Middle Phase 2 -『スプラウト』プラント-

 研究員たちの気配も無くなった。潜入捜査を再開する頃合いだ。

「"赫い男マーチャー"、先へ進みませんか」

 任務中の為、コードネームで父さんを呼ぶ。気を引き締める意味合いで畏まったが、父さんの視線は『スプラウト』プラントの出入り口から動かない。

「待機続行」

 父さんが視線と同じ方向を指差す。

「了解」

 そう答えた直後、視界の端で何かが動く。

「あれは……」


 一人の少女が這いつくばり、床に爪を立てていた。

 骨と筋が浮く身体を丸め、震えながら這う姿は、一見すれば蠢くぼろきれの塊のようだった。培養液と思しき薄緑色が床を滑り、少女が手足を動かす度に水音を立てる。長めの髪と体つきでかろうじて人間の少女だと識別できたが、仮に見分けがつかなくとも全くおかしくない。それほどまでに、彼女は衰弱し切っていた。


「培養槽の不具合か、自力で脱出したのか……?」

「分からない。だが直に見つかるだろう。あの様子でセンサーやドローンを掻い潜れるとは思えない」

 その通りだろう。彼女がどういう目的で這っているのかはともかく、プラントとプラントの間を移動できるかどうかといった様子だ。あのままでは連れ戻されるのが道理なのだろう。

「"赫い男マーチャー"、彼女を……どうしますか」

「……」

 指示を即答してきた父さんが、二拍ほど黙り込み、


「お前はどうしたい?」

「……僕は、」


 感傷だ。

 これはさっきの僕を危険に晒しかけた感傷で、任務遂行には必要のない無駄な考えで、僕を未熟たらしめる感情で。

 それでも。それでも。


「彼女を助けたい、と思う。助け出して、一緒に脱出したい」

「そうか」


 父さんの表情は見えない。少女に視線を向けたまま、僕の意見を聞いている。

「ならば、やってみろ。あの少女はお前が保護するんだ」

「……了解!」

 声は抑えたまま、今までで一番引き締まった声で返事をした。



 少女を抱えて戻ってくる、それだけで事は済む。済むはずなのに、綱渡りのような緊張感で肌が粟立った。

僕たちと少女、彼我の距離は10mほど。監視カメラは父さんが無力化済み。警備ドローンを避ければ、残るは人感センサーのみ。

 呼吸を一度、二度、三度と整える。


「――シッ!」

 浅く息を吐いた刹那、腰を落として疾走する。壁を蹴り床を掴み、音を殺して駆け抜ける。ドローン再周回のリミットは17秒。父さんならいざ知らず、未覚醒の僕は身体能力しか使えるものがない。立ち止まる暇も余裕もないまま前に進む。

