内閣情報調査室情報分析官 五代衛①

 三河安城駅の存在意義を考えている内に、新幹線は名古屋駅に到着した。

 五代ごだいまもるは隣の座席で寝息を立てている若い男を遠慮がちに揺さぶる。

「安村さん、名古屋です」

「おわっ」

 一度仰け反って、その反動で起き上がる。一人で周章しているのをしり目に、五代は荷物を持ってドアのほうへ向かう。

「あれ? 俺の荷物! ない!」

 親切のつもりだったが裏目に出たか――五代は左手に提げた安村の荷物を顔の高さまで持ち上げ、左右に振る。

 すみませんすみませんと何度も謝りながら、安村は名古屋駅のホームに飛び出した。

「すみません五代さん、三河安城までは起きてたはずなんですけど……」

 五代は手を振って謝罪を受け流す。

「名古屋駅のホーム……と言えばやっぱり」

「観光ではないんですよ。朝食は?」

「まだです」

「わかりました。レシートは出ませんから、経費で落とそうとは考えないでください」

「さすがにそこまではしませんよ……信用ないなあ、俺」

「あなたを信用するのは私の職務放棄ですから」

 苦い顔をする安村と一緒に、ホームの立ち食いきしめん屋に入る。冗談のつもりだったのだが、伝わらなかったか――よく起こるニュアンスの齟齬にも、五代は慣れている。それでもやはりこの落ち込む感覚は毎回起こる。

 朝食を食べてきた五代だったが、安村と並んで入店しておいて何も頼まないわけにはいかないので、一番安く量も少ないきしめんを注文する。安村はしばらく迷っていたようだが、客の回転率の凄まじさに気圧されたのか、かき揚げきしめんを注文した。

「すみません。在来線ホームの店舗のほうがよかったですね」

「いや、これがいいんじゃないですか。雰囲気ですよ」

「いえ、在来線のほうだと、かき揚げが揚げ立てなので」

「揚げ立て!」

 そうなんですよと笑いながらかき揚げの乗ったきしめんを差し出す店員に会釈して、安村は出されたものをがつがつと食べていく。

「そういえば五代さんは名古屋出身なんでしたっけ」

「岐阜です。岐阜市ですから、名古屋の文化圏には取り込まれていますが」

 喋りながら、安村の食べるペースを見極める。立ち食いという性質上、食べ終わった客は即刻店を出なければならない。安村の食べるペースに合わせ、自然に同時に店を出る必要がある。

 安村から片時も目を離してはならない――それが五代が特定大規模テロ等特別対策室より受けた指令だった。

 しかし――温和に笑う一柳の顔を思い出し、五代はなんとも言えない不安を覚えた。五代がスパイであるということを、あの男は本当に理解しているのだろうか。

 五代は内閣情報調査室から特定大規模テロ等特別対策室に引き抜かれた。情報分析官であった五代は内調から様々な思惑を背負わされて出向することになった。五代の能力は、特定大規模テロ等特別対策室で確かに活用されている。五代としてもこの未曾有の危機に自分の能力を使うことは躊躇わないし、それを期待されて内調から送り出されたのも事実ではある。

 しかし、一つの組織にこの事態を全て委ねることに納得しない組織も当然存在する。内閣情報調査室などはその筆頭であった。

 つまり五代は、特定大規模テロ等特別対策室でスパイとして働き、同時に特定大規模テロ等特別対策室をスパイするように仕向けられていた。

 その内情を知らない人間は、恐らく特テ――内調での略称だが、組織内外でも使用する者は多い――には存在しない。内調からの出向者という肩書だけで、誰もが察してくれる。

 わからないのは、その上で五代を排斥しようという働きかけが組織からも人間関係からも起こらないことだ。まさか内閣情報調査室の人間を、情で抱き込もうなどとは思ってはいまい。実際に内調にいた時よりも組織での居心地がいいのは事実だが、それで自分の職務を疎かにするような間抜けではない。五代はすでにかなりの機密を内調へと流しているし、これからもそうするだろう。

