。

冷蔵庫からトマトをひとつ取って、丸かじりした。冷蔵庫は真っ赤では無く、トマトはひとつしか入っていなかった。口の周りが汁マミレになるが、なんの味もしなかった。狂ったように、むしゃぶりつくす。だんだん、笑いが止まらなくなってきた。口の周りが、かゆかった。ティッシュをたくさん乱暴に取り、口の周りを拭く。そのティッシュをそのまま無理矢理口に押し込み、トイレに走った。

吐いた。暗かった。トイレは暗かった。叫びたくなった。吐くのは、苦しいから嫌いだった。涙が出るから嫌いだった。

しばらく自分の吐いた便器の中のオーロラを見つめていた。オーロラに見えた。幻だなんて思わなかった。オーロラよ。これは間違いなく、オーロラ。便器を思いっきりぶん殴る。割れたような音がしたが、割れない。天を仰ぐ。何も見えない。天井にも、オーロラが…

「この世の…」

ぽつん、と呟く。天井にカエルがうじゃうじゃ張り付いているのが見える。ああ、あぁ。嗚呼、もぉ、。私は自分の髪の毛を両手で鷲掴みした。

「この世の、全てに腹が立つっ!!!」

そう大きく叫んで下着のタンスをこじ開け、ブラジャーを窓から全部外にぶん投げた。耐えかねて外に飛び出した。冷たくて、静かな私は出張に行っていた。ドアに鍵も欠けず全力で走った。住宅地から商店街に抜ける途中で、歩道橋の下に整列する自転車たちを思いっきり蹴っ飛ばしてドミノしてから、助走をつけてジャンプしておもいっきり踏んづけた。端によせてあった一番ボロそうな、鍵の無いママチャリにとっさにまたがり、全力でこいだ。

「どいつもこいつも邪魔くせぇぇええ!!どけー!!ブスども!!ザコども!!ゴミが!!なめやがって!!ふざけやがって!!」

あてもなく怒鳴りながら全力で人混みを掻き分けた。お母さんもキチガイなんかじゃない。お父さんだって。ほら、見てみ。私がきっと、キチガイだ。

唖然としている人。私を見て恐怖に怯える人。そんな人ごみの中に、いかやきの男が居た。いかやき男は私を見て、からかうわけでもなく心の底から大爆笑して息ができなくなっていた。彼の笑顔がキツネみたいに見えて気味が悪い。キツネのお面のようだ。声も出さずこちらを見つめて笑っている。手を叩くわけでも無く、立ったままびくとも動かない。声を上げるわけでもない。腹が立つがそれより、気味が悪い。

「前を歩くのが、のろいやつ!息や体がくさい奴!なぜかべたべたするやつ!声が癇に障るやつ!」

世の中でむかつくやつの名前を叫んだ。

「目の上かぴかぴ野郎、綺麗事もらい泣き女!ブサイクいちゃいちゃカップル!よわいものいじめ!」

心も体も大激走していた。全力だった。ああ、見てますかね、あの日おもらしパンツを脱いで台所を片付けた鉄腕アトムの娘よ。あなたは鉄腕アトムの娘なのです。いいえ、鉄腕アトムじゃない頃から。

愛と、勇気と私は絶交中。なんだか泣けてきた。なんだか泣けてきたわ。

少しだけ私の視界にまた、きつねのような気味の悪い顔をした男が見切れて、とっさに「しね!」と叫んだと同時に私は自転車のまま壁に激突した。

横転した私は、真っ暗闇の中で「ストン」という音を聴きながらただ横たわっていた。自転車で私が突っ込んだのは汚い商店街の、古臭くて汚くて狭い道だった。野良猫の鳴き声が一瞬だけ聞こえてそこからは、また懐かしい白い空間でカラフルなカエルのおもちゃを足でつぶして遊んでいた。

「…さむ」

寒さで目が覚めた。夜中だった。暗い路地だというのに、レイプすらされていない。なんて薄汚いんだ私は。自転車は無くなっていて、上にコートがかけられてた。黄土色の少しよれたコートで、柔軟剤のにおいがした。きっと心優しい誰かがかけてくれたのね。少しだけ心が温かくなった。狭くて汚い路地には猫のほかにも、変な虫やらトカゲやらきっとたくさん居た。体が痛かった。ヒザから精一杯血が流れて乾いてかさぶたになっていた。両膝だ。しばらくスカートは履けない。

はっとなってポケットの中を探した。定期入れがお尻のポケットにいつも通り狭そうに入っていた。私は眉間にしわをよせて他のポケットを探した。財布が…無い。さんぜんよんひゃく、ごじゅうえん。

