A県警察I警察署生活安全課巡査部長 北沢隆典

 一番始めは一宮――そこだけは鮮明に、あとはナレーションで潰されほとんど聞き取れない。

 午後三時。ビニールハウスの中ではラジオパーソナリティの軽妙なトークが続く。

「勤務中だ。話は手短にな」

 北沢きたざわ隆典たかのりが遠慮も入れずに煙草に火を点けると、横井よこい大翔ひろとは子供っぽい笑みを浮かべて指を一本突き出す。北沢は舌打ちをして箱から一本出してやる。

 ろくに味わいもせずに煙を吹かすと、横井は周囲に人影がないことを確認してから、真剣なのかふざけているのかわからない半笑いのような顔で、

「人が生き返るって、信じます?」

「帰るぞ」

「待ってくださいよぉ、マジなんすって」

 横井は五年前、地元で有名な不良だった。とはいえ勢力争いや殴り込みなどのあからさまな暴力沙汰が起こる土地でも時代でもない。ただ単に、自分のテリトリーでデカい顔をし続けることができたにすぎない。

 そんな馬鹿としょっちゅう警察署で面を向き合わせていたのが北沢だった。月に一回は交番や一宮署に突き出される横井を取り調べるのがいつからか北沢の役目になっていた。キタさんの言うことは聞くから――というのが同僚たちの言い訳だったが、別段北沢が個人的に目をかけていたわけではない。

 ただ、最初に取り調べをした時に親の職業を訊ね、自分の記憶と結びつけた結果、なるほどと納得したのだった。

 横井の家は、全国から取り寄せ依頼がくる、品質の高さを謳う高級フルーツ農家だった。

「やくざになる気はあるのか」

 北沢がこう訊ねると、横井は目を丸くしてぶんぶんと首を横に振った。自分の行いの末路が極道だなどと考えたこともないのだとよくわかる。

 単なる子供だ――北沢はこう結論付けた。

 裕福な家庭。安泰な未来。これが約束された上での、その場のおふざけが過ぎているだけ。性根は腐っているが、大きな害はない。

「あまりやりすぎるな」

 最初の取り調べの最後に、北沢はそう言って横井を家に帰した。

 それ以降、横井は北沢にだけは従順になった。北沢が「わかっている」と本能的に察したのだろう。

 北沢は単に面倒な仕事を増やしたくなかっただけである。それも警察官としては、看破できない犯罪行為を繰り返す横井を未成年を理由に見逃し続けるという、決して褒められたものではない判断を行っている。現に横井に泣かされ、実際に被害を受けた相手は存在している。だがそこは不良の勘というやつか、横井は絶対に被害届を出さないであろう相手にしか手を出さなかった。

 闇に葬れるのなら、葬ったほうが楽だ――それは長い警察人生の中で、北沢が得た結論だった。

 高校を卒業して暫くはまだふらふらとしていた横井だったが、やがて実家を継ぐことにした。教えておいた携帯電話の番号にそう連絡がきた時は、面倒事が一つ減ったとしか思わなかった。

 ところが今日、その携帯電話に横井から着信があった。面倒なので応答もせずに切ってやろうとしたのだが、替えたばかりのスマートフォンの操作にてこずった結果、通話状態になっていた。

 仕方がないので電話に出ると、お久しぶりの挨拶も抜きに、キタさんに相談したいことがある――と迫られた。面倒事なら警察に行けと突っぱねたが、こんなことを相談できる人はキタさんしか思いつかないと嘆願というよりはおべっかを使われて、毎年中元と歳暮をもらうだけもらっている義理もあり、こうして横井の家まで出向くことになった。

 家の中にいた横井の母親に顔を見せると、明日の出荷のためにハウスで作業中だと教えられた。待つのも面倒だったのでビニールハウスに踏み込むと、真っ黒に日焼けした横井が喜色満面で籠を抱えていた。

 そして午後三時――現在。

「高校ん時、俺より頭悪い奴って結構いたんすよ」

 本当に相談事かと北沢は煙草の灰を足元に落とす。畑の土の上だが、横井も気にすることなく吹かしただけの吸い殻を足で潰している。

「そん中で一番キモくて生意気な奴がいて、むかつくから何度かボコしてやったんですけど――ああ、まあこの話はいっか」

 北沢が苛立ち始めたのに気付いたらしく、横井は本題に入る。

「そいつ、去年に交通事故で死んだらしいんすよ。ニュース見てたら聞いたことある名前の前に『死亡』って書いてあって、まあウケましたね」

 どうでもいい、サンドバッグ程度にしか思っていなかった相手の死によって良心の呵責を覚えるような人間ではない。北沢が睨んだのもそれを責めるためではなく、話を手短に纏めろという催促だった。

「でも三日くらい前、名古屋歩いてたら、そいつが歩いてたんすよ。人違いじゃないっす。あのキモさは間違いないっす。で、気になって高校ん時のツレとかに聞いてみたんすけど、やっぱり交通事故で死んだで確定みたいで。弟か兄貴かとかも思ったんすけど、そいつ一人っ子らしくて、そんなこと聞いてたら妙な顔されるし、あー、次会ったらボコってやりてーって思って」