 特テは非公式であることを加味しても、極めて閉じた組織だ。そこで五代一人を排斥することなど驚くほど簡単にできるだろうし、外に漏れることもない。たとえ五代が古巣に泣きついても、取り合ってもらえることは万に一つもない。極論、五代が拷問の果てに殺害されようが、公表されることすらない。ここはそういう組織で在ることを国家直々に許されている。

 だからなのか――五代は「三流省庁の蛆虫」呼ばわりされていた一柳が、不退転の覚悟を決めたあの一件を思い出す。

 結局、全てはあそこから始まったようなものだった。想定の甘さゆえに起こった取り返しのつかない事故――本来の官僚の世界ならば責任の押しつけ合いにしかならないその一件の責任の全てを、一柳は自ら引き受けた。

 特テという組織の性質上、それはやむを得ない決断であり、同時に処断だったが、一柳は室長の座に残り続けた。

 逃げはしない――一柳のあの言葉は、特定大規模テロ等特別対策室の全員の言葉に深く刻まれた。

 一柳の決断は、すなわち特定大規模テロ等特別対策室と、そこに所属する全員を、絶対に守り抜くという宣言だった。

 五代もまた、特テの一員である。各人にどんな思惑があろうと、一柳は全員を守りたいと願っている。それはあまりに生温く、恐らくは不可能な夢物語だ。

 だから五代などは不安に思ってしまう。五代という獅子身中の虫を飼うことすらよしとする一柳の判断は、あまりに甘い。加えて特テ内から五代に目を光らせている様子がまるでないのは、いくらなんでも危機管理能力が低すぎる。現に今日も何度も確認したが、自分と安村を尾行している人間すらいない。

 信頼の証明と言えば聞こえはいいが、残念ながら五代はそんなもので懐柔されるような手合いではない。内調だろうが一枚岩であるわけがなく、中には外事課に目をつけられているような人間がいるのも五代は知っている。

 特テを穢れなき組織にしようなどという気は、誰も持っていない。戸籍上死人であるナローシュの人権を一切無視して運用し、テロリストの運用するナローシュを掃討する――この理念の時点で腐りきっている。

 その上で、一柳は狭まった理想を掲げる。人間の作った完璧な組織は歴史上存在しないし、未来永劫現れることはない。だが、その中にいる人間ひとりずつを、彼らの思惑とは関係なく守りたい。そう願うことのなんと愚かなことか――。

「五代さん?」

 タイミングは完璧に合わせた。安村が出汁も飲み干すために丼を手に持ったところで、五代は麺を片付けて出汁を残した。

 他愛のないことから国家機密まで、頭の中で考えを巡らせる場合、五代はそれを一切身体に出さず、身体も淀みなく動かすことができる。今も安村が空になった丼をカウンターに置いたのと同時に割りばしを置いてこれで完食だというアクションを起こした。なんの異変もなかったはずだ。

「なんでしょう」

「いや、申し訳ないなーと。俺から目を離せないから、食べるペースまで調整してくれてたんでしょう? すみません、わがまま言って」

 ほとんど溜め息のような笑みが漏れた。

 安村龍造。純粋な毒者であり、それゆえに捜査官として不適合の烙印を押された男。この男を一瞬でも自由にさせれば、不明ナローシュと接触しテロに加担する恐れあり――それが五代が安村の隣を片時も離れてはならない理由だった。

 だが、それが一部は建前であるということも五代は知っている。一柳室長は、個人的に安村の能力を買っている部分がある。

 毒者であることが判明してから軟禁されていた間の監察期間中、安村に与えられたのはネット環境のあるノートパソコン一台だけだった。ただし有料コンテンツの利用は禁じられていたので、安村は趣味の地方ラジオ聴取や纏まったアニメの視聴ができずに不満を漏らし続けたという。

 そこで行き着くのはやはり毒者というべきか、「なろう小説」の読破だった。毒者であるということの矯正は不可能であるし、毒者を手元に置いておけるのはメリットでもあったので、それは黙認されていた。ただし、あらゆる文言を投稿することは禁じられていたし、開いたページ、滞在時間などは全て記録されていた。

 ある時、安村のPCのモニタリングをしていた技官の一人が、不審な点があると一柳に報告を上げた。それによると、サイトの小説情報ページに表示されている読了時間の実に十分の一ほどの時間で、安村は「なろう小説」を読破していた。無論サイトに表示される読了時間というのは五百文字を一分で読んだ場合という、あまりに曖昧な目安ではある。だが安村のスピードは不審を起こすには充分すぎた。

