Middle Phase 1 -『アシュヴィン』セル研究所-

 消毒液の独特な臭いが鼻をつく。

 研究所内は草木がこすれる外よりも静かだった。内部は区画ごとに名付けられ、区分けされた研究設備――プラントの集合体であるようだ。それぞれのプラントで独立して研究が進められ、互いの研究データが行き来し、どこかで研究成果としてまとめられる。

 どこが要所か? どこが急所か? どこが難所か?

 実体も定かではなく、そんなものがあるのかどうかすらも分からない。


「(巧妙だ)」

 建物の仕組みそのものにさえ狡猾さが滲んでいる。飲み込まれないように無駄な思考を断ち切り、父さんの背中に続いて進む。

 ただ後ろをついていくだけでは今回の任務に赴いた意味がない。周囲の警戒と同時に、父さんの一挙手一投足を観察し盗まなければ。

 父さんはわざわざノウハウを喋ってはくれず、淡々と歩を進めている。自分で読み取って勝手に盗めという事か。


 父さんの立ち回りを見たのはこれで4回目。いずれも見惚れるような鮮やかさこそないが、堅実さはどんなエージェントよりも優れていると思う。レネゲイドの力を無闇に活用しようとせず、最小限の動きで必要なだけの力を振るう。無駄がなく、油断せず、慎重になりすぎず、速やかに。それが任務達成に最も近い振る舞いだと知っている。

 オーヴァードは自身の異能力を最大限に活かそうと躍起になりやすい。強大な力は使うべきだと謳うように、必要以上に能力を行使する者も少なくない。得てしてそういったオーヴァードは自滅し、人でなしの怪物ジャームに成り果てる。父さんはそれを誰よりも知っているのだろう。UGN設立間もない時期から組織に協力し、戦い続けてきた男は、いつ自分に降りかかるかも知れない多くの悲劇を見てきている。


 微小な監視カメラ、人感センサー、警備ドローンを掻い潜って廊下を行く。このうち厄介なのはドローンだ。複数のドローンが巡回し、行く手と退路を塞ぐ。さしもの父さんも一筋縄ではいかないようで、僕も知覚できるほどはっきりとレネゲイドの力を行使する。


「――」


 何事かを呟くと、父さんの掌で鮮やかな血が渦を巻く。血の竜巻は枝分かれして全てのドローンを包み、隙間も無い機械の内部へと染み込んでいく。何かが焦げるような音が連続して響くと、ドローンは何事もなかったように僕達を素通りしていった。

「今のは?」

「内部を弄った。覚えておくだけ損はないかもしれないが、まだ早い。先へ進む」

 それだけ言うと、父さんは静かな行軍へと戻ってしまう。

 父さんはブラム=ストーカー/ブラックドッグ/モルフェウスの雑血種トライブリード。シンドロームを跨いだ技巧はお手の物だが、僕が発現するシンドロームは父さんと同じとは限らない。まだ早いとはそういう意味なのだろう。任務中の父さんは、僕との個人的な会話は言葉少なになるらしい。



 レネゲイドの研究には、資金、実験材料、レネゲイド学の研究者の三つが必要となる。僕達がちょうど差し掛かった『スプラウト』プラントでは、この内の一つたる実験材料を保管しているらしい。


「……っ!」

 覗いた先には実験材料――年端もいかない子供たちが並んでいた。

 な色をした液体が満ち満ちた培養槽に寝かされ、箱詰めの缶コーヒーのように、あるいは蜂の巣のように積み上げられている。培養槽の側には巨大なアームが備えられている。実験材料を作業室に移動させる仕組みの一環なのだろう。

 少し考えれば分かるはずなのに。いや、分かっていたはずなのに、心が曇った。

 レネゲイド関連病部門で有名なFHセル、『アシュヴィン』セルの使用する実験材料が実験用マウスだと思っていたわけではない。実際にレネゲイド関連病に罹患した人間を使用すれば、最も効率良く研究を進められるだろう。さらに言うなら、身寄りのない子供を使えば雑務処理が少なくて済む。

 分かっていたはずなのに――


「下がれ。右方に二人いる」


 父さんの鋭い声で我に返り、無心で飛び退る。間髪入れずに微かな話し声が聞こえてきた。


「【……で、先方は何と】」

「【……と変化ありません。指定した症状の実験材料を提供せよの一点張りです】」


 漏れ聞こえる内容から考えて、おそらくこの施設の研究員たちだろう。

「やり過ごす。待機」

「了解」

 父さんの語調は変わらず冷静なものだったが、それが一層僕の自責の念を駆り立てる。


「【そうか。しかしソラリス体内工場異常症の研究は好調との報告が上がっている、条件を変えられないか】」

「【かなり厳しいかと思われます。向こうの目的は交換条件を盾にした妨害でしょうから】」

「【だろうな。資金を寄越して研究を進めさせ、いい所で掻っ攫うのは奴らの常套手段だ。我々の体のいい委託先か何かと思っているらしい】」

「【では如何致しましょう】」


 父さんに助けられたからいいものの、今僕は任務の真っ最中に感傷に浸り隙を晒していた。己の未熟さに嫌気が差し、無意識の内に目線が父さんの顔に向く。

 父さんは表情をピクリとも動かさずに周囲の様子を伺っている。その目からはどんな感情も読み取れなかった。

 父さんは実験材料の子供たちの事をどう思っているのだろう。ずっと戦い続けてきたUGNエージェントは、如何にして自身の感情と向き合っているのか。浮かんだ感情を押し殺して任務に集中しているのか、それとも感覚が麻痺してしまっているのか。


「【6体だ。6体まではくれてやってもいい。それ以上は絶対に渡すな】」

「【ではそのように】」


 培養槽に浮かぶ子供たちと、遠ざかる会話の内容と、感情を読み取れない目とを一気に飲み込むには、研究所の空気は息苦しすぎた。

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