第1話 一目惚れという現象は本当に存在する。

 三月の末。


 彼は――織部咲良おりべさくらは、自宅でだらだらとワイドショーを眺めていた。ゲームも読書もそれなりに好きだが、一日中のめり込むほどではない。


 平日ならば限られた時間に存分に遊ぼうとするものだが、休日で時間を一気に沢山与えられると、かえって時間のありがたみが薄れてしまう。


 ましてや春休みとなれば、益々もってどうしたらいいか分からなくなってしまう。

 この日も咲良は、たいして食べたくもない、百円台で買ったスナック菓子をつまみながら芸能人のつまらない噂話を眺めていた。


「特集」という文字が画面に躍り出る。闘病生活を送る芸能人が涙を流しながらリハビリに耐えていた。


「命の大切さを、病気になることで初めて実感した」


 辛いリハビリに励む芸能人の言葉を聞いて、


「……それなら、このテレビを見ている人に言う意味なんて無いだろ」


 と、家の前を通る車のエンジン音より小さな声で呟く。


 以前どこかで聞いた言葉で、「人は誰かが救急車で運ばれることよりも、自分が指を切ってしまったことの方が重要に感じる」といった旨のものがあった。言い得て妙だと思う。


 この芸能人の特集を見て心底共感出来るのは、彼と同等以上に大変な境遇にある人だけであり、そうでない人は一時的に涙を流すことはあれど、寝てしまえば翌朝には忘れてしまう。


「昨日さ、誰だっけ、あの人がテレビでリハビリしてて……えっと、何の人だったっけな」


 大きな感情の起伏が、たった一晩でこの程度まで風化するのだ。魚などの生もの以上に、人の感情……特にポジティブな感情というのは足が速い。咲良はそんなことを思っていた。


 別に、感動させる企画を否定する訳ではない。どんな企画、どんな人であっても、表現や発信を通して喜ぶ人が居ればそれは十二分に価値がある。


 ただ、自分は興味が無いだけだ。それも、全くといっていいほどに無い。


 ソファからのらりくらりと背中を丸めて起き上がり、腕を伸ばしてリモコンを手に取る。お涙頂戴の企画を半目で睨めつけながら、咲良はテレビを消した。


 天然のパーマがかかった髪の毛先をくりくりといじると、再び寝転がってぼうっと天井を見つめた。


 命の重さなんて、いくら教科書で読もうと、いくら先生に教えられようと、決して分かることではない。


――咲良は自身が命の危機に晒されたことは無いが、それに準ずる経験をしたことはあった。心がヤスリで無遠慮に削られるような、そんな経験が。


 だからこそ、咲良は経験の有無による差を思い、テレビ企画がいかに無駄であるかを噛みしめていた。


「今日はもう寝るか……」


 考えても無駄なことをだらだらと頭の中で泳がせて、咲良は自室のベッドに身を投げうった。


 もう何回か夜を越えれば、新学期が始まる。クラス替えをするので、去年仲良くなった人と離ればなれになる可能性が大いにある。しかしそれ以上に新しいクラスメイトと仲良くなれるという楽しみもある。咲良は静かに燃えていた。


「……彼女、作りたいなぁ……」


 比較的中性的な見た目とは裏腹に、割と真っ当な欲望を晒す。特に打ち込むものが無い咲良だが、恋愛には人並以上に興味があった。


 可愛い子がいれば見惚れるし、廊下ですれ違った時の良い匂いに頭がくらりとしたことも一度や二度ではない。新年度というのは、新たな出会いの場だ。それが何よりも楽しみなのだ。


「ま、ほどほどに期待しておくか……」


誰に言うでもなく漏らした言葉は、ベッドの上で泡のように溶けて消えた。


       ×  ×  ×


 クラス替えをして数日。


 咲良は、特にこれと言った障害もなく、順調に新クラスでの生活に馴染んでいた。

 このクラスは、言ってしまえば平凡だった。

 優等生がいて。

 目立たない人がいて。

 ちょっと浮いている人がいて。

 不良っぽい人もいる。


 飛び抜けて目を惹く人は、男女共にほとんどいない。勿論面と向かってクラスメイト全員と話した訳ではないから、一概には言えないが。それでも咲良にとっては、「穏やかに過ごせそうだな」と思えるクラスだった。


