Episode 1 -Is anyone there?-

少女の目覚めは始まりを告げる


 また、あの夢を見た。

 嫌になるほどみたあの夢を。

 脳裏に焼き付いて離れないあの光景を、また夢に見てしまった。


 春の暖かい陽気の中。

 私、鬼野きの火末かまつの朝は、最悪な目覚めと共に始まった。


 身体は汗にまみれ、目から頬にかけては涙が筋を作り、それのせいか枕は湿っている。

 夜中にうなされていたようで、私の足元にはグシャグシャになった掛け布団が小さな山を作っていた。


 やはり私には、夢でさえも安息の地は無いのである。


 ベッドから起き上がると、私の寝ていた部分は案の定、汗でじっとりとしていた。

 寝間着に着ているTシャツを脱ぎ、戸棚から出したセーラー服へと袖を通す。

 セーラーのリボンを結び、スカートを履く。

 部屋に干しておいたニーソックスに足を通すと、少し肌がくすぐったく感じられた。

 鼻の先まで伸びた前髪が鬱陶しく感じていたこともあったが、ボサボサになった今では気にしなくなってしまっていた。


 学校に行く準備をしようと、部屋の小さな机を見る。

 そこにはノートとペンが乱雑に置かれていた。

 勉強用にと与えられたものだが、本来の目的とは違う形で使われている。


 開いておかれたノートには私が書き殴った小説が、描きかけの状態で放置されていた。

 私の部屋と呼ばれるこの空間には、このぐらいしか私という存在を保持できるものはない。


 タイトルは『九尾きゅうび憑代よりしろ』とつけた。


 鬼の仮面をもつ少年と、狐の巫女の少女が、つらい運命と世界に立ち向かうといった、趣味程度の簡単なストーリーである。


 狐という理由から人間に迫害された少女が、時に挫け、なお理不尽な世界に抗おうという姿に、私は心の底から憧れていたのかもしれない。


 私には、彼女のような自由というものがない。

 世界に抗うような勇気も、誰かに立ち向かえるような力も持ってはいない。

 それどころか本当の家族も、幸せも、私自身と向き合う術も、ずっと昔に失ってしまった。


 「はあ…。」


 ふと、ため息が出た。

 七年間近くこの生活を続けているのだ。偽りの自分、偽りの感情に、私自身が慣れているつもりでいた。


 小学生の頃から買い替えてない筆箱にペンをしまうと、私はノートを手に取った。

 パラパラとページをめくると、私が書いたはずの少女のセリフが目に入った。


 『あきらめない』『挫けない』『希望を信じている』

 そんな言葉が、まるで自分に投げかけられているかのように感じた。


 意志が強くて、勇気があって、いつでも明るい、女の子のヒーロー。

 私とは正反対の、私の憧れ。


 「無理だよ…。」


 心からの思いがまるで零れ落ちるかのように、私は呟いた。


 「私は、あなたみたいにはなれないよ…。」


 私の視界が、水面のようにゆらゆらと揺れる。

 零れ落ちた涙はノートに吸い込まれ、インクを黒く滲ませた。


 静かにノートをたたみ、ボロボロになったスクールバッグに詰め込む。

 溢れだした感情に、私は-やり蓋をした。


 涙を袖でぬぐうと、鞄を背負い部屋を出る。

 自分で取り付けた鍵を閉め、私はリビングへと続く階段を下りた。


 一歩、また一歩。階段を下りていく。

 リビングへ近づくごとに、私の体は石のように重くなってくる。


 聞こえてくるのは、私の『現在の家族』の笑い声。

 叔父と叔母と、その娘。私にとっては従妹となる女の子の楽しそうな笑い声だ。


 私は心に漠然とした不安を抱きながら、リビングのドアノブを握る。

 自分でもわかるほどに手にはひどい量の汗をかいていた。

 驚異的なまでの緊張。体が小刻みに震えている。


 これだけは、この人たちだけは、何度繰り返しても、慣れるものではない。


 覚悟を決めてドアを開ける。そこには大きな食卓を三人で囲んでいる、家族団欒の光景があった。

 大きな食卓に三つの椅子が並べられ、三人分の朝食がそれぞれの椅子の前へと置かれている。

 やはり私の存在など、ここには存在してはいないのだ。


 「お…おはようございます。」


 声が震える。喉をきつく締められたかのように、呼吸も乱れ始めた。

 挨拶などしたくもないが、過去に一度挨拶をせずに出ていこうとすると、叔父に胸ぐらを掴まれ殴られたことがあった。


 あの時の恐怖が、私の体を支配している。


 三人は私の存在に気が付いたようだが、挨拶を返すことも話もやめることもなく、ただ返ってきたのは従妹である『景井かげい まとい』の舌打ちだけであった。


 彼らに背を向け、玄関へと向かう。

 学校指定の靴へと履き替えて外へ出ると、ほんの少しだけだが心が軽くなるのを感じた。


 そこそこな大きさの、どこにでもあるような一軒家。

 しかし私にとってここは、心を蝕む牢獄だ。


 「お父さん…。」


 ああ駄目だ…。また零れてしまう、折角蓋をしたというのに。

 もう、今更どうにかなるような話ではない、そんなこと分かっているハズなのに。


 「どうして…どうして死んじゃったの…。会いたいよ…。会いたいよお父さん…。」


 止まらない、感情が沸き上がる。

 理想も希望も私にはない、だからこそ光を求めてしまう。


 青い空には雲一つなく、どこからか桜の花びらがヒラヒラと舞っている。

 暖かい春の陽気は、私の足元のアスファルトに落ちた数滴の雫など、いともたやすく乾かしてしまった。

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