第10話

朝起きると、母は寝ていた。

何も変装せず昔のままだった。長いまつ毛を見て、そういえばこうゆう顔をしてたなあと思った。「おはよう、お母さん」と昔みたいにおデコを叩いてみる。

年の割に赤ちゃんのようなツルツルの肌をしている。母はびっくりして目を見開く。私は面白くなって笑った。

「学校、行くの」

眠そうに母は目をこする。昨日はあれからちゃんと、風呂に入ったらしい。化粧が完全に落ちきっていた。

「いってきます。」

「早起きね、空は。いってらっしゃい」

あくびをしながら母が、また布団に包まる。このクソ暑いのに、と思い母を布団の上から叩く。いつも通り急いで髪の毛を束ねて、玄関を出た。

空が真っ青で気持ちよかった。スキップしたくなった。なんだかニヤニヤした。今日家に帰ったら、床や台所のトマトを全部綺麗にしよう。母と一緒に。そんなことを考えていた。久しぶりに、とんがってる自分と離れていた。

めずらしくご機嫌な私に、前の席のブスなギャルが笑っていた。それに気付いて私が真顔になると「めずらしいですね」とおどおど言った。「別に」と、私はカズキを見るような目で可愛く微笑んだ。カズキの視線にも気づいていた。あれからあいつは常に私を気にしていた。思春期によくあるお話です。

そ、ん、な、こ、と、は。

どうでもいいのよ。

機嫌が良すぎるのだ。私は当たり前という言葉が何より好きだった。電車では我慢出来ず歌い出していたし、帰り道は、我慢出来ずスキップしていた。

世界中のみんな、大好きよ。

夕焼けが綺麗だ。

いつものラーメン屋も、もう行く気にはならなかった。美味しくないから。それも、当たり前の話よ。

家の前のゴミ置き場の前で立ち止まる。ぐちゃぐちゃのトマトが詰まった大きなゴミ袋が何個かあった。夕焼けに照らされて、きっとご近所さんからすれば衝撃的な光景だが、私は最上級に嬉しくなった。空っぽの冷蔵庫と、幸せな家庭の部屋の床を創造した。

「ただいま」

私は大きな声で言った。台所のトマトがもう片付いていた。お父さんが生きてた時の、家に戻っていた。懐かしいにおいがした。母が、片づけてくれたのね。

お母さん。

お母さん!

「おかえり」が聞こえず、もう一度言った。

「ただいまぁ」

冷蔵庫を開ける。新品のトマトが、ひとつだけになっている。私は笑い転げた。お母さん、おかえり。

母の声がしない。寝ているのか。居ないのか。それとも前向きに買い物でも行っているのか。またもやクローゼットを開けた。居ない。いろいろなところを覗き込む。なんだか、鼻歌を歌ってしまいそうだ。何気なく私は、トイレの個室のドアを開け、何気なく便座のふたを開けた。

大量のカセットテープが、水浸しになっていた。

じり

じりじりじりじり

体が固まった。脳みそが一瞬にしてコンクリート詰めになった気分。鼻の横あたりの筋肉がピクピク動いて気持ちが悪い。カセットテープの中身は、きっと、

りんごの唄だ。

「~♪」

お風呂場から聞き覚えのある鼻歌が聞こえ、ぞっとした。見なかったことにしたかった。無かったことにしたかった。何も起こってません。何も。これで、終わり。終わりでしょ。頭の中のモンスターたちに助けを求めた。顔でかヒールに80歳のおじいちゃん。ああ、こんなにも私には仲間がいるはずなのに。誰も出てこない。今や、頭の中の仲間が光に包まれ横並びで整列して私を見守っている。その中に、お父さんも居た。

なんで助けてくれないんだと文句を言ってやりたかった。皆様の背景から、白い光が漏れていた。お父さんが、「そら、下。下。」と私の足元を優しい笑顔で指さす。

落ち着け、落ち着け。恐る恐る、足元を見た。

つぶれたカエル。

助けて、助けて、お母さん。

私はいきおいよくお風呂の扉を開けた。

鼻歌が止まる。真っ白の壁に、赤い水がたくさんはねていた。

視線を落とすと、母はこちらを見た。リボンをしていた。ワンピースも着ていた。楽しそうに、片手にはあの時の果物ナイフが握られていた。両足を洗面器にいれて座っていた。洗面器には赤い水がはってあり周りにも飛び散っていた。

「あら、おかえりなさい」

私は言葉を発せなかった。口を開いてもいないのに顎が外れそうだ。母の目は充血していて、化粧もまるでぐちゃぐちゃだった。震えが、震えが止まらない。

「見て」

嬉しそうに、母は洗面器から足を上げる。赤い水から上がった母の足は深い傷がたくさんついていて、見覚えのあるような刻まれ方をしていた。

「…いかやき」

なるほど

心臓の音が聞こえる。私の、心臓の音だ。

お母さんから生まれた私の、心臓の音だ。まぎれもない。

笑顔の母は、奇妙なくらい黒い目をしていて鳥肌が立った。目を見開いたままそらせず、動けず、息もできなかった。水の中にいるみたいだった。苦しかった。私、エラ呼吸じゃないんですけど。地上に、出してよ。出してくれ。

お父さんの笑顔が一瞬だけぼやけて見えた気がした。「そら、下。下。」って聞こえた気がした。

ゆっくりと、足元を見た。

みっともないほど可哀想な、あの時の、つぶれたカエルが。

ぐ っ ち ゃ ぐ ち ゃ !!

「なんで?なんで?なんで?なんでなんでなんでよ!!!お母さん!目を覚まして!お母さん!お母さん!お母さぁん!!戻ってきたじゃない、昨日、戻ってきたもん。お母さん!なんでよ、戻ってきて!戻ってきてよ!!帰ってきて!おかあさぁん!」

感情が爆発して、母の胸ぐらを両手で掴んだ。冷静な私が居なくなった。、よくわからなくなった。母にしがみついた。必死だった。怖かった。どうしたらいいのか、わからない。冷静な私が、戻ってこない。誰も冷静な私を呼んできてくれない。

お父さんも、空から私のことなんてきっと遠くて見えない。小さくて見えやしない。夜空の星も、きっとお父さんじゃない。あんなの所詮、大きめの石のカタマリだって知っている。なぜだろう、突然愛と勇気だけが友達の、あの方の頭が高速回転している夢を見た。怖い。来ないで。戻ってきて。おかあさん。みんな。なんで

なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで

「…嫌よ」

今度は、母が冷静に言い放った。こちらを見ずに、ぼーっと正面を見つめていた。

時が止まって、私ももがくのをやめた。とても冷静に戻れそうではなかった。冷静とはなんでしょう。冷たくて、静か。それって、正義なのかしら。

静寂。

カラスの鳴き声が、小さく響いて。恐ろしく感じる。母にしがみついた両手に、かすかに力を込めた。洗面器の赤い水に、蛇口の透明なしずくが

ぴちょん。

「嫌よ」

真正面を向いたまま母が突然、か細い声で静かに笑い出した。私はそれを、じっと見つめていた。小さな笑い声が、風呂場に響いた。水が滴り落ちたって、ぴちょん、という音は、私にはまったく聞こえなかった。

そのうち、母は真っ黒な目でこっちを見た。なにか違う生き物と目を合わせたみたいだったが、そのうち、母がいつもの優しい顔に戻っていった。少し潤んだ目で切ない表情をしたので、お父さんが入院してた時を思い出した。

しばらくして、母はまた静かに笑い出した。

両手で、私のほっぺたを触り鼻歌を歌っていた。私の顔は、母の手によって優しく包みこまれていた。されるがままに、母の目を見つめていた。母の瞳が黒いのに、恐怖は無かった。悲しくて、悲しくてどうしようもなかった。次第に母の目がうつろになっていった。鼻歌は、異常なくらいどんどん大きな音になった。母は、歌を叫んでいた。

突然母は笑うのをやめ、歌うのもやめた。片手で私の髪の毛を掴んだ。すごい力だった。もう片方の手で、ほっぺたをちぎれるんじゃないかって位鷲掴みされた。憎しみの顔に変わっていく母を見て、腹をくくった。やっと、冷静な私が戻ってきたのか。冷たくて、静かで。

怖いよ。

私は、だるい、重たい、面倒くさい、怒られる、つまんない、痛い、ということが嫌いだった。つまりは、普通の人間のお話です。なんて素直でしょう。

それから母は、なぜか私の顔を平手で殴り続けた。開いた手に、優しさはなかった。私を見る目にも、悲しさと憎しみしかなかった。私の頬は痛み、私の瞳はきっと、うさんくさいうさぎのいる月で出来ていた。ぴしゃん。ぴしゃんと

何度も。

ぴしゃん ぴしゃん

震えもしなかった。私からしたら母のすべてが、普通の人間のお話でした。そうゆうことに、してあげたかった。もう、戻ってこなくてもいいよ無理して。だって、仕方ないんだもの。戻ってきてなんて言った私は、ばかだ。世の中に、本当に仕方のないことなんかたくさんあるわ。とにかく頬が、痛い。全部全部、痛くて痛くて死んでしまいそう。ただ、それだけ。それだけの話よ。

赤いりんごに唇よせて

私を殴ってる途中で眠くなったのか、母は寝てしまった。

私は母の足を手当てして、布団まで運んだ。腫れた自分の顔を鏡で見て、何事もなかったように冷凍庫の保冷剤で冷やした。外はまだ真っ暗で、時刻は23:40。今日が、終わっていく。

あまり、覚えていない。

窓を開けて、外の空気を吸った。何も考えてなかった。空っぽだった。深呼吸をする。ぼーっとしていた。

えらくぼーっとしていたので、いつ寝たのか、いつ布団に入ったのかなんて覚えちゃいなかった。

朝が来ていた。早朝は、すがすがしい涼しさで静かだった。漫画みたいに小鳥が鳴いていた。

寝ている母を見た。化粧がぼろぼろだ。髪もぐちゃぐちゃ。格好だって、ひどいや。睫毛が、やっぱり長かった。笑いもせず、母の顔を見てしゃがみこんだ。母の頭から、リボンをこっそりはずしてポケットに入れた。片方の目頭に、一瞬だけ燃えるような、ひんやりした感覚がした。よくわからなかった。下唇を、ちぎれるんじゃないかって位に一瞬噛んで何かを飲み込んだ。軽く深呼吸。深呼吸だ。

ティッシュを口の中に入れ外に出た。まだ少し薄暗かった。あてもなく少しだけ、ゆっくりと散歩した。水色の薄暗い空に、澄んだ空気。朝だ。

朝だ。

私は、冷静。

私は、ポケットから携帯を取り出し電話を掛ける。プルルル、と5回鳴ってようやく、出た。

番号は、110番。

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