――そう、思っていたのだけれど。


 廊下側の真ん中の席に座っていた咲良が、休み時間にふと視線を窓際に向けた時。


「え……っ」


 生物として絶対に必要な行為である呼吸を、ほんの数秒だけ完全に忘れてしまった。

 窓際最後列、教室の隅の席に――その少女はいた。


 人を寄せ付けない、神秘的な雰囲気。

 鴉の濡れ羽色をした、艶やかな黒の長髪。

 ここには無い何かに思いを馳せるかのような、儚げな瞳。

 物憂げに肘をついて、手に顎を乗せてぼんやりと虚空を見つめている。

 同じ「高校生」という括りの中にいるはずなのに、まるで別次元の存在に思える。


 いた。

 飛び抜けて目を惹く人が――いた。


 なんで俺は、この人が今まで目に入らなかったんだろう。というか、何で去年一年間、この人という存在に気付かなかったんだろう。


 振り向いた体勢で固まって見惚れていると、肩をとんとんと叩かれた。振り向くと、このクラスで初めに仲良くなった男子が心配そうに咲良を見ていた。


「おい、咲良。何見てたんだ?」

「え? ああ……いや、なんでもない」

「……まさか、幽鬼ヶ原ゆうきがはらか?」

「……へ? 何そのごつい名前?」


 咲良の言葉に、友人は目を瞠ってため息を吐いた。


「……お前、あいつの噂聞いたことないのか?」

「実際見たことが無い人には興味が無い。実際見たらあれだけ綺麗な人なんだし絶対忘れないけど。噂には興味無いんだよ」


 咲良は人づてに聞く評価や噂というものを好まない。本人が言った、あるいは認めたものならいいが、勝手な憶測に尾ひれが付き、悪意と嘲笑まで纏って広まっていく噂話というものは、もはやファンタジーの域に達している。


 こう言うとファンタジーに失礼な気もするが、咲良にとってはそれほど現実離れしたものに映るのだ。中学生の時の経験から、そういった周りの悪意や無遠慮な好奇心というものに対しては吐き気を覚えるほどの嫌悪感を持っていた。


 咲良の言葉に、友人はふっとため息を吐き、優し気な笑みを浮かべた。


「……思春期真っ只中にいてそんなことを言えるお前を、素直に尊敬するよ」


 お前は興味無いだろうから知らないかもしれないが――と前置きをする友人。


「お前は確か、隣町から来てるんだよな? じゃあこの町の怪談は知ってるか?」

「ああ、それくらいは流石に知ってる。……詳細は全然だけど」


 咲良はそう言って、以前聞いたことのある話をぼんやりと思い出した。


この町――夢奇ヶ丘町ゆめきがおかちょうには、他の町とは比較にならない数の怪談話・心霊体験談が溢れているという。よく学校七不思議という言葉を聞くが、この町はレベルが違う。


 夢奇ヶ丘八十八奇談。


 四国の霊場と同じ数を持ち上げられた、とんでもない数だ。この数が本当なのかどうかは定かではないが、様々な話が入れ替わり立ち替わり町の人の話題に上り、天気の話と同じくらい「昨日見たんだけど」「この間友人から聞いたんだけど」という切り口で怪談奇談が交わされるという。


 咲良はこういった話にも特に興味は無かったので、みんなと話していてこの話題が出た時は適当に、けれど素っ気なくも見えないように聞き流していた。


「そう、その怪談なんだが……その中のかなりの数が、この学校――夢奇ヶ丘高校に集中してるんだ」

「へぇ、そうなんだ」


 友人の話によると、八十八個もあるというこの町の怪談のおよそほとんどがこの学校に集中しているという。もっと正確に言えば、この学校から始まった怪談が周りに影響を及ぼしている、とも。


「……へぇ」

「……お前、本当に噂話に興味無いんだな……」


 ここまで聞いてなお、まるで琴線に触れた反応をしない咲良に、友人は呆れ笑いを浮かべた。

 普通に生きていたら中々聞けない話のはずだが、咲良はなおも全く食いつかない。話こそきちんと聞いているものの、その意識は完全に彼女――友人が言うには幽鬼ヶ原と言うらしい――に向いていた。

 友人が、こほんと咳払いをする。そして若干得意気な顔を浮かべた。


「で、だ。その噂話に、彼女が絡んでる訳なんだが」

「おいおい水臭いな友よ。なんでそのことを早く言ってくれないんだよ」


 手のひら返しを地で行く咲良の態度に、友人は片眉を上げて咲良を睨めつける。


「お前な……まあいいや。この話なんだが、真偽はかなり曖昧だ。けれど、あちこちから聞く噂なんだ」

「ふむふむ。どんな内容?」

「……何でも、幽鬼ヶ原が夜な夜な校舎内をうろついているのを見たことがある人がいて、その時彼女が一体何をしているのかが気になって後をつけたことがあるらしい。どこまで行くのかと思いきや、彼女は旧校舎に入っていったそうだ。『戦争中に亡くなった生徒が、夜になると廊下を練り歩く』っていう噂がある場所にな」

「………………………………………………………………………………へえ、そうなんだ」

「興味があるのか無いのか自分でも分からないって顔をしてるな」


 すごい顔をしているぞ……と笑う友人に、咲良はこくりと頷く。確かに咲良にとっては、どう受け取ったら良いか分からない話だった。気になる異性の話だからと食いついてみたものの、話自体は噂に噂を重ねたような、フィクションと呼んでも差し支えのない代物だ。

それでも彼女のことは気になる。


「なあ、友よ」


 咲良は真剣な顔で、友人に話しかけた。


「ん、なんだ?」

「彼女……幽鬼ヶ原さんって、名前は何ていうの?」

「……お前、良い性格してるよ」

「褒めても何も出ないぞ」

「褒めてる訳じゃないって分かってるのにそんなことを言う辺り、ほんと良い性格してる」

「照れるな」

「いや、だから褒めてな……まあいいや」


 あの子の名前は……と、友人が彼女を見つめる。その目には咲良が抱いているような好意がまるで混じっておらず、咲良は不思議に思った。


絢音あやね――幽鬼ヶ原絢音だ」


 名前まで素敵じゃないか――咲良は、心の底からそう思った。

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