警視庁交通部交通捜査課巡査 安村龍造

 泥のように起きた――そんな目覚めだった。

 中途半端な覚醒を何度も繰り返し、ずぶずぶと泥濘に浸かったまま抜け出せない状態が延々続く。再び寝ようと思っても余計な思考が割って入り、起きるには瞼が重すぎる。そのまま気付くと浅い眠りにすら入ることができない、しかし頭に泥の詰まったような目覚めに達している。

 アンサモンの際に生体パーツとして使われたことによる脳と全身への負担は覚悟していたが、案外どうにかなるものだと稲は洗顔と化粧をしながら思う。この目覚めは、あれからずっとそうだったからだ。

 稲に与えられた自室。六畳ほどの広さに、ベッドとデスクワーク用の机。それ以外には特に何もなく、入口横のドアからは洗面所とユニットバスに通じている。

 毒者である稲に対する特別待遇がこの部屋だった。個室である上に通常よりも広い生活スペース、バス、トイレ付。必要があればテレビその他も用意すると言われたが、断った。デスクワーク用のパソコンに制限はかかっていないので、暇つぶしや「なろう小説」のチェックはそれで事足りる。

 社会に出た女性がノーメイクであることをこの国は認めない。そうは言っても稲は別段化粧で飾ることが好きではないので、申し訳程度の薄化粧だ。

 朝食は施設内のコンビニでサンドウィッチを買ってすませた。さすがに国家機密の施設に食堂を作ることはできなかったらしい。コンビニならば工事現場などに出店する業者が存在するので、それを買収している。

 午前九時には昨日の結果と今後の方針についての会議が始まる。あと一時間以上あることを確認し、稲は別棟へと向かう。

 稲は毒者であるがゆえに、全幅の信頼は寄せてはもらえない。稲とナローシュが共謀すれば、文字通り世界を滅ぼせるだけの力を振るえるからだ。無論稲にそんな気は毛ほどもないが、可能性を論じるのは絶対に必要である。人間の、それも思想や感情が引き起こすことに想定内などということはあり得ない。最悪という言葉ですら生温い想定をして、それを上回る危機に対する管理を行うのが当然である。

 そのために必要な別棟入館手続きをすませ、稲は目当ての人物が生活している、稲の部屋と同じ構造の一室のドアを開けた。

 死んだ目で机の上のディスプレイを眺める男が、稲が声をかけるとその場で飛び上がる。

「ひっ、氷川さん! 待て、今何時だ……?」

「おはようございます安村さん。昨日お送りした報告書は読んでいただけましたか?」

 昨夜、眠気を強引に抑え込んで作成した佐藤吉輝の報告書。それを添付したメールにある一文を加え、この男の眺めていた端末にも送信した。

「へ? あ、きてます、ね……。すみません、パソコンでアニメ見る時は通知切って全画面主義なので……って、今、朝ですか?」

「はい。現在時刻午前八時十六分です」

 稲がその場で無言のまま立っていると、男は見る見る顔を青くして、パソコンのディスプレイを占有しているアニメのウインドウを消し、立ち上げすらもどかしいように焦燥しながらメールをチェックする。

「――すみません」

「いえ、返信がないので、こうして様子を見にきただけですから」

 見る間に縮み上がる男は、怖気を振り払うように立ち上がるとユニットバスに駆け込んだ。

「ただちに仕度します! 外で待っててください!」

「わかりました」

 部屋を出て待つこと数分。出てきた男は警察官の制服を着込んでいる。

「安村龍造りゅうぞう巡査、準備完了です」

 この男こそ全ての発端。最初に死亡者の特徴と死因、そして「なろう小説」との因果関係に気付いた警視庁交通部交通捜査課所属の巡査――安村龍造。

 安村の報告書を真に受けることにした政府がまず行ったのは彼の身柄の確保、そして軟禁であった。

 安村自身、この異常事態に確かな危機感を覚えていたものの、まさかお上によって拘束されるなどとは露ほども思っておらず、わけのわからないままこの施設に連行された。

 そこで安村にナローシュという危機が伝えられると、彼は即座に毒者というシステムについての仮説――それは現在特定大規模テロ等特別対策室で用いられている――を打ち立てた。

 それは豊田スタジアム崩落テロを行ったテロリストを発見、掃討した際に、相手のナローシュと思われる男が何の反撃にも出なかったという謎への解答であった。毒者の観測下でのみ、ナローシュは力を振るえる――制圧されたテロ組織の中に「なろう小説」の読者がいたこともあり、この仮説は定説として受け入れられた。

 以降、安村は毒者の立ち位置からナローシュの特性を分析する役割を担うこととなったのだが、それにはもう一つ理由があった。

 特定大規模テロ等特別対策室は当初、安村を毒者捜査官として登用する意向であった。

 ところが、彼はあまりに毒者に染まりすぎていた。

 いつナローシュに共鳴して反旗を翻すかもわからない――入念に行われた精神、思想、思考の診断結果から、安村はそんな危険人物だと結論付けられた。安村自身、それを否定しなかった。

 そのため、捜査官として用いることはせず、厳重に身柄を拘束した状態でアドバイザーとして扱うこととなった。本人は理解はしたものの、この処遇には不満を漏らし続け、趣味のラジオと警察官として勤務していた頃には時間がなくほとんど視聴できなかったアニメの映像ファイルを与えておくと一応は部屋の中で大人しくしている。

 その安村に稲がメールを送った理由は単純明快、彼に今から二十分後に始まる会議にアドバイザーとしての出席を依頼したからだ。

 稲はなりそこないの毒者である。確かに毒者としての知識や思考パターンは会得している。ただ、その間隙にはいつも非毒者である良識が割り込んでくる。

 対して安村は人格に問題ありとまで断じられた、生粋の毒者である。稲が理詰めで無理矢理咀嚼しようとするところを、この男はなんとなくで丸呑みにすることができる。その差は想像以上に大きい。

 報告書に記した佐藤吉輝の特徴から、安村なら稲以上の見解を引き出せる。報告書を読んだのかと訊ねると、大急ぎで、と返された。三百万字を超える「なろう小説」を一晩で読破したと豪語する男だ。安村の読むスピードが凄まじいのか、その「なろう小説」がスカスカなのかはさて置き、あの程度の文量ならば先程の時間に目を通せただろう。

 別棟から本棟への連絡通路で手続きを済ませる。入館手続き時に安村の招集という目的と、それを昨夜伝えて認可しておいてもらった一柳のサインの入った書類は見せておいたので、入る時よりはスムーズに事が運んだ。安村には発信機や警報装置などの役割を果たすマイクロチップが埋め込まれているので、ナローシュとさえ顔を合わせなければ一応は安全である。無論、佐藤の行動できる範囲はごく限られており、そこに安村が近付けば即座に警報が鳴る。

 会議室の末席に安村と並んで腰かけると、集まった面々を見て軽く眩暈がする気持ちだった。

 いくつかの省の大臣、首相補佐官、警察庁長官、陸上幕僚長、各省の事務次官――ある意味閣議よりも重大な事態に向き合う体制であるとさえ言える。

 そしてこの面々を纏める議長を担うことになった一柳――大出世とも言えるし、あまりに重い肩の荷でもある。

 一柳は稲の報告書に基づいて逐一説明と補足をしていく。昨夜ナローシュ強制還起システムの発動に成功。アンサモン第二号佐藤吉輝、その生前の詳細な来歴。そして彼が転生あるいは転移した異世界と彼の持つ力についての発言からの推測――これは今後の尋問を元に追って詳細に報告する――。

「しかしですよ」

 柿本かきもと忠弘ただひろ警察庁長官は、この場の者たちをねめつけるように見回す。政治家や官僚と同じ国家公務員ではあるが、警察というある種隔絶された組織の長である柿本が居心地の悪さを覚えるのは無理からぬことではある。

「ナローシュを運用する必要が、本当にあるのですか。先のテロの実行犯は全員拘束、その中のナローシュと思われる人物はここで検体として処理されたはずです。アンサモンシステムも解析し、破壊した。別のテロ組織が新たにナローシュを獲得することは考えにくい。ならばこちらに存在するナローシュこそが、ある意味最大の脅威なのでは」

「安村巡査、説明を」

 一柳に指名されて、安村は喉の奥で潰れた悲鳴を上げる。一介の巡査風情が警察のトップに口答えをする――しかも事前の打ち合わせもなしにである。それだけ一柳が安村を評価しているという証左なのだが、本人にしてみればたまったものではない。

「は、はい。えーっとですね、アンサモンシステムの開発、入手経路は現在不明のままです。先のテロ組織の誰も口を割らなかったし、どれだけ調べても研究開発資料は発見できず、不自然な金の動きも見当たりませんでした。アンサモンシステムが裏で流通している可能性は否定できない状況なわけであります。つまりいつまた再びナローシュがその猛威を奮うのか全く予期できず、そのための備えとして、こちらも同等の戦力を保持しておくことは必要な措置であると考えるわけであります」

 一礼して、着席する。柿本は顔は覚えたぞ――とでも言わんばかりの鋭い視線を投げている。安村はその視線に気付かないふりに徹するため、手元の資料を食い入るように見つめていた。

「無論、このナローシュを保有するという行為が大きな危険を伴うことは我々も理解しています」

 当然だと稲は歯を食いしばる。

「しかし、対ナローシュのためにナローシュを運用する是非については議論が尽くされたと判断しております。その上での反対意見は、聞くに及びません」

「いや、今のはそちらの落ち度だと思いますよ、一柳さん」

 憤然と目を光らせる柿本に代わって声を上げたのは、国崎くにさき守道もりみち陸上幕僚長であった。

「特定大規模テロ等特別対策室の性質上仕方のないことかもしれませんが、少し秘密主義の度が過ぎるのではないですか。先程の情報は、我々も初めて聞くものでした。こうも重大事を隠し続けられては、こちらの隊員を安心して動かすことすらできませんよ」

 温和な表情を保ちながらも、目の奥が笑っていない。厄介な相手だということは一柳も感じ取ったようだった。

 だが説明役に安村を使った時点で、こうなることを見越せない一柳ではない。

「度が過ぎていなければ、我々は立ち行かないのです」

 ですが――一柳は小さく笑い、咳払いをする。

「議論は尽くされています。ナローシュに関しては我々に一任し、我々があなた方外部への応援を求めた場合、あなた方はそれを受け入れる。そう決められているのです。理由は単純、ナローシュに関するありとあらゆる情報は、絶対に外部に持ち出してはならないからです。ナローシュの存在、アンサモンシステム、ナローシュの持ち得る破壊力、もっと言えば豊田スタジアムの惨劇の真相まで、全ては秘匿されなければならない。万が一、ナローシュについての情報が洩れれば、いかな事態が起こるのか――安村巡査、いくつか例を」

 これもアドリブ。それも安村が的確かつ、相手の予想を上回る回答を行うと見越した上での。

「ええ……まず、ナローシュはそれ一つで核兵器以上の破壊力を持つ場合がほとんどです。これが公表されれば、世界の軍事バランスは破綻します。それと――自分もナローシュになろうとする層が現れるかと思います」

 呆気に取られる面々。そう、普通は理解できない。それが、「なろう小説」なのだから。

「なろう系に染まった層に、なろう系を読まずにネタにしている層でさえも、本当に死んだあと異世界に転生できるのだと知れば、さっさと死ぬ者は、相当数いるでしょう。実際、そのパターンが導入として用いられる『なろう小説』もあるくらいです。自殺者はあっという間に膨れ上がります。あるいは、国を揺るがすレベルで」

「馬鹿な。そうだとしてもそんな連中はどうせみんなニートだろう。ならばむしろ国のためになる」

「彼は地方公務員の『なろう小説』読者ですよ。偏見は捨てたほうがいいかと」

 一柳が引き継ぎ、目で安村に着席するように促す。

「ナローシュの情報をほんの一部でも漏らすことは、すなわち国家存亡の危機に繋がります。当然この場にお集りの面々はそのことを重々承知のこととは思います。立場上守秘義務には人一倍敏感な方々ばかりです。今回皆さんにこのことをお話ししたのは、特定大規模テロ等特別対策室を、どうか無条件で信頼してほしい――その認識を末端まで行き渡らせていだたきたいと思ってのことです。本来ならば、ナローシュについての情報をあなた方に公開することも許されなかった。これは我々の精一杯の誠意なのです」

 散会し、挨拶と見送りすませたあとで、一柳は苦笑した。

「山場は越えましたかね」

 悪い男だと心中で称賛しながら、稲は低い駆動音を立て続けるアンサモンシステム保管区画に置かれた椅子に腰かける。

 ナローシュの情報を外部に開示することは求められていたわけではないが禁じられていたわけでもない。その間隙を縫って、一柳はナローシュの情報の内部秘匿化の都合をつけてしまった。

 それはつまり、特定大規模テロ等特別対策室の権限をさらに強め、外部組織と一方通行の関係を築いてしまおうという一柳の企みにほかならない。

 この男の持つものが遠大な野心なのか、ただひたすらに国に報いる想いなのかは稲には判断しかねる。ただ一つわかることは、特定大規模テロ等特別対策室の職員、技官、捜査官を、なによりも第一に考えているということだった。あの日の出来事は、その覚悟と責務を一柳に抱かせるには充分すぎた。

「室長ぉ……酷いですよ。長官閣下の前であんなこと言わされるなんて……自分には捜査一課入って難事件を解決するっていう夢があったのに……」

 安村が泣き笑いのような顔をして稲の隣に座る。

「いいじゃないですか。当分警視庁には戻れません。それこそ、年単位の活動を覚悟してもらわないと。給与はこちらのほうがいいでしょう?」

 いい、というレベルではない。特定大規模テロ等特別対策室職員の給与は国家公務員特別職に相当する。稲は特別捜査官であるために破格の給与を受け取っている――無論、それは常に命をさらけ出していることへの待遇である。

 稲とは違い捜査官にはなれなかった安村も、その人権侵害同然の処遇や、毒者の手綱を握る意味も含めて、かなりの額を受け取っているはずだ。

「そうは言っても、別棟からは出られないし、金の使い道なんてないですよ」

 不平ではあるが、軽口の度合いが強い。安村と一柳は上司と部下というよりは、戦友のような信頼関係を築いている。それは二人が同じ出来事に、強く心を痛めているゆえであった。

 ただ、稲は笑い合う二人を見て、素直に感心することはできなかった。

 正直に言って、この痛みは、自分だけのものであってほしかった。それほどまでに深く、惨めに、稲の心は切り裂かれている。それと根を同じにする痛みが、コミュニケーションツールの基盤として使われていることに、憤激にも似た感情を覚える。

 もちろん、そんなものがひとりよがりのわがままだということは承知している。痛みを乗り越えていかなければ、人は病んだままだ。そして稲はどうしようもないほどに病んでいた。

「室長、よろしいですか」

 榎田が端末を持って現れ、一柳が頷くとそれを空いたスペースに置いた。

「ここを見てもらえますか」

 見るとどのプログラム言語とも違う、滅茶苦茶な文字列が並んでいた。

「これは――ブラックボックスの解析結果ですか。いえ、僕にはなんのことやらさっぱりなんですが」

「はい。問題はこの画面に出ている唯一の数字です」

 ――5。

 文字列の中に唐突に現れるその数字は、いやな存在感を誇っている。

「恐らくですが――アンサモンの回数を表していると思われます」

 一瞬で全員から血の気が引く。

「連中、ほかにもナローシュを……?」

 稲が冷静に情報と現状を照らし合わせ、結論を出す。

「我々が処理、監視していないナローシュが一体、存在することになります」

 絶句する一同の中、いち早く我に返った一柳が落ち着いて指示を出す。

「榎田さんは引き続き解析を。正確性を高めてください。氷川さんは有事に備え佐藤吉輝の調整を速やかに。私はまず、愛知県警と連携、ですね」

 慌てたところで、アンサモンされたのは相当前である。可及的速やかに行動を起こすのは当然だが、必要になるのは密やかな捜査の手である。

 稲のやるべきことは一柳に言われたことにほかならない。佐藤を早急に実戦に投入できるようになるまで調整することだ。

 またあの男と話すと思うと気が滅入るが、どうせすぐに行わなければならないことはわかっていた。その時間的猶予が失われたにすぎない。

 暴力は中途半端では反逆の種を蒔く。信頼関係を築くにはナローシュの人格は歪みすぎている。全く難儀なことだと稲は泥の詰まった頭を切り替えた。

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