第9話

気がついたら、バイト帰りによく行ってたクラブに突っ立っていた。

いろんな色のライトに照らされ埃が浮いているのをなんとなく見つめる。踊りもせず爆音の中宙を見つめていた。外国人が話しかけてくる。近い、吐息がかかって気持ちが悪くなったので睨みつけてお酒を瓶で横取りし、走って逃げた。爆音のはずの音が、何も聞こえない気持ちでいた。

外はむしむしとしていた。不愉快でたまらなかった。横取りしたお酒を瓶ごと一気飲みして瓶は壁にぶん投げて大きな音を立てて割った。

次の日ティッシュを口の中に入るだけたくさん突っ込んで、赤い口紅を口にぐちゃぐちゃに塗ったくって学校に行った。謝ろうとでも考えたのか朝、家にカズキが来たが母が出た。ドアを開けた赤を身にまとうの母の姿とぐちゃぐちゃの部屋の中を見て失禁でもするんじゃないかってくらい怯えた顔でカズキくんは逃げた。もうどうでもよかった。帰りにまたクラブに行った。今度は踊ってみた。踊るというよりも、自分と格闘していた。自分とは自分だが、自分とは誰でしょう。私は結局キチガイにはなれず、そこで自分がまともじゃないのに気がつくことが出来てしまった。本物のキチガイとはそれに気づかず誇りを持っているものだが、私はその瞬間なんだか少し楽しい気分になった。やっとキチガイになれる。って思ったのに。

帰りに公園で、お祭りがやっていた。

屋台臭い雰囲気の中、イカ焼き売り場のでっかい文字を見つめて立ち止まる。「いかやき」と懐かしいひらがな四文字。ああ、イカ焼きが食べたくて食べたくて仕方がない。小さい頃お父さんと食べたのを思い出した。ドライブと称して、お父さんの助手席であてもなく走った。自然いっぱいの森みたいな場所に車を止めて、車のトランクを開けてそこに座った。後から何故かそこにお墓がたくさんあるのに気づいたのよね。お墓でイカ焼きを食べるという複雑な心境。思い出す。

嗚呼。

今度は自分がまともだということに気付いてしまいそうだ。

「すいません、一つください…あー、ふたつくらい適当にください」

財布をゴソゴソとあさる。キチガイの定理に気づいてしまいそうだった。足元に、つぶれたカエルはもういない。心の中の暴風がおさまった。なぜか、頭の中に「赤い屋根の家」という童謡が流れた。

「あ…」

後ろから声がして、振り返った。若い男で、全く見覚えがなかった。リボンを指差す彼。どの記憶を辿っても、どうしても知らない顔だった。

「どちら様?」

私が多少とんがると、彼はリボンから私の顔に目線を下げた。

「…なんでもありません」

間違えたような顔をしていたが、しばらく私の目から目を離さなかった。怯えてもいないようだ。なんて腹が立つ。そらすのが負けな気がして私はじっと睨みつけていた。時が止まったかのようだった。

「どちら様?」

声を張ってみた。イライラした。きっと憎しみに満ちた顔をしていた。別にこの人に何をされた訳でもないが私は人に長時間見られるのが嫌いだった。やっぱり私はお父さんに似ている。お金を払って、イカ焼きを受け取る。見てんじゃねえよ。てーか誰だよ。

「見てんじゃねぇよ」

声に出した。自分でも驚くほどドス黒い声だった。無視して家に帰った。帰り道、とてつもなくイライラしたが、これまた早いとこ冷静になった。深呼吸をして、空を見上げてから袋の中のイカ焼きの匂いを嗅ぐ。お父さんの匂いがした。忘れてるかもしれないが、私は中学校、高校くらいまで家族が大好きだった。

今でも変わらなかった。しいて言うなら、世界中の家族以外のやつを馬鹿にしていた。

「ただいま」

家の中には、りんごの唄が響き渡る。私は、わかっていた。

薄暗い部屋でご機嫌な母が、窓際にペタンと座りトマトを眺めていた。「おかえり」とこちらも見ずに腐りかけの熟れたトマトに夢中だった。窓から涼しげな風が入ってきていた。夏の虫たちの声も聞こえてきた。もう、夏も終わってしまうのだろうか。私はしばらく母を眺めた。母は、私と同じ「人間」という種類の「キチガイじゃない科」だと信じたかった。いや、信じたかったよりも、そうなのだ。

「見て、イカ焼き買ってきた」

「わっ」

母の声が極端に高く裏返る。私の方をやっと見た。私は母の近くに座り、袋をあさる。

私が袋からイカ焼きを出すと、それを母は黙って見ていた。そのうち、母の手からトマトが落下してべちゃっと音がした。私がイカ焼きを差し出すと母はしばらくそれを見つめてから、お父さんを思い出したのか昔の優しい顔に戻った気がした。

「お腹すいたでしょ?すいてない?」

「…」

「まあそんなことはどうでもいいのよ」

母は私の差し出すイカ焼きを不思議そうに目で追っていた。母は、しばらくぼーっとそれを見つめる。なかなか受け取らないのでそれを床に置き、入れ物から自分の分を取り出して食べ始める。「いただきます」と手を合わせると、母は私に視線を移した。少しだけ驚いた様子だった。

久しぶりに食べたイカ焼きは美味しくて、母と食べる久々のトマト以外の食べ物も新鮮だった。母は、家でトマトしか食べてないというのにガリガリに痩せてるわけじゃなかった。つまり母は、狂っちゃいない。どっかで、戻ってる。生きようと。

そのうち、母はイカ焼きを開けて食べ始めた。二人で、窓の外の星を見ながらイカ焼きを食べていた。

「…美味しい」

母が言った。私は、泣きそうになるのをぐっと堪えて「そうだね」と言った。いつも聞いているはずなのに母の声を久しぶりに聞いたような気になった。自分の感情を誤魔化すように、自分の頭のリボンを外した。唾をごくんと飲む音が響いてしまったが母は何も言わなかった。

母はキチガイになりたかったんじゃないかな、と思った。キチガイや病気じゃなくて思春期の中学生にもよくある「現実逃避」ってやつなんだ、きっと。私が、都合が悪くなったら見る夢とそっくりの話だ。部屋でかかっているりんごの唄だって、趣味で音楽を聴く人の異色バージョンよ。きっとそうだわ。

「ありがとう」と母が食べ終わって入れ物をゴミ箱に捨てる。つまりは

母は、普通の人間。

私も。

今夜はぐっすり寝れそうだ。

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