 6秒、センサーを宙返りで躱す。これでセンサーは最後。

 7秒、30cmほど前進した少女の元へと辿り着いた。訓練で習った運搬方法で抱きかかえ、すぐさま踵を返す。

 10秒、11秒。このペースなら問題ない。見つからずに戻れる。


「【……ません、忘れ物です。すぐに戻りますので】」


「なっ……!」

 先程まで聞こえていた研究員の声と足音が急激に近づいてくる。完全に不意をつかれた形だ。

 忘れ物? 別のプラントへ向かうようだが、確実にこの廊下を通る。

 13秒。足音はどんどん近づいてくる。埒外からの伏兵。

 14秒。間に合わない。研究員の袖が今まさに見えて――


「――――」


 聞き取れない呟きと同時、血の竜巻で編まれたロープが僕の身体を猛烈な力で引っ張った。慌てて壁を蹴り、センサーを掻い潜る。足早に遠ざかる研究員の足音が聞こえた。

 16秒。果たして、僕は少女を連れ、戻ってくる事が出来ていた。


「父さ……"赫い男マーチャー"。ありがとう」

「礼はいい。無事に保護できたようだな」

「……はい。少女は僕がこのまま運びます」

「分かった。ではこれを」

 父さんの掌で渦を巻いた血は、今度は薄く広がり、薄布のように編まれていく。

「背負い布だ。これで両手が空くだろう」

「……ありがとう」

 多彩な能力を的確に使う父さんは、己を誇示しない。それが僕には辛かった。


 背負い布を片手に持ち、少女を抱きとめる形で話しかけてみる。肌に生気がなく、目と口が半開きだったが、命に別状はないようだ。

「これからいくつか質問をするから、答えて欲しい」

「……」

「苦しいなら声は出さなくていい。長い瞬き一回が『はい』、瞬き二回が『いいえ』だ。できるかい?」

「……」

 長い瞬き一回。分かってくれたようだ。


「お腹は減っているかい?」

「『はい』」

「それなら、携帯食料があるから食べるといい。ゆっくり飲み込むんだよ」

「『はい』」

「怪我をしている所はあるかい?」

「『いいえ』」


 一応確認したが、本当に怪我はないようだ。実験材料の扱いは丁重に行っているのだろう。それだけは不幸中の幸いだ。

「僕たちはもう少しだけ施設を見回った後にここを出る。一緒にここを出よう。もう少しだけ辛抱してほしい」

 少女はゆっくりと頷いた。


 軽く微笑みかけた後、背負い布を使い、少女の身体を固定する。少女の身体は驚くほど軽かった。痛々しいほどに脆く、押せばしぼんで消えてしまいそうな危うさがあった。

 もう一度、己を奮い立たせる。今は無力感なんて感じている暇はない。

 不意の事態を父さんに助けられようとも、未覚醒であろうとも、この少女を保護すると決めたのは僕自身なのだから。



 その後の捜査は滞りなく進行し、残すは少し大きな扉一つとなった。


「不在のようだ。侵入する」

「了解」


 執務室か、あるいは所長室か。デスクと椅子と本棚が一つずつ見える、簡素な部屋だった。落ち着いた色合いの絨毯が音を殺して都合が良い。壁の素材にだけ違和感を覚えたので確かめてみる。

「これは……防音壁?」

「そのようだ」

 この部屋の壁全体に防音加工が施されているらしい。部屋の主は神経質なのだろうか。何にせよ、潜入捜査には都合が良い。


「こちらでは書類を調べる」

「じゃあ僕はデスクを」

 父さんはスタスタと歩み入り、書類を物色し始める。僕も少女をデスクに寝かせ、引き出しの中身を調べてみる。特にめぼしい物品は無く、ノートパソコンもロックがかかっていて手が出せない。ブラックドッグシンドローム持ちの父さんが調べるべきじゃないか、などとつい考えてしまう。所在が無くなって部屋を見回してみた。


 少し広めの間取りを質素に使う道具の配置は、何故かどことなく寂しげに感じられた。本棚に整然と並ぶのは、レネゲイド学に関する文献に、多くの付箋が無数に突き立った書類の束。シンプルなレザーチェアに、横長のデスク。この部屋にあるのはそれだけだった。窓すらも存在しない、簡素な、余りに簡素な部屋。


「そちらはどうだ」


 いつの間にか父さんは部屋の入口に立っていた。書類の調査は終わったのだろうか。それにしては早すぎる気もする。

「めぼしいものは見つかってない。ノートパソコンにロックがかかっているんだ、父さんに調べて欲しい」

「そうか。もうしばらくしたら取り掛かろう」

 父さんは部屋の外を窺いつつ答える。なぜだか口調に張りがなかった。父さんらしくない、悠長にも思える返答。

「でも、部屋の主がいつ帰ってくるか分からない。撤退はいつにするんです?」

「撤退の事は考えなくていい」

「それはどうして……」



「この部屋の主は


 僕の理解が追いつく前に、何本もの血の竜巻が僕の身体を吹き飛ばした。

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