 これはページを開いていることでなにかを隠蔽しているのではないか――技官の監視システムの穴を掻い潜るだけのスキルは安村にはないはずだが、一応の疑念として一柳はこれを受け取った。

 そこで確認作業――つまり安村が読了した「なろう小説」の内容を質問することになった。感想欄、レビュー欄、その作品に言及したネット上のあらゆる文言を全てチェックした上で、実際に作品を読んでいなければ理解できない点を徹底的に問いただす。

 結果、安村は全てに完璧に回答した。

 それを受け、一柳は公文書を無作為に安村に渡し、この場で即座に目を通すようにと強制した。

 安村が全てに目を通し終えると、一柳はその公文書の内容を子細漏らさず自分に話すように促した。安村は一貫性のない内容に首を傾げながら、言われた通りに寸分の狂いもなく一柳に全容を伝えた。

 安村が書類を読んでから顔を上げるまでのタイムを計測していた一柳は舌を巻いた。安村が文字情報を自身にインプットする速度は、予想通り常軌を逸していた。また、必要とあればそれを相手に口頭で伝えるだけのアウトプット能力も保有していた。ただし要点を文章で纏めることにはかなりの時間を要し、出来栄えも辛うじて読めるレベルで、それは安村が提出した全ての発端となった報告書からも明らかだった。

 場合によっては処理されていたかもしれないはずの安村が毒者視点からのアドバイザーという地位を得られたのは、この一件と一柳の口利きが大きかった。一柳は安村の能力をいたく気に入り、先日の佐藤吉輝のアンサモン成功報告会議の際にもまるで自分の秘書のように彼を扱ったと聞く。

 だが、全員を守りたいなどと抜かす一柳も、魑魅魍魎跋扈する官僚の世界で文部科学審議官まで登り詰めた男である。いくら個人的に安村を信用しようが、彼の持つ危険性を理解していないわけでは絶対にない。

 今回安村があの施設の外に出て愛知県に出張することになったのは、アンサモンされた恐れのある不明ナローシュの識別を任されたからだった。ナローシュは通常の人間の観測下ではその力を振るえない。つまりは毒者が観測することでしか、その人物がナローシュであるという確証を得ることはできない。

 一柳はそう上に説明したそうだが、そんなわけはないと五代は気付いていた。まずナローシュは戸籍上死人であることがほとんどで、本人確認を行って死亡届が受理されていれば判別できる。行方不明扱いになっていた場合でも異世界とやらに感化されたその異常な言動から発見されれば恐らくは断定可能である。死亡扱いとなっていたほうが手続きがスムーズに運ぶだけの話でしかない。

 その上での識別に、基本的に毒者が現地に赴く必要性はない。ナローシュとなる可能性がある死者の顔識別を全国の監視カメラで虱潰しに行うだけの技術はまだないが、死者の目撃情報などという馬鹿げた情報をかき集めることは現場からの反発を度外視すれば可能であるし、実際に全国の都道府県警にその指令は出されている。

 これは現地調査という名の息抜きだ――少なくとも、安村に対しては一柳はそう言外に告げたのだろう。そして五代が即座にその意図に気付いた上で、なにも言わずに監視役を果たすということも見越している。

 ただし、観光のためにわざわざ愛知県を訪れる理由はない。

 豊田スタジアム消滅。史上最悪のテロが起こったここ愛知県は、実行犯たちの潜伏場所であり。アンサモン装置が発見された場所でもある。

 不明ナローシュが現存しているのなら、愛知県内に潜伏している可能性が極めて高い。

 新幹線のホームを出て名古屋駅のバスターミナルまで歩き、市営バスで名城病院バス停。名城――名古屋城の名の通り、この一帯は名古屋城を中心に市の主要な公的施設が集まっている。

 東京一極集中を批判し、代替案として名乗りを上げる割に、ミクロで見ればこの都市も結局は一極集中に堕している。テロリストが狙ったのが「数」でよかった――と皮肉な溜め息を安村に気取られないように吐き、五代は安村と並んで愛知県警察本部へと踏み入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る