インスタンツ!
奈浪 うるか
The art of cup noo-men.
ビッグ・ベンを模したのかと思われる鐘の音とともに午前の講義が終わった。
学生たちが息を吹き返したかのようにに立ち上がり、階段状の教室を登り散り後部のドアから消えてゆく。また、身動きもせず机に突っ伏しているものもいる。何やら聞き慣れぬ語彙を言い放ち笑い合う者も、少なからずいる。
講義とは知識を伝えるべく執り行われる儀式であって、教える者にとって得るものなど微塵も無く、ただただ半ば惰眠を貪る学生等に貴重な時間を切り与える無為な行為とも思える。
いや、しかしその見識では足りない。
知の探求にはおよそ果てしなどない。己が見知った事共に、教授という機会を以て改めて問いかけ、新たなる真理を見出す端緒と為す。そのなんと豊かなことか。この九十分ばかりの時間のうちにも、かつて見過ごしたいくつもの真理と邂逅した。知とは即ち気付きである。およそ真理は原初よりそこに有り、ただ気付かぬものを嘲笑う。
ニュートンは万有引力を見出すまでに何度林檎を見たのだろう。
「せーんせっ! せんせー! せんせー!!」
「あーあぁ、行っちゃった」
「ほんっとに、まったく、かけらも人の言うこと聞いてないんだからー」
「しょうがないから二人でいこっか」
「うん…まったく残念なイケメンなんだわっ!」
***
《かちゃり》
今日も研究室の扉を開けた。その一事でさえ、まだ見ぬ知の輝きを秘めているのかもしれない。凡そ日毎に繰り返されるこうした営みにも、どのような真理が潜み、無知な行為者を嗤うのか。神ならぬ身には計り知れぬことである。
衛星の太陽電池モジュールほどの広さしかもたぬこの部屋に、その多くを占める研究資料が雑然と並ぶ棚の端、ブラインドとの位置関係によって日光より遮られた一劃にあるその箱には、「りんご王国 青森りんご」と大書されている。しかし変哲もないその小箱は午前の講義よりも、この部屋のドアノブよりも、遥かに世界と真理への期待を掻き立てる。その中には、宇宙がある。
もどかしく棚から箱を中程迫り出させ、卍に閉じた蓋を抉じて七分目開ける。生じた歪な間隙から色とりどりの意匠が姿を覗かせ、我勝ちにその艷を競う。
チンキラーメン!
麺商人!
ラ帝!
ホンダワラーメン!
バッちゃん裏麺!
ポリエチレンコーティングされた紙製の容器たちがキラキラと煌き、様々な色、様々な書体、それに激しく絡み合う写真と図柄で彩られたパッケージの印刷がその意味を挑みかける。溢れ出す記号と文様の洪水に微かな目眩を覚えると共に、そのコンパクトにして広大無辺な世界からの挑戦に些かの興奮を感じる。箱に手を入れてかき回すとさらに伏兵たちが名乗りを上げる。
学生だに知の切欠を纏う。況や、カップラーメンをや。
その全ての挑戦を受け尽くし、味わい尽くしたい衝動。しかし、死すべき人の身に時は限られ、挑まれる胃の腑は悲しいほどに小さい。人はその運命を呪いながら、須く選ばねばならない。
選ぶのであれば、王道を征くべきか。いや、知とは力であり、断じて仁徳などという曖昧なものでは有り得ない。ここで征くべきは覇道。選ぶは並び立つ強者どもの中、遥かな孤高にひと際の輝きを放つ、
カップヌー麺。
一切の無駄を排した、ただ麺を抱き、育むに過不足のないフォルム。丼に似せた他のカップ麺とは一線を画し、ただ誇り高くすっくと立つ。アスリートの鍛えられた身体を包むウェアのように、それにピタリと沿う外装フィルム。恰も色を移すことなく千年の時をながめゆく永遠に変わらぬかと思われる容姿。
この宝の箱から、やはり今日も一際な光彩を放つカップヌー麺を取り憑かれたかのように手にした。発泡スチロール様に加工された表面が、しっくりとただ手に馴染む。
あまりにも無謬で、猛禽の爪をも寄せ付けぬパッケージング。完璧と形容できるその姿に、力なき私はただただ眺め続けるしかないのかと、一瞬の絶望が襲う。しかし、運命の神は無慈悲な理を用意していた。その底面に、闇よりも尚暗く隠されたシール。ステュクスの恩恵を受け損ねた秘密の疵より、英雄の衣はいとも無残に剥がれ落ち、長々と引き裂かれては、遠心力、空気抵抗、クーロン力で複雑に舞う。
透明なる衣を脱ぎ去ったその裸体は改めて生々しい。白・赤・金のただ三色が、そこに込められた物語を静かに語る。神々しい美しさを秘めたまま、親しみを湛えて窺うかのよう。
やがて、目が合った。
視線を奪われ、身動きも忘れ、彼我の境界が曖昧になってゆく。色が溶け、光が溢れる。
***
いけない。昼休みが終わってしまった。悪戯好きな運命はこの午後の始まりに講義の用意を忘れはしない。汎ゆる偶然を継ぎ合わせ、有るべからざる別離を演出する。
暫しの別れだ。男には花園で眠れぬ時がある。
***
急ぎ階段を登る。こけつまろびつ。防人からPKOまで、命の知れぬ戦いに赴いた男たちはただ一人の姿を想って戦い続け、生き永らえたその時に、想い続けた幻影に向き合うことに躊躇する。それでも一縷の望みを託し、醜くも見苦しくも故郷に向かう。ビッグ・ベンも耳には入らぬ。