 つまり、去年死んだはずの男が街中を歩いていた、イライラするので相談に乗ってほしい――というだけの話らしい。

 他人の空似がいいところの、聞くに値しない話だ。一応名前と高校の頃の住所は控えて、北沢は一宮署に戻った。

「キタさん、さっき公安の里田と刑事課の山内が仲良く二人できたんですけど」

 自分のデスクに座ると同じ生活安全課の竹内が悪意のある笑みを浮かべて話しかけてくる。北沢は眉を顰めて続きを促す。公安課と刑事課が協力することは少なくないが、両者揃って生活安全課までやってくるというのは妙だ。

 とは言え話を始めた竹内を始め、生活安全課の面々もにやにやと笑っていることから、どうせくだらない話だろうとは思っておく。

「それが、ここ数年で死んだ人間の目撃情報があったら教えてくれって言うんですよ。事件がなさすぎてとうとう捏造でも始める気なんじゃないですかね」

 竹内が言うと何人かが低く笑う。あの二人デキてるんじゃないか――公表のために全部の課を回ってるんだろ――嘲笑とともに吐き出される罵声を聞きながら、北沢はさてどうしたものかと思案顔になる。

「山内」

 刑事課でそう声をかけると、疲れた顔をした若い刑事が返事をして駆け寄ってきた。ここに配属してからすぐに柔道でさんざん揉んでやったので、北沢には頭が上がらない。

 事情を聞くと、こちらもどうも要領を得ない。

「いや、県警のほうからそう訊けってお達しがあって。公式には出せないし残せないから口頭でってわざわざ念を押された上でですよ。おかげで一番若いって理由で里田なんかと署内を回らされますし、最悪ですよ」

 しかもその協力要請の理由は全く秘されているのだという。わけのわからない上からの命令に従うには山内は若すぎるし弱すぎる。

 死んだ人間を捜せという上からのお達し、しかも理由は明かさない。気が滅入りそうになるほど面倒な臭いが漂ってくる。そしてあろうことか北沢はどうやらその情報を一端を手にしてしまっている。

 勘弁してほしい――来年で定年、これまで頭もろくに出来上がっていない若いだけの馬鹿を相手に怒鳴り散らし、何事もなく警察官人生を送ってきたというのに、最後の最後にこんな面倒事を抱え込むことになるとは。

 しかし、まだ確定したわけではない。横井の言うことであるから、信用が全く置けないのは当然である。

 とにかく、この話を山内や上に伝えるのは得策ではない。相手は理由も明かさずに協力を促すような手合いである。情報提供者として一体どれだけ時間を奪われるのか、恐らくは想像もしたくないような最悪の答えが待っている。長く組織に所属しているが、面倒の度合いを嗅ぎ分ける鼻がひん曲がりそうになるのはこれが初めてだった。

 世迷言だと放置しておくことも考えたが、横井がほかの者にも話さないとは限らない。さすがに警察関係者に話すような真似はしないだろうが、噂と化した場合に警察が横井に辿り着いたとしたら――まず間違いなく北沢の名が挙がる。それは一層面倒だ。

 横井の証言であるという前提からすれば、これは明らかに虚言である可能性が高い。ならば北沢がすべきことは、それを実証することではないか。横井の証言が全くの無価値であると証明できれば、安心してなかったこととしてしまえる。無論その時には横井にきちんと調べたと恩を売り、他言無用と言いつけておく。

 控えておいた住所は、古い平屋建ての一軒家だった。家の前に立つだけで古い家特有の饐えた臭いがして、北沢は声に出さず悪態を吐く。

 チャイムを鳴らすと、五十絡みの太った女が出てきた。身体の大きさに反して血色は悪く、目の下には黒い隈が浮かんでいる。北沢はその女の右手の甲を見て、音を立てて舌打ちした。

 女は胡乱な目で北沢を誰何する。警察手帳を見せて、ただの世間話だと断りを入れてから切り出す。

「旦那は?」

「二十年も前に離婚しました」

「親は」

「二人とも死にました」

「男はいんのか」

「こんなおばさん、相手にする人はいません」

 不躾な質問に素直に答えるのは、北沢に気圧されたわけではない。単に、反論する気力すら湧かないのだ。厄介だとは思いつつ、北沢は本題に切り込む。

「息子は」

「死にました」

「居んだろ」

「死にました」

「中に居んだろ。そんな痣、誰がつけんだ」

 女の右手に浮かぶ痣――恐らくは全身に同じものがある。日常的に暴力を振るわれている証拠だが、女に暴力を振るう相手――家族が存在しない。玄関には女ものの履物以外に、男もののサンダルが、昨日の雨で濡れた状態で散らかしてあった。存在しないはずの相手の影が見えているのなら、世迷言と断じるわけにはいかなくなった。

「いいかい、あんた、俺ぁなにも悪いようにはしないって言ってんだぜ。秘密は守る。都合の悪いことがあんなら上にも黙っておいてやる。だからよ、一つ聞かせてくれや」

 そっと肩に手を置いてやる。はねのけることはしなかった。いい具合に弱っている。

「あんたの息子、生きてんだろ」

 北沢がおざなりに優しい声で問うと、女はわっとその場にくずおれた。

「あの子――あの子は死にました。確かに死んだんです。でも」

 かえってきた――その嗚咽が喜びではなく悲痛なものだったのを、北沢は思い切り渋面を作って受け取った。

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