特定大規模テロ等特別対策室長 一柳全司

「お疲れ様でした。お怪我はないですよね?」

 佐藤を部屋に押し込めると、稲はアンサモンシステムが構築された区画に戻る。榎田の気遣いに頷くと、現れた見るからに官僚然とした髪型とスーツの壮年の男性と向き合う。

「室長、報告書は速やかに作成します」

 一柳いちりゅう全司ぜんじ特定大規模テロ等特別対策室長は穏やかだが含みのある笑みを浮かべ、まあまあと稲を宥める。

「いいじゃないですか。僕は直接氷川さんからお話を伺いたいんですよ。なにせ僕の知識は『エヴァ』止まりですから」

 それで歩み寄ろうとしているのか――呆れるも、自分の知識が前時代で止まっていることを理解できているだけマシだろう。自分が精通していると自負しているにわかほどを扱いづらいものはない。

 この対策室が設立されるにあたって、最も難航を極めたのは人材集めだった。

 議員、官僚、公的な立場の研究者――そうした人間の中に、「なろう小説」の知識を持っている者は予想以上に少なかった。いたとしても、年齢が若すぎる。非公式とはいえ公的機関を設立する以上、ある程度の地位を持った人間が上に立たなければ示しがつかない――そんな間抜けな理論で、立ち上げが遠のいていく中、真っ先に手を挙げたのがこの男――文部科学審議官を任じる一柳全司であった。

「私はオタクです」

 一柳はまず、こう声を上げたという。はったりもいいところだ。『新世紀エヴァンゲリオン』で知識が止まっているような人間がどうしてこの現代にオタクを名乗れよう。それもあとで聞くところによると新劇場版は見ていないという。

 ただ、知識が止まっているのは上のお偉いさん方も同じだった。『エヴァ』の名を出せば、あっ、こいつはオタクだ――と勝手に勘違いしてくれたという。

 文部科学審議官より高い地位の人間は見つかりそうにもなかったことから、とんとん拍子で一柳は特定大規模テロ等特別対策室の室長に収まった。権限は当然持っているが、対策室の性質と一柳の本来の役職上、実質的にはほとんどお飾りの肩書も同然ではある。それでもいざという場合は全ての責任を負うことになる立場に自ら名乗り出た気概はさすがのものである。

 そして一柳は実際、すでに責任を負っている。自ら清算できない重荷だと宣言し、それでも逃げはしないと気炎を上げたその時の一柳を見て、稲は信用できるかはともかく、信頼はできると判断した。

 そうは言っても、報告書として上げることをその前に口頭で説明するのは二度手間だ。それは一柳も承知しているようで、少し声を落として、

「報告書には上げられない点を、教えてもらえればと」

「陰口ですか」

「いいえ、それは違いますよ。ナローシュを運用する以上、相手のパーソナリティの把握は重要です。実際にナローシュと組むことになるのは氷川さんですが、万が一に備えて僕も把握しておきたいんです」

 パーソナリティの把握――稲はぐっと歯を軋らせる。あの悲劇も、結局はそれに尽きるのだ。そしてその責任を全て負っている一柳が、それに気付かないはずがなかった。

「――ありがとうございます」

 稲が頭を下げると、一柳はいやいやと手を振る。

「感謝――いえ、謝るべきなのは我々ですよ。氷川さんに危険を全て背負わせているんですから」

「大丈夫です。私は――絶対に、容赦も、躊躇もしません」

 言葉を己の身体に刻み込むように、稲は声を震わせる。

「そうでしょうとも。ですが、どうか落ち着いてください。佐藤吉輝について、あなたの所感を忌憚なく述べてもらえれば」

 大きく、だが音には出さずに息を吐いて、稲は頷く。

「典型的なナローシュ――いえ、これはNo Any LAW Servant Hazardではなく、原義としてのナローシュといったところでしょうか。彼は彼の転生した世界において、間違いなく最強だった、それがあらかじめ約束されていたとのだと思われます。レベルやスキルを上げたと述べていますが、これは努力というよりは、そうあれと定められた、あるいは結果がわかり切っていたからゆえの作業でしょう。それゆえ、非常に傲慢であり、自分に恭順しない人間の命に価値など見出せない、必要不要問わず殺してしまえるだけの倫理観の欠如が見られます」

「それは報告書でも書ける表現でしょう。僕が聞きたいのは、あなたの個人的な感想です」

「では――佐藤吉輝は、間違いなく最低下劣の人間です。できることなら、速やかに殺処分すべきと主張しています」

 榎田がさすがに言い過ぎではないかと不安げな視線を送るが、一柳は深々と頷いた。

「ですが、あなたはそれをしない」

「――はい。国家の安全保障にすら直結する重要人物だということは理解しています。私の個人的な感情よりも優先すべきことである以上、私は当然それに従います」

 アンサモンはその及ぼす危険性から、そう易々と行えるものではない。またナローシュも、その戦力は使い道を変えてしまえば国家を揺るがしかねない。佐藤をアンサモンした時点で、稲には佐藤を適切に運用する義務が生じている。それは毒者としてこの対策室に来た時から決まっていたことだ。そこに感情を挟む余地はないし、稲もそのつもりだった。