嘗て汎ゆる絵画が、映画が、音楽が描き続けた光景。そう、忘れ得ない光景。
優しい午後の光を受け、彼女は変わらぬ姿でそこにいた。辺りの全てが時の流れに古びて見える中、一切変わらぬ姿でそこに立ち続けている。
涙が溢れ出た。
しかし、このまま見とれ続けることは許されない。ただ想いを味わい尽くすには人生は余りに短い。先に進むこと、それはホモ・サピエンスという種に科せられた性であろうか。
部屋の片隅に据えられた流しのハンドルを回すと、長夜の夢を覚ますように、蛇口から水がほとばしった。水道を都市の血管と言ったのは誰だったか。ヘロディアの娘の掌に零れ落ちる血潮の如く、薬罐に水がたまっていく。
半ばよりやや多く満たされた薬罐をコンロに乗せる。わずか指先の一捻りが、物理的な力を圧電素子を媒介として火花に替え、なおかつそれと連動せしめたガスの噴出により、プロメテウスが三万年の責苦と引き替えに人類に与えた炎を継続的に灯す。
水道が都市の血管なら、ガス管は気を通わせる経絡か。都市ガスの気にあてられて、ヨハネの血が滾り始める。沸騰とともに薬罐の蓋をとると、トリハロメタンがヴァータの流れとともに空に溶けてゆく。
引き出しから割り箸を取り出す。麺の魅力を引き出すには割り箸が相応しい。ヘアピンカーブをグリップで抜けるような安心感。割り箸は元来端材・間伐材に魂を与えるべく作られ、丸い樹木から四角い木材を取り出す際に必然として生ずる無駄を資源に変えるもの、あるいは健やかな森の生態を維持するための営みに経済的理由付けを施すべきで有るはずが、否、現在、割り箸の九割以上は輸入品であり、こうした営みにそぐわない。故に、必然、使うべきは国産材によるものに限られる。
さて、こうして数分を忙しなく過ごし、放置した約束のヌー麺に目を戻す、幾許の気まずさを感じながら。彼女は拗ねるでもなく、誘うように蓋の一端を捲れ上がらせてこちらを上目遣いに覗う。誘われるままに指を添わせ、ペリリと捲る。
僅かに開いた蓋の隙間から、現代科学の至玉フリーズドライにより冬眠せしめられた具材が姿を覗かせる。汎ゆる具材を気づかぬままに瞬間冷凍し、低圧下で液相を経ぬままに昇華するには0.5mmHg以下、0.00066気圧という低圧を必要とする。ジェット機を見下ろしオーロラを見上げる虚空に等しい。
一方の主役たる麺は、フリーズドライ製法ではなく、油熱により水分を除去することにより製造されている。光と影、陰と陽。当に対極たる概念が長期保存と簡易調理という同一の目的のための共生を織り成すとは。
成形された麺は円錐台形状であり、上部が広がった容器の中ほどで浮かんでいる。麺塊は強靭な骨格となり、アスリートたるカップの強度を支えもする。しかし一度熱湯に浴すればその対流に嫋やかに沈み込み、スープを均一化しながら流体解析CADの流線よろしく流れ始めるだろう。剛にして優美。
時を止め、神々しい器の中で健やかに眠り続ける、麺、具材。
その秘密の間隙から存分に熱湯を注ぎ込む。かつて無垢なる衣を傷つけた忌まわしきシールが、その蓋を閉じ、三分の時を護る。まこと、計り知れない運命を想いつつ、ノーベリウム253が半減期を迎えるには十分な寸刻が過ぎ、マラソンランナーなら1kmを走る程の時を待つ。
閉ざされた容器の内部で起こる物語と、やがて現れる芳しき姿に思いを馳せるには短すぎず、空腹と懊悩に耐え難く正気を失う程に永すぎす。この三分という時間はカップ麺の発明者が仕組んだものだという。なんたる洞察だろうか。
だがしかし、ここで更なる一分を待つ。麺とつゆの美しい調和が乱れ、麺が無様に膨れた異形と化してゆく。
私はこの異形を愛する。変態性と呼ぶならよかろう。カップ麺は一分長めに限る!
そして、ヌー麺は、そんな私の嗜好をも大らかに受け入れ、三度注ぎされたエールよろしくこんもりと豊満に盛り上がるだろう。
ああ、嘗て天空を駆けたH2Oが、雲となり山野を巡り、都市の血管を通り過ぎる永の旅路の果ての果て、研究室の流しに行き着いた刹那、この生命の棺と出会い、虚空の眠りを覚まして解し初めた麺のミルキーウェイを想う。遥か数億年の年の時の流れを経て生まれ変わる水の営みが、容器の中で繰り返される。
原初の海に湧き出づるコアセルベートの奔流のように、しばしの眠りを貪る肉が、ネギが、玉子が海老が、新たなる生命を帯びて蘇る。麺が流れ、汁が揺蕩う。
まさに、
「ジェネシス!!!」
「…先生、なにを箸振り回してカッコつけてるの?」
「あ、またカップ麺食べてる」
む、我が研究室の学生Aと学生Bか。
「みて先生、これ、麺屋有明! 東京23区外初出店! 2時間も並んだんだよ!」
「先生もいっしょに来たらよかったのに…」
「3日間もかけて取ったコクうまダシなんだよねー」
「おいしかったね」
ふっ。
たかだか東京の、わずか三日を味わうために二時間を費やすとは。
憐れな。
《ずずず》
わたしは三分で醸される悠久を口に含みほくそ笑んだ。
インスタンツ! 奈浪 うるか @nanamiuruka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます