第2話 初めてのアイコンタクトは今わの際で。

「……んあ、しまった」


 その日の放課後。


 部活に入っていないクラスメイトと中身の無い会話をだらだらと続けて、ふと眠気を覚えた咲良はみんなに先に帰ってもらい、自分の席に突っ伏して寝ていた。


 黒板の上に立てかけてある古びた時計に目をやると、時刻は既に夕方六時半を回っていた。完全下校時刻は六時なので、本来であれば生徒はとっくに帰っている時間である。残っているとすれば、仕事が立て込んでいる生徒会か、顧問に許可を取って練習を延長している運動部か、そのどちらかという程度だ。


 額に残った制服の跡をさすりながら辺りを見回す。真っ暗になっていて、廊下の電気はまだ点けられていた。恐らくこれから見回りの人が来るのだろう。


「……校門、開いてるかな」


 開いていなかったら、わざわざ職員室に行って先生に開けてもらわねばならない。面倒なことこの上ないのに加えて、先生の心証まで悪くしてしまう。それはうまくない。

 机の側面にかけてある鞄を片手に持ち、急ぎ足で教室を出た咲良は――数歩ばかりでその歩みを止めた。


「あれは……幽鬼ヶ原さん?」


 こちらに背を向けて、遠ざかる向きで歩いていく女子を見付けた。遠いからはっきりとは見えないが、あれだけ人目を惹く存在感だと、後ろ姿だけでも一目瞭然だった。


「こんな時間に何やってるんだ……?」


 疑問に思った咲良は、衝動的に後をつけ始めた。足音を殺すよう気を付けながら、咲良は今日の休み時間に友人と交わした会話を思い出す。


『咲良、気を付けろよ』

『何が?』

『あの子、見ての通りすげぇ美人だけど……とっつきずらいってんで敬遠されてんだよ』

『それは誰と誰と誰の経験談? 五~十人くらいが同じことを言ってるなら少しはその情報を信用するけど』

『ぐ……お前も筋金入りだな。じゃあこれは他のクラスメイトから聞いた話だ』

 よく覚えておけよ――と前置きをして、神妙な顔で友人が語る。

『あの子な、夕方になると、一人でいるのに誰かと談笑してるかのように話してることがあるんだって。それは実際見たらしい。そいつは恐くてすぐ逃げたって言ってたが』

『へぇ。それは面白い。きっと想像力が豊かなんだろうね、幽鬼ヶ原さんは』

『この情報をここまで好意的に解釈できるお前に尊敬の念さえ覚えるわ……』


 頭を抱えた友人の顔を思い出した。

 あばたもえくぼという言葉もある。他の人から見れば奇異でマイナスに思えるポイントだって、実際自分が見てみなきゃ判断は出来ない。それが愛嬌に思えることだって大いに有り得る。

 咲良はそんなことを思いながら、絢音の後をこっそりと追い続けた。


       ×  ×  ×


 結果として言えば、咲良にとっても、あばたはあばただった。


「……マジか」


 絢音の後ろをつけていた咲良は、自分の行動を明確に後悔していた。

 聞こえてきたのは、確かに絢音の独り言だった。咲良はそのこと自体は問題にしていなかった。絢音の声は澄んでいて、奥底に確かな意志の強さを感じる。咲良が好きなタイプの声だ。

 しかし、聞こえてきた言葉の内容に咲良は驚いた。


「……まったく、そんなんだからいつまで経っても成仏出来ないのよ」

「大体、死ぬにしてももうちょっと調べてからやってほしかったわ。そんなんだから死にきれずに彷徨う羽目になるんだから」

「今回だけよ? 本当に。もしこれで成仏出来なかったら……まあ、その時はその時ね。何とかしてあげるわ」


「……うわぁ……」


 絢音の言葉に、咲良は引いていた。どん引きもどん引きだ。

 成仏って、二回言ったよあの人。

 成仏って、二回言ったよあの人。


「……って、なんで二回言ってるんだ俺は」


 咲良は、激しく動揺していた。

 成仏、という単語に、咲良は友人に聞いた二つの話を思い出す。


 一つは、絢音がいわくつきの旧校舎に入っていった話。

 一つは、絢音が独り言を言っている話。


 どちらも友人が直接見た話ではない。それなのに、まさかこの二つの話が繋がっているかもしれないと思うような内容を聞いてしまうなんて。


「……もうちょっと、後をつけるか」


 どん引いたままでは謎が謎のままだし、百年の恋も冷めてしまう。実際は芽生えてまだ数時間の恋の訳だが、そんな細かいことを咲良は気にしなかった。


       ×  ×  ×


 絢音は噂話で聞いたように、旧校舎へと歩を進める。新築でまだ五年も経っていない新校舎から、築数十年は経過している旧校舎へと移る。咲良はまるで何かの境界を越えて過去に迷い込んだような気分に陥った。


 ちらりと見える教室は埃に塗れている。

 廊下の窓はちょっとした台風で残らず割れてしまいそうなほど、不安げに軋んでいた。

 そして何より……非常灯の灯り一つ点いていない。


 既に真っ暗な時間帯なので、正直かなり怖い。絢音を見失ったらダッシュで逃げ出したくなるほどだ。咲良はバレないように手で覆いながらスマホのライトを点け、足元を照らしながら慎重に歩を進める。


 灯りがまるで無いというのは建物としてどうかと思うのだが、今年度中に旧校舎を取り壊すという話を聞いたことがある。よく見ると廊下の天井灯は蛍光灯そのものが入っていないので、そもそも電灯を使うという発想そのものが無いのだろう。


「恐いなぁもう……」


 咲良は小動物のように身体を小さくしながら、足音を立てないよう慎重に歩く。

 自分が追っている人がどんな状況なのかと耳を澄ませた。


「はぁ……やっぱりここまで来ると億劫になってきたわ。ねえ、帰ってもいい? 帰って×ビデオを見たいのよ」

「え……」


 絢音の言葉に、咲良の目が点になる。絢音が口にしたのは、自分もよくお世話になっているとある動画サイトだったからだ。咲良くらいの年代なら、恐らく多くの男子が利用していることだろう。


 ……その内、詳細を聞いてみたいな。


 絢音がここで話していたなどとは口が裂けても言えないので、咲良は今後隙を見て遠まわりに尋ねてみたいと思った。艶やかな黒髪を揺らす美人クラスメイトが、こういった話を振ったら一体どんな反応を示すのか。顔を赤くして罵られるのも良いし、本性を晒け出されるのも良い。そんなことを考えながら、咲良は絢音の後をつける。


 結果として言えば。

 この時咲良が頭の中で巡らせていた様々な妄想は、綺麗さっぱり霧散して忘れ去られることになる。


       ×  ×  ×


 歩いて数分後。旧校舎の廊下はまん丸の月が照らしてくれることで辛うじて歩く事が出来た。スマホのライトを使いたいが、そんなことをしたら一気にバレる可能性が上がる。絢音はどうやら後ろを気にする様子は無いので、このまま行けば絢音の目的地まで後をつけられそうだった。


「ん? あれは……屋上?」


 彩音は階段を登ったかと思うと、屋上に続くドアを開けた。この学校は名目上屋上その他いくつかの場所に鍵がかかっていることになっているのだが、実際はほとんどの場所は鍵が壊れていて生徒が時折利用しており、教師もそれを黙認していた。理由は定かではないが、それらの場所にもそれぞれ怪談が存在するらしいことは友人から聞いていた。


 咲良は友人の言葉を思い出す。新校舎にも旧校舎にも怪談は存在していて、特に旧校舎は会談の温床であるということ。そして当然のように、校舎の一番上に位置する屋上にもそういった類の話があるということ。


 幽鬼ヶ原絢音という人物が、益々謎めいてくる。

 一体何のために?

 それに、あの独り言は一体?

 謎を突き止める為には、後をつけるしかない。


「しかし、屋上となると一気に見つかる可能性が上がるよな……」


 咲良は独り言ちたが、幸いにもその問題はあっさりと解決した。

 絢音は階段を登ると、屋上への扉を開けた。軋んだ音を立ててドアが開くと、足音と絢音の話し声が遠のいていく。どうやらドアを閉めることなく行ってしまったらしい。流石にドアを開けたら確実に音でバレると思っていたので、咲良はほっとして階段を忍び足で登った。


 階段を上がり、既に開いたドアを通り抜けると、まだ冬の冷たさの残る風が吹き付けた。冷たい中にも微かな春の匂いを感じて、咲良の心が綻ぶ。


 咲良が視線を見渡すと、屋上の端、フェンスの所に絢音を見付けた。

 こっそりと近付くと、薄雲で陰った月明かりに彼女の後姿が照らされる。


「な……っ」


 咲良は、息を呑んだ。

 彼女の姿が、フェンスの傍にあるのは間違いない。

 けれど、その身体はこちら側ではなく、フェンスの向こう側にいた。

 よく見ればフェンスの一部が派手に壊れていて、そこから通り抜けることが出来るようだった。


「え? なに? 前から落ちるのはもう怖いから無理だから、後ろ向きに落ちたい? あなたは何を言ってるの? そっちの方がよっぽど……ああもう分かった分かった。やってあげるわよ。ただしそれだと私も怖いから、直前まで目を閉じてるからね」


 背中越しに聞こえる彼女の言葉にぞっとする。

 理由は分からない。まるで分からない。

 けれど、咲良にはこれだけは分かった。


 彼女は――幽鬼ヶ原絢音は、今、この瞬間、この場で。

 飛び降りようとしている。

 自らの命を、絶とうとしている。


 刺激してはいけないと思い、忍び足でフェンスに向かう。間に合え、間に合え――と祈りながら。

 絢音がくるりと振り返る。もしかしたら自分の姿を見て、今から行おうとしている行為を踏み止まってくれるかもしれないと咲良は思っていたが。


「ほら、これで良いでしょう? まったく……」


 絢音は、先程自分で言っていたように目を閉じていた。フェンスを掴み、目を閉じて、静かに呼吸をしている。

 薄雲が通り過ぎて、眩くさえ思える月明かりが絢音を照らすと同時に。


「じゃあ行くわよ。向こうでも元気にやりなさい」


 まるで謎めいたことを言って、絢音がフェンスを掴む手を離し、足を蹴った。


――絢音が宙空を舞う姿は、まるで見えない十字架に磔にされた聖女のようであった。


 それはほんの一瞬の光景。けれどスローモーションのように見えた咲良には、それが永遠に変わることのない一枚の絵画のように見えた。


「ま、待って……っ!」


 もはや間に合わないと思っても、咲良は精一杯の声を張り上げる。

 すると、瞑目して空を舞った彼女が、ぱちりと目を開いた。


「あ……」


 絢音は、驚くほど間抜けな声を上げた。授業中に寝ていて、その後クラスメイトに笑いながら起こされたかのような、そんな日常の匂いのする声。


――どう考えても非日常と言えるこの場面で、何故そんな声が出せる――?


 時間の超圧縮が起きている中で手を伸ばしながら、咲良はそんなことを思った。

 絢音からしてみれば咲良は完全なる初対面だろう。咲良も今朝まで知らなかった。二人の間には、クラスメイトになったという薄っぺらい事実が横たわっているだけ。

 それが、初めて目が合ったのは、文字通り今際の際なのだ。


 コンマ何秒の短いアイコンタクトを終えると、絢音の身体が重力に従って落ちてゆく。

 こんなことがあってたまるか――と、咲良は必死で走った。けれど勇猛な身体はフェンスによってあっけなく止められ、為す術もなく格子を掴んで絢音の最期の姿を見つめた。


 数秒と経たない内に、今までの人生で一度しか聞いた事がないような、それでいてこれからの永い人生で決して聞きたくないような、鈍い音が真下の地面に響いた。


「う……あ……っ」


 咲良の顔が青ざめる。歯がカチカチと鳴り、下に広がる光景を現実として受け止めることが出来ない。

 月明かりに照らされた地面が、真っ赤に染まっていた。屋上から赤のペンキの缶をいくつもぶちまけたような、そんな非現実的な光景。


 紅い湖の中心に、幽鬼ヶ原絢音が――幽鬼ヶ原絢音「だったもの」が、不自然な関節の曲がり方をして倒れていた。


 彼女が天を仰ぐように落ちたこと。

 月がとても明るかったこと。

 この二つが合わさり、結果として――


屋上で茫然とする咲良と、物言わぬ屍となった――それでいて端正な顔立ちを留めている絢音の目が合った。正確に言えば、絢音だった「それ」の目を見てしまった。


「う……うおぇぇぇぇぇ……っ」


 身体の奥底から込み上げる吐き気に耐え切れず、咲良は振り向いて屋上のアスファルトに生理的嫌悪をぶち撒けた。


「はぁっ、はぁっ、なんだよ……何なんだよ……」


 目の前で見たあまりのショッキングな出来事に、咲良は涙声で呪詛のような声を漏らす。

 なんで俺が可愛いなと思った子が、顔と名前を知ったその日に俺の目の前で死ぬんだ?

 あまりにも常識外の出来事に、咲良は茫然とする。

 振り向いたら、全部夢なんじゃなかろうか……そんなことを思って、咲良はもう一度下を見た。相変わらず血の湖が出来ていて、その中心に彼女が――


「……え?」


 一瞬見えた「なにか」に、咲良は目を疑った。

 絢音の身体から何か白いもやのようなものが浮き出てきて、それが煙のように立ち上る光景。何度目を擦っても、それが咲良の視界から消えることは無い。下から昇ってきて、咲良のいる位置をも通り過ぎ、見えなくなるまで昇っていった。


「今のは一体……って、ええ!?」


 戸惑っている咲良を、更なる衝撃が襲う。

 白いもやが昇っていった後、屍となった絢音の身体がぴくりと動いたのだ。一度は気のせいだと思ったのだが、絢音の身体が徐々に人間らしい関節の角度に戻り始めるのを見て、見間違いではないことを悟る。


 やがて絢音はむくりと起き上がり、徐に立ち上がった。


「な、な……っ」


 言葉を失う咲良と、見上げた絢音の目が合った。絢音は何か言おうと口を開いたが、距離的に聞こえないと思ったのだろうか。


「(ごめんね)」


 申し訳無さそうに両手を合わせて、ぱちりとウインクをして見せた。普段なら暗くて見えないであろう仕草も、眩く照らす月明かりによってはっきりと見てとれた。

 つい先程までの地獄のような光景を忘れさせる、あまりにキュートな表情に見惚れてしまう。


「何なんだよ……」


 咲良は金網にしがみついたまま、絢音を見つめることしか出来なかった。


 織部咲良と、幽鬼ヶ原絢音。

 二人の邂逅は、あまりにも衝撃的だった。




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