「クソ!!!」

私は腹を立てとっさにコートを地面に投げつけた。

気がついたらお金も全く無いのにあのラーメン屋さんのカウンターに座っていた。「いらっしゃいませ」いつものイケメンの店員さんが私の目の前に水を置く。私は、まっすぐと店員さんの目を見た。ずーっと、ずーっと見てそのうち、水くらいいただいておこうとコップを持った。

コップのふちに何故か、胡麻がついていた。私は一口も飲んでいないどころか客もガラガラで、どっかから胡麻が飛んでくる気配も無かった。胡麻をじっと見つめて胸の奥から「イライラ」と聞こえた。そんな声が急ピッチで追っかけてくる。

「ご注文は…」

遠慮がちに、無愛想に店員が私に話しかけるのでそちらを見た。

「ありません」

はっきりと言った。

「…」

「…」

しばらく見つめあう。

「…困りま「胡麻がついてます」

これまた、はっきりと言うと店員はやっとコップに目を向けた。しばらくの沈黙の後、また店員は私を見る。

「…あの「胡、麻」

私は負けない。目をそらさなかった。タダになるだろうなんて思っちゃいないしお金をくれることも無いことだってわかっている。ていうより、タダになったとしても胡麻が怖くて怖くて食えやしないわよ。

「お皿を、ちゃんと、洗いま、しょう!!!!」

私は立ち上がる。

「以上!」

なんか言えよ。

なんか言えよ、てめえ。これじゃただのクレーマーよ。

喉がカラッカラじゃボケ。

家に帰って死んだように寝た。夢の中で、お母さんとコロッケを作っていた。台所に立つ私は、まだ小さくて背伸びがちだった。小麦粉、タマゴ、パン粉。順番につけて、お母さんに渡す。お母さんは、グロスでつやつやした綺麗な唇を歪ませる。私の顔を見て微笑んでから、しゃがんで目線を合わせた。パーマがかったふわふわの髪の毛からお母さんの匂いがした。シャンプーの匂いだ。お母さんはいつもシャンプーの匂いがするのよ。お母さんは、私の頭をなでると、寂しそうな顔をして突然、私の髪の毛とほっぺたを握りつぶ

目覚めた。

早朝だった。薄暗くて、涼しかった。外に出たくなった。口の中にティッシュを入れて、くちゃくちゃと噛んだ。何も持たず、鍵もかけず外に出た。いつも通る公園のフェンスにタックルしたい衝動にかわれたが、やめておいた。ぼーっとしていた。

ベンチに座った。特に何もせずボーっとしていた。ぼーっと。ぼーーーーっと。ぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

はあ、ねむい。

「何してんの」

声にビックリして目覚めた。気がついたら、座ったまま寝ていたらしい。ふと声のほうを見ると、あきらかに「走りに来ました」という格好のいか焼き男が現れた。そう。

【 いか焼き男が、現れた!】

「…なんなの」

「…なんなの?」

「みんな死んでよ」

吐き捨てるように、目も見ずに言った。

「うぜえ。まじ。うぜえ」

目を見てはっきりと言ってやった。真顔だった。彼も真顔だった。私はあらためて立ち上がり、彼の目の前に立つ。

「うぜえ。まじ。うぜえ」

もう一回。はっきりと言った。すると彼も表情を変えず、しばらく見つめあった。すぐに飽きて、また私はベンチにだらりと座った。なんとなく、自分の足の先を見た。もちろん、何にも無かった。何にも起きなかった。

無愛想に、彼が「あっそ」と言ったのが小さく聞こえた。しばらくの沈黙のあと、どこかで見たことのあるように彼が私の目線に合わせてしゃがんだ。私の顔を見たが、私は目も合わせず遠くを見ていた。早くどけろよと思うまでも無く、イライラも何故かしていなかった。無心とは、こうゆうことなんだって今思えば、そうだ。

「うぜえ・まじ・うぜえ」

彼がボソッと私の目を見て言い返したので、私はガムのようなものを噛むのをやめ、ふいにそちらを見た。

「…」

「…」

「…あぁ?」

どす黒くて大きな声が出た。と、同時に

お腹が鳴る。私は彼の目を見ながら、とっさに

「お腹すきました」

あの頃のように。突然1秒で土下座をした。

彼が連れてってくれたのはとある24時間の、定食も出しているようなマニアックなチェーン店だった。メニューを見ただけで、よだれが吹き出そうだった。ていうか、吹き出た。迷いに迷って、コロッケ定食。正直、この男は気に入らないとさえ思わないほどどうでもいいので、私は猫もかぶらず警戒もせず素直にワクワクしていた。もうはしゃいでいた。

