第5話 出会い 05
本当に一瞬だった。
いくら不意打ちだったとしても、大の男をこれ程までに一方的に、しかも瞬殺――正確には殺されてはいないが――そんな真似ができるなんて誰でも出来る所業ではない。
しかも彼は息を切らした様子もなく、見ただけでは何もしていない――ただ立っているだけのように見えた。
アカネは目を瞑った自分の判断を愚かしく思った。
何故ならば、彼女の耳は一瞬だけ捉えていたとある事象に、説明が付かなかったからだ。
――シャリン。
金属が擦れる音。
しかしながら本当に微かな音。もしかしたら遠くの別な何かの音を拾ってしまったのかもしれない。
もしそれがこの場で奏でられたとしたら、二通り。
一つは人相の悪い男の手の甲にあった金属が路傍の石にでも当たって鳴った音。しかしながら金属同士が軽く擦れたような音であったので、この可能性は少ないと彼女は見ていた。
もう一つ。
それは無精ひげの男の下半身の妙な膨らみに何かがあるということ。かなり余裕を持った服装であり、何かを隠すには絶好の場所である。
そこにある何かで、相手を打ちのめした。
ついでに先に自分が転ばされたのも、その何かである。
(だけど……その何かって、何?)
彼女は思わず彼の下半身を凝視してしまう。
一体そこに何があるのだろうか?
「……いやん」
可愛らしい声が聞こえた。
無精ひげの男からだった。
「そんなに俺の下半身を見て……もしかしてお嬢ちゃん、肉食?」
「ち、違うわよ! その下に何があるのか気になって……」
「きゃー。やっぱり貞操が狙われてるぅ。俺の初めてが取られちゃうぅ」
「取らないわよ! ……なんか気が抜けるわ……だけど」
アカネは小さく息を吐く。
目の前の無精ひげの男性が無害な存在のように錯覚してしまう。
ただ、間違いなく得体のしれない存在であるのは間違いないのだ。
しかしそれでも、一つだけ確かなことがある。
それは結果的にでも、アカネは助けてもらったのだ。
「助けてくれてありがとうございます」
彼女は頭を下げた。
無謀にも突っ走って危険な目に自分から遭ってしまった。それは自分の誤りであり、一度防がれただけで動揺が走って中途半端になってしまったのも、自分自身としては間違いである。
「どういたしまして」
彼もにっこりと笑顔を返した。
それはもう、人畜無害にしか見えなかった。
「じゃ、約束の報酬を頂こうか?」
「え……?」
「やだなあ。きちんと約束したじゃない」
にっこりとした笑顔が、にんまりとした笑顔に変わった。
「お姉さん、紹介してくれるんでしょう?」
「……あ、そうだった」
忘れていた訳ではない。
だけど、忘れているふりをした。
事情はともあれ、自分の為に家族を売ったのだ。
その後ろめたさに足掻きたかった。
無かったことにしたかった。
物凄く都合のいい女である。
――だけど。
もう逃げちゃいけない。
約束は守らなくちゃいけない。
彼に対しては礼をきちんとしなくてはいけない。
「……お姉ちゃんに怒られるけど……」
それは仕方ない。
全力で謝ろう。
お姉ちゃんに十分に誠意を見せた上で。
「……あ、そうだった。お饅頭買わなくちゃ」
「へ?」
「お姉ちゃんの大好きなお饅頭! 売り切れていたら困る! お姉ちゃんにもっともっと怒られる! あそこ結構人気だからまだあるのか分からないのよ! 必ず買わなきゃ!」
「ちょ、ちょっと!?」
「じゃあ行ってくるわ!」
アカネは男性に背を向け、全力で路地裏を抜け出す方向へと走り出した。
彼女はもう頭の中がお饅頭を――姉への献上品を買うことしかなかった。
だからそれを買う為に全力で走って行った。
しかし、それは言いかえれば――この場から離脱しようと必死になっているということなのだ。
「――ちょっと待ったって言っているんだけど」
「えっ?」
駆けた瞬間、彼女は確かに見た。
背を向けたはずの無精ひげの男の姿が――突然目の前に現れたことを。
「きゃっ!」
ドン、と。
彼女の疾走は物理的に止められた。
「いたたた……」
何があったのか一瞬理解出来なかった。
目の前が真っ暗だったからだ。
何か布のような物が顔を覆っている。その下に固い何かが――
もにょん。
「ひゃん!」
アカネは思わず嬌声が出てしまった。
それは唐突なる場所への、予想外の刺激故にであった。
「ほうほう。胸は見た目通りだけれども、尻は十分に魅力的だと思う」
むにむに。
もにもに。
ようやく理解した。
彼女の視界を覆っていたのは、無精ひげの男の上半身に顔を押し付けていたから。
彼女は今、彼の上に乗っていた。
そして胸と尻にある感触は――彼の手がそこにあって動かしているから、ということに。
「……っ!」
がばっと顔を上げて認識する。
彼は緩みない、いい笑顔をしていた。
が、すぐにその表情が強張る。
それは赤くなってプルプルと震えている彼女を見たからであろう。
「あー、うん、その、不可抗力……って言ってもあれだね。うん」
何度も頷き、彼は揉んでいた片手を離すと、彼女に向かって親指を立てて見せた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でしたああああああああああっ!」
バチーン、という甲高い音が路地裏に鳴り響いた。
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