夏にいる

第1話

窓から蝉の声が降り注ぐ。周りは高層ビルばかりなのに、いったい何処にいるのだろう。街の喧騒と蝉の喚きが暑さとの相乗効果を生んで、動く気にもならない。僕は自宅であるワンルームマンションの2階で窓を開け放ったまま仰向けに寝そべった。ちょうど見える壁時計が示すのは午後1時20分。いつもなら今頃はまだ営業を回っているところだ。しかし今日はぬるい自宅で朝からずっとだらだらしていた。昼前まで眠り、即席のラーメンで腹ごしらえをし、アイスを食べながら芸能ニュースをぼんやり眺める。なんて素晴らしいのだろう。

小学生がそろそろ新学期を迎えるころに、僕は短い夏休みをとっていた。しかしそれも今日まで。明日からはまたあの日差しの下を暑苦しいスーツで歩き回らねばならない。その想像だけで気力がなくなって怠くなる。次はいつ休みがとれるだろう。こうしていつまでもだらけていたい。けれど、この3日を振り返っても仰向けかうつ伏せにしかなっていないのは些か時間を空費しているようでもったいない気がしてきた。どこか近場に気晴らしできるスポットでもないだろうか。ごろりと寝返りをうってうつ伏せになり、スウェットのポケットからスマホを取り出した。ぱっと明るくなった画面にひまわりの花束をもって微笑む女性が映る。あれから二年も経つのに、忘れられずにいる僕は腑抜けだろうか。彼女の笑顔を見つめていたらいつの間にか画面が暗くなっていた。

そのまま眠っていたらしい。べっとりとした暑さで目を覚ますと、反射的にスマホに触れた。画面が点いて彼女と15:42というデジタル時計が表示される。僕はゆっくり起き上がると、スマホをキッチンテーブルに置いて、シャワールームに向かった。

軽くシャワーを浴びた後、僕は適当なシャツを羽織り、歯を磨き、鞄に財布と鍵を放り込んで、手早く外出の準備をした。

外に出ると蝉の声が一段と大きくなり、高い位置から鋭い日差しが照りつけて外出の意欲を削ごうとしてくる。なるべく陰を選びながら少し遠回りをして駅に向かう。電車に乗ると、クーラーが効いていて、汗がすうっと冷えた。ビル群と人混みと交通渋滞があっという間に流れていく。街が遠ざかるにつれ車内が空き、僕はボックス席の奥に座った。緑が増え、田園風景が広がって、ひぐらしが鳴くようになる。あぜ道を走る一台の軽トラに興味を惹かれた。荷台にひまわりが大量に積まれている。しばらく目で追って、見えなくなった頃、車窓からひまわり畑が見えた。傾いた陽が注いで、オレンジ色に輝いている。

彼女はひまわりがとても好きだった。常に太陽の方を向いて咲くから太陽の色が移って金色の花が咲くの、と笑う彼女がとても眩しかった。


二年前のあの日、僕は彼女と初めてのドライブデートに出かけていた。ひまわり畑に行きたい、と言った彼女を連れて農園へ行った。僕は浮かれていて、注意深く運転するのに苦労した。農園で、一面のひまわり畑を見てはしゃぐ彼女が愛おしくて、何時間でも眺めていられそうだった。けれど僕はなぜか少し焦っていて、彼女に、ソフトクリーム食べない? と誘って売店に並んだ。それは冷たくて、火照った体を冷ましたけれど、ほとんど味がしなかった。ただ、彼女がおいしいね、と微笑むのに頷くのが精一杯だった。その帰り道のことだった。赤信号で停止していた僕たちの車は、時速八十キロ近いスピードで別の車に追突された。僕たちの車はそのまま前にいた車に突っ込んだ。その車も前の車に突っ込んで、計四台が絡む大事故になった。警察や救急車が駆けつけ、現場は大変な騒ぎになったらしい。らしい、というのは、事故で僕の意識は吹っ飛び、次に目を覚ましたときには秋の終わりになっていたからだ。眠っていた約二ヶ月の間に事故のことはほとんど方がついていた。警察から、事故の原因はアクセルとブレーキの踏み間違いによるものだと説明された。僕が彼女のことを訊ねると顔を曇らせ、残念ですが…と言葉を濁した。ほぼ即死だったらしい。僕も意識は戻らないかもしれないと言われていたが、特に後遺症もなく回復したのは奇蹟だ、と医者に言われた。けれど僕にはそうは思えなかった。これは罰だ。

あの日にひまわりを見に行かなければ。僕が、そろそろ帰ろうか、と言わなければ。僕が別の道を選んでいれば。

どうして、あの時、あの場所で事故が起こったのか。どうして彼女だけが死んで僕は助かったのか。どうして。

後悔と自責は怒りや悲しみと一緒にどろどろに溶けて心の奥に染みていった。

それから二年の月日が経ち、僕は、彼女が生きていた頃みたいに生活している。普通に仕事をして、食事をして、眠る。彼女はもうこの世にいないけれど、僕の思い出の中にいる、あの夏でひまわりに囲まれて笑っている、と思えるようになっていた。


車窓から見える景色の茜色が一層濃くなった。僕は、少しだけ聞き覚えのある駅で電車を降りた。

夕方だからか、街から離れているからか、クーラーがなくてもむっとする暑さがなかった。以前、二人で歩いた土手を今、一人で歩いてみる。空から風が優しく体を包んで過ぎた。

彼女が生まれ育った故郷には、都会にはない風が吹いていて、空が穏やかで、花が綺麗だった。近くで方言まじりの話し声がした。振り向くと、学生が三人、横並びで楽しそうに歩いている。急に懐古的な気持ちになって、寂しさと切なさに目を閉じた。耳を澄ますと遠くの風の音が聞こえて、ぱっと目を開けると夏の夕暮れが広がっている。土手の向こうにひまわりが咲いていた。目を閉じても、僕の瞼にひまわりが焼きついて、彼女の笑顔と重なった。土手を走る彼女がみえた。振り返って笑う彼女が見えた。そのまま僕はその風景に溶け込んだ。


翌日から、僕は営業マンに戻った。炎天下をスーツで歩き、自販機の冷えた水で体を冷ます。

僕は昨日のことが、どうしても、いまと同じ時間軸にあるとは思えなかった。昨日だけ、二年前にあるみたいな感覚だった。彼女がそばにいたような感覚だった。

ペットボトルを伝って、雫が一滴コンクリートに染み込んだ。

ひんやりした液体が喉から胃に滑り落ちるのを感じながら、僕はまた歩き出した。

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夏にいる @kasumimato

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