 そもそもナローシュを運用するということが稲との性格の不一致を招くことは最初からわかり切っていたことだ。稲は完全な毒者ではない。それを理解した上で、稲はこの任に就いている。

 稲の本来の役職は厚生労働省職業安定局雇用政策課長補佐である。毒者であることが露呈したわけではない。稲は単に、指名されたのだ。その結果毒者であったことが判明したに過ぎないのだが、その指名の意味を稲は何よりも重く受け止めている。

 一柳は稲のその決意が、単なる使命感ではないことは見抜いているのだろう。だが、それを口にすることはない。稲が官僚然とした責務を果たす意思を見せているのなら、それを後押しする。稲にとっても、そちらのほうがやりやすい。

 心を開くことはせずとも、互いの利害の一致だけで、歯車は回る。機構とはそうできているのだから当然である。

「結構。ですが、まず優先すべきなのは、あなたの生命だということはどうかお忘れなきよう。あなたはいわば、切り札です」

 俯きながら頷く。なりそこない――それはそのまま、強力な利点となる。

 稲は完全な毒者ではない。「なろう小説」を読み始めたのも遅かったし、なによりで読み始めたこともあり、完全に没入することはできなかった。だがその結果、批判的な視点を保ったまま、細部まで分析する――それは何が面白いのかを含めて――頭への切り替えを扱えるようにまでなっていた。

 それゆえ、稲は毒者であることと、毒者でないことを、自分の頭の中で切り替えることができる。

 それは批判的な目を持ちながら読むことができるということではない。「なろう小説」の摂取による愉悦と侮蔑――この二つを完全に同時に使い分けるだけの、矛盾した精神を持っているということだ。

 あとで我に返り、自分の読んでいたものを侮蔑する――多くの読者が辿るそのルートではなく、読みながら現在進行形で楽しみ、同時に蔑むという矛盾を成立させる。

 完全な没入も、批判ありきの分析もできない。はっきり言って、ただただ辛いだけの読書体験。

 稲はそれを会得していた。それはひとえに、楽しまなければならないという強迫観念ゆえだったのだが――。

 ナローシュを運用する場合、毒者による観測は必要不可欠となる。だがそれはそのまま、ナローシュがいつ毒者に牙を剥くかがわからないということでもある。毒者はただの人間であり、毒者の観測下にあるナローシュはチート呼ばわりされる能力を持っている。ナローシュが反旗を翻せば、毒者は太刀打ちのしようがない。

 無論、毒者を殺害したところで、ナローシュは非毒者に観測された時点で力を失う。対策室では毒者とナローシュのバイタルを常時モニターしているので、毒者に何かあれば即座に非毒者がナローシュを処理する。

 そうは言っても、人ひとりの命を常に危険にさらし続けることの危険性は対策室も苦慮していたことだった。そこに現れた稲は、まさにこの問題を解決する切り札だった。

 一人の中で毒者と非毒者をシームレスに切り替えられる人間――それはナローシュの反逆に即座に対処することができるだけでなく、ナローシュから反乱の意思を奪い去ることすら可能になる。

「ということで、今日はもうゆっくりと休んでください。報告書は明日以降でも構いません」

「いえ、報告書は直ちに作成します。それが終わったら――休ませていただきます」

 一柳は穏やかに笑いながら頷き、ではおやすみなさい――と挨拶をしてから自室に戻っていった。仮にも室長である一柳が、アンサモンの成功したこの日にすぐに休めるはずもないのだが、稲をできる限り早く休ませるようにとの気遣いだろう。

「佐藤吉輝に異常はありませんか」

 榎田に言って、並んで端末の前に移動する。付きっ切りでモニターしている若い男の技官がどうぞと画面を見せた。バイタルは正常――入眠中である。

安村やすむらさんは――」

「大丈夫ですよ。別棟のほうで軟禁――いえ、待機中ですし、こちらと別棟の移動の際に必要になるパスも渡していません。不満はずっと口にされているようですが」

「わかりました」

 一度顔を見せに行かなければならないか――そう思った途端、ずんと瞼が重くなった気がした。

「氷川さん! やっぱり、アンサモンの際の負担が――」

 どうやら実際によろけていたらしい。榎田に大丈夫だと断って、とにかく今は報告書を上げるべきだと気合いを入れる。泥のように眠るのはそのあとだ。

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