汚れていいよ。

アオ

第1話

「ご指名ありがとうございます」

 感情のない声で少年は言った。お辞儀をして、悠利の隣へ並ぶ。渋谷の駅前で誤解を呼ぶ発言は控えてほしい。批判をこめて少年を見ると、大きな瞳はまっすぐこちらを向いていた。慌ててそらす。

 待ち合わせ時間は午後二時。初夏の日差しは鋭く、肌が痛い。

「行きましょうか」

 少年は二言目には、悠利から視線を外していた。ぐるりと街を見渡す。街はいつも通り広くて大きくて怪しくて、人がごった返している。

 つられて、街を眺めてみる。ご指名ありがとうございます、か。考えてみれば、正しいセリフかもしれない。

「ああ……どこがいいとか、ある?」

「どこでも」

 いいやつを紹介すると言ったのはシュンだった。お前の女遊びに歯止めかけられるようなやつ、知ってるよ。要はさ、男だったらいいんだろ。

 そのとき悠利は酔っていた。十九歳が飲酒をしてはいけないことは重々承知していたし、自分が売れないにしろ若手俳優であるという身分も承知してはいたけれど、どうしても酔いたかったのだ。

 コンビニの安い酒だったが、荒んだ心を浸らせるには充分だった。すっかり気持ちよくなっていたところに、そう言われた。

 確かに、女を抱くのはいろいろと面倒だ。男娼だったら丁度いいんじゃないか。別れてから三ヶ月も経った彼女を呼ぶのも、新しい女を探すのも面倒だろう。そういう話になった。

 ノリだけで連絡先を教えてもらい、その場で約束をとりつけた。三日後の今、内心後悔の嵐だった。しかし行かないのはあまりに失礼だろうと思い、とりあえず来てみたのだ。無論、下心がまったくないわけではない。

「駅変えたいんだけど」

「わかりました」

 来てみたら、少年がいた。見た目はごく普通の少年だった。パーカーにジーンズという出で立ちで、しかしシュンの話どおり、ビジネス然としている。

 なぜ渋谷を待ち合わせ場所に指定したのか自分でも分からない。酔っている時にすることは、大抵あとで振り返ると理解不能だ。男娼と待ち合わせるには、どう考えてもここは適切じゃない。

「ちょっと遠くてもいい?」

「はい」

 愛想のない声が返って来た。

 悩んだ結果、渋谷から乗り換えも入れて三十分ほどの、最寄り駅で降りた。

 改札を通る。少年はおとなしくついてくる。何も言わない。ほとんど会話らしい会話をしていない。

「名前、なんていうの」

 今さらの質問を投げてみる。

「何がいいですか」

「え?」

 振り返る。少年の目は笑っていた。口元はぴくりとも動かず引き締められたままなのに、笑われていると分かる。

 不気味だ。数秒間の沈黙のあと、少年は薄く口を開いた。

「夏輝です」

「ナツキ?」

「夏に輝くで、夏輝」

「夏輝さんか」

 名前も女みたいだなと思ったが、これは言わなかった。

 駅から十分ほど歩いたところにあるアパートは、割と新しい。ここに住み始めて丸三年が経った。俳優としてはいっこうに売れないけれど、今から他の人生を選ぶほど、若くもないような気がして、だらだらと俳優業を続けている。アルバイトは居酒屋で週四日。面白くもないが、つまらなくもない。仕事仲間にはそこそこ恵まれていると思う。

 アパートの敷地に入った時も、エレベーターに乗った時も、夏輝は何も言わずについてきた。本当はホテルの方がいいかと思ったが、夏輝の見た目では入れてもらえないような気がした。玄関先で、夏輝は言った。

「一万五千円です」

「先払い?」

「はい」

 財布を開ける。一万円札が二枚。

「おつりある?」

「あります」

 折り曲げられた跡をさりげなく伸ばして、手渡す。華奢な指が札を折りたたみ、リュックの外ポケットへしまった。かわりに差し出された皺のない五千円札を、財布に突っ込む。

 客人を招いたときはどうすれば良いんだっけと冷蔵庫へ一歩踏み出した時、小さな紙を手渡された。

「名刺です」

 不思議そうな顔をしたように見えたのか、説明された。白い紙に黒の明朝体で『夏輝』とだけ印刷されている。他は何も書かれていない。店名も、電話番号も、メールアドレスも、その他の装飾も何もない。なんだこれは。ただの名札じゃないか。裏返してみても、やはり何も書かれていなかった。

「これ……店から来てるとかじゃ、ないの」

「店には属していません」

「へ?」

「強いて言えば、個人事業主ですかね」

 やばいものに巻き込まれたかな、と後ろ頭をかく。金髪にし続けているせいで、かなり傷んでいる。がしがし、音がする。指は通らない。気分転換に茶髪にしようかと思ったら、今これ以上はできないと美容師に止められたほどの代物だ。

 なんと言えばいいだろうか。何か明確な疑問を口から出せるほど、悠利は社会について詳しくなかった。

「悠利さんみたいに、連絡くれた人と会って、お金を貰うだけです」

 察したらしく、先に口を開いたのは夏輝だった。

「へえ……」

 渡された名刺を、とりあえずポケットに入れる。自分も名刺らしきものは持っているけれど、芸能人だとバレるのは厄介だし、相手に詳しい個人情報を提供する必要もないだろう。

 なんとなく、沈黙が流れた。

 男娼と聞いていたから、もっと軽薄そうな、不良少年のような、自分と似た見た目の男が現れると思っていた。

「ほんとに可愛いんだって」

 シュンの言葉が蘇える。確かに、綺麗な顔をしている。大きな目も、白い肌も、黒い髪も、女装させたら女に化けるだろう。しかし可愛いというのとも違う。

 おかげで、気まずい。

 夏輝は窓の外を見ていた。半分カーテンを引いた窓辺は、初夏の熱をぜんぶ吸い取って、膨らんでいる。四階の部屋から見えるのは、ごちゃごちゃとコンクリートを積み重ねた街並みと、電線で区切られた空だけだ。

「綺麗ですね」

「街?」

「はい」

「何もない住宅街だけど」

「そんなことはないですよ」

 夏輝がこちらを振り向く。前髪の下から、まっすぐ、こちらを見る。先程までとは明らかに雰囲気が違っていた。思わず、息を飲む。吸い込まれないように、足元のフローリングの感触を確かめる。

 なるほど、確かに、プロの男娼だ。

 夏輝は一歩、こちらに近づいた。笑みを浮かべる。

「悠利さん」

 透明に空気を震わせて、夏輝が呼ぶ。

「今日はよろしくお願いします」

 気づいたら、首の裏に腕が回っていた。不思議と、凪いでいく。平均的な女よりは背が高いけれど、悠利よりはわずかに低い。引き寄せられるまま唇を合わせる。抵抗はない。

 今まで女としてきたどのキスとも違った。気分は高まらない。

 薄い舌が滑りこんでくる。絡める。

 目を開けてみると、夏輝も薄目を開けてこちらを見ていた。

 その瞳の中の、自分と目が合った。

 とたん、心臓が跳ねる。息がつまる。胸の底が発作みたいに傷んで、ぐずぐずの傷がひらいた。Tシャツをめくる手首を掴み、肩を押して引き剥がす。

 引き剥がしてしまってから、しまったと思った。

 夏輝は驚いたようにこちらを見上げる。

「キス、だめでした?」

「いや、そういうんじゃないけど」

 口ごもる。一瞬で、汗ばむ。夏輝はただこちらを見上げるだけで、再び擦り寄る気配もない。

「やっぱ、いいや」

 思ったより小さな声を出してしまった。夏輝が怪訝そうに首をかしげる。

「え?」

「ごめん。帰っていいよ」

 薄く開いた夏輝の瞳に、自分が映っていた。

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