出てきたコロッケ定食は、バカなのかと叫んでしまいそうなほど美味しかった。美味とはこうゆうことね。彼が何を頼んだとかそんな事はどうでも

「うっっっま!!!」

一口食べた瞬間彼が大声を出したので、びくっとした。コロッケと二人きりの世界に入り込んでいた私は、夢から覚めた気分だった。

彼は私の存在も無視してゆっくりと口に運び、そのたび衝撃的な顔で首をかしげながら「えっ?」「えぇ…」と言った。私はそれを気がついたらじっと見つめていた。彼が食べてたのは、さほど興味が無い焼き魚だったが私は彼のオーバーリアクションによって焼き魚の熱狂的ファンになりそうだった。こんなに素敵なコロッケ定食が目の前にあって、奢りなのに。私はおあずけを食らった気分だった。

ていうか、誰。

「…あのさ」

「あ、なに」

彼が突然普通のトーンでこちらを見ながら返事する。

「ひとくち」

「…は?」

「おなかすいた」

「…あんじゃん、それ」

「…たべたい」

「図々しいな、死ねよ」

「…」

「…」

「ケチぃ!!!」

「食えよしたら!うっとうしい」

私は嬉しくなり、蔓延の笑みで箸をそちらに伸ばして焼き魚を取った。ひとくち、口に運ぶ。いらっしゃいませ、私の口の中へようこそ。焼き魚。異常に普通の味で機嫌が悪くなりそうだったのでそこからはコロッケと仲良くした。皆様、知ってた?

リアクションとは、エンターテイメントなのです。

特に語り合うわけでもなくただご飯を、奢ってもらった。

外はさっきまで早朝とはいえ空が水色だったのに、それがまんまと灰色に変わって雨が降っていた。彼がレジでお金を払っている間、何故か錆びている曇りガラスの外を見つめた。ドアを開けると、「ザー」というより「ぴちょん」の大集合が爆音で聞こえた。

ああ、つい最近まで必死に違うことを考えようと妄想の中で生きていたというのに。今は現実に必死だった。何故かカズキの『空のこと、大好きなのに』というセリフが、顔が、頭の中でずっと完全再現されていた。

不愉快だとは思わなかった。つまりは、好きでも嫌いでもなければいい思い出でも悪い思い出でもない。腹も立たない。図に乗るなと頭の中で暴言も吐いたりしない。

『オナニー大好き』と真顔で連呼する私と、それを見てポカンとドン引きする顔面爆発女…あ。顔面合成大失敗ギャルも今はたくさん頭の中に生息してた。本当は、笑ってほしかったのか。どうでも良くなんか無かったのか。そんなこと、わかりゃーせん。

つまりは、とんがり終わったのだ。私は。

「邪魔なんだけど」

後ろから彼がどついた。こいつだってそうだ。名前すら知らなければ一緒に飯を食ってる理由さえわからない。不愉快でも愉快でもない。

これならとんがっていた方が色々と便利だった気がした。

店の前の少しだけ古びた道は、もう早朝と呼ばれる時間は少しばかり過ぎたのに天気の悪さにより薄暗かった。人通りはほとんど無くて、もう一回店の中を見ても朝帰りの水商売の姉ちゃんか、おっさんしか居なかった。

私はぼーっと彼を見つめていて、気がついたら雨に濡れていた。

「何」

「え?」

「ぼーっとしてんの」

「してない」

意外とはきはきと声が出る自分に少し驚いた。少し前の私なら、こいつを家にでも連れ込んでセックスでもしてたんだろうな。

その辺の路地裏でも。そうゆう雰囲気になるようにわざと振舞ってたかもしれない…あ、わかった!思春期だったん

「傘は」

彼が言ったと同時に雷が鳴った。柄にも無く少し一瞬震えた。わざとでは無い。

「傘」

聞こえてるって言うのに大きな声で彼が言った。

「あるよ」

「どこに」

「…家!!」

「…」

自信満々に言った私を見て、聞こえないけど彼は舌打ちをしたようだった。

「ごちそうさま、あばよ」

そうアホっぽい台詞を笑顔もなしで叫ぶ。私は何も気にせずべちゃ濡れのまま家まで歩いたが即ダサい感じでずっこけた。彼が追っかけてくる様子は無かった。正解。正解です。

というより、彼もランニング中のためきっと傘が無かった。

空を見上げて雨を飲んでしまおうと思ったが、想像しただけで吐きそうになったのでやめました。

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