■五月二十五日(月) 厚子
幼稚園が休みの月曜日、久しぶりに一日何の用事もない月曜日だ。
厚子は部屋に積み上げているプラスアルファの商品を見て、ため息をついた。代理店として、配下の特約店や一般会員から連絡があったらすぐに持って行けるように、全商品の在庫を用意している。それは自分が買うという形だ。
……でも、ビジネスって、こういうことなんだっけ。
ふと厚子は、初めてそんなことを考えた。
一般会員になると渡すパンフレットを、ぱらぱらとめくる。きれいなカラー印刷で、まるで映画のパンフレットのようだ。社長や秋保常務の写真が載り、それぞれがプラスアルファについてコメントしている。
そして商品紹介のページ。
きちんとした会社だと思っていた。日本全国で、ネットワークビジネスに理解があるのはまだ三パーセント。だから自分たちがその数を増やすのだ。
非難されたこともある。人間関係を食い物にするなんて最低だ、と。
──でも営業なんて、どこも人間関係を使って仕事してるじゃない。
厚子はいつもそう反論していた。実際両親だって、友達がやっているという生命保険に入っているし、大学の頃合コンで知り合った男子は、アパレルの会社に入って、季節ごとにセールの案内を送ってくる。
──どうしてあたしたちばっかり非難されなきゃいけないのよ。
あのときは本当にそう思っていた。
そのときスマホが鳴った。電話だ。画面を見ると、……渚だ。先週連れて行って、見事にドン引きされた、職場の後輩。
翌日から、仕事場で渚に軽く避けられていたのは感じていた。結局、コーヒーのおつりさえまだ渡せていないのだ。
『厚子先生、今仕事っすか?』
電話に出ると、渚の声が聴こえてきた。
「ううん、今日は本当に休み。久しぶりに何もないのよ」
厚子が答えると、電話の向こうでほっとしたようなため息が聞こえた。
『先週は無視してすみませんでした』
「こっちこそ、……何も言わずにいきなり社長に会わせてごめん」
『まあ、いいとは言えないんですけど、まだあのビジネスやってるんすか?』
「うーん、今、在庫の山見ながら、やめよっかなーなんて考えてるとこ」
『やめた方がいいっすよ。厚子先生、園児にも人気あるし、保護者にも信頼されてるし、この仕事じゃダメなんすか?』
「だめだなんて……」
そんな風に思われてるなんて、知らなかった。考えたこともなかった。
『あたし、厚子先生は真面目でちゃんとした先生だと思ってたんです。……仕事場では誰にも話してないけど、親に相談したら、そういう人の方が、折れやすい場所があることもあるって言われて』
「……よく判らないけど、仕事には真面目よ」
厚子の返事に、スマホの向こうで小さな笑い声が聞こえた。
『園長先生、気づいてるっぽいですよ』
不意に渚が真剣な声でそんなことを言い出した。
「え、本当に?」
『最近、厚子先生疲れてること多いじゃないっすか。園長先生最初心配してて、それから心配って言わなくなって、すごい難しい顔してるから、バレてる気がします』
「……あー、確かにそれはバレてそう」
『あたし、厚子先生は、幼稚園じゃなくてそっちのマルチ商法やめるべきだと思ってます。そうできませんか?』
まさか渚にそんなことを言われるとは思わなかった。
「渚先生ってそんなに真面目に幼稚園の先生してるんだ」
『……んー、気分により?』
いきなりいつも通りの渚の返事がきた。思わず厚子はため息をつく。
「気分って何それ。仕事でしょ?」
ついいつもの調子で言って、それから厚子は顔をしかめた。
「ごめん、あたしに言われたくないね」
『……あたし、厚子先生尊敬してたんすよ。尊敬してた厚子先生に、戻ってほしい。そして、あたしみたいなダメな新人がテキトーなことやったら怒ってほしい』
「初耳だけど」
思わず厚子が言うと、電話口で渚が笑った。
『そりゃ普通、めんどくさい先輩にそんなこと言わないっしょ。……でもめんどくさいけど、尊敬してたのも本当なんすよ。だけどここ最近、おかしいなあって思って』
そこで渚が言葉を切った。
ここ最近。もしかして、美佐が秋保常務の横に座るようになってから、だろうか。
それまで秋保常務の周囲に座っていいのは、代理店だけだった。やる気のある人ほど、秋保常務の傍にいる権利がある。そう思ってがんばってきた。
けれど、特約店の美佐がずっと秋保の横で笑っていて、しかも秋保常務はそのことに満足している顔をしていた。
今まで厚子は努力してきたのに。……秋保常務に認められたくて。
秋保常務の一番のお気に入りは自分だと、会員たちに自慢してきた。それなのに。
あんな、努力も何もしてない子が、秋保常務のお気に入りで、いつも横にいるなんて。
今までの厚子の努力がむなしくなった。
それに加えて、渚に避けられたのも、痛手だった。今まで、自己啓発セミナーつながりが多かったので、断られても日常生活に支障をきたすことはなかった。
渚程度の付き合いの人間でも、避けられるとこんなにつらいなんて、初めて知った気がする。
「やめようかな……」
つい厚子は呟いた。
『やめましょうよ! やめましょう!! 厚子先生がやめてくれるんだったら、あたし、コーヒー代のおつり全然要らないっすよ!』
急に電話の向こうでテンションが上がった。
「……コーヒー代のおつりって」
そう、避けられていたからまだ返せていないのだ。
『やめるんだったら、今晩、晩御飯食べません? 仕事の話、聞いてくださいよ。あたし、厚子先生に仕事の相談したいんすよ』
「そうなんだ。判った。じゃあ晩御飯食べがてら、仕事の話しよっか」
ほぼ無意識で応えていた。
それに気づいて、厚子は自分で自分の行動に驚いた。そう、プラスアルファの相談ではなく、幼稚園の仕事の相談。
「あたし、幼稚園の仕事を真面目にやりたかったんだ……」
『どうしたんですか、今さら』
「自己啓発やプラスアルファで、ごっこみたいなビジネスとかじゃなくて、もっとちゃんと、幼稚園でやりたかったんだ」
『ええっ自己啓発までやってたんすか。厚子先生、意外とこじらせてますね』
「うるさいわ。そっちはどうなのよ」
『……まあ、あたしも、彼氏にフラれるまではがっつり腰かけのつもりだったから、いろいろ悩んでたんすけどね』
「腰かけのつもりだったんだ。がんばろうよ。うち、園長に理解があるから、結婚出産しても続けられるよ」
思わず厚子は言い募った。電話の向こうで渚が笑う声が聴こえる。
『じゃあ、そういう話、今晩しましょ。待ち合わせは……』
楽しそうな渚の声。こんな風に思ってもらえているなんて知らなかった。
厚子はついつい表情が緩むのを感じて、頬に手を添えた。
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