■五月十九日(火) 栄美 2

「栄美ちゃん!」


 低い男の声が響いた。林田隼人だ。栄美は一瞬身構えたものの、隼人が夏凛と一緒にいることに気づいて、ほっと息をついた。


 栄美が笑顔を作って夏凛に走り寄ると、隼人は不満そうな表情になった。


「何で女の子が女の子を独占するんだよ」


「あたしはおまえみたいに、人間を男女で分けないんだよ! ……行こう」


 港町みなとまち市は政令指定都市だ。この港古電鉄こうこでんてつおよびJRの港町駅がほぼ同じ位置にある。港古電鉄は北側、JRは南側を東西に走っている。

 夏凛や隼人は港古電鉄で高校に通っているが、栄美は家の位置的に、電車に乗るよりもバスを乗り継いだ方が早い。


 港町市は、山と海が近い。駅から山に向かって緩やかな上り坂を歩いて五分ほど、大きな交差点の一角のビルに、夏凛と隼人は入って行った。栄美もそれに続く。


「……風野、探偵事務所?」


 探偵、という胡散臭い職業に、栄美は顔をしかめた。

 それに気づいたのだろう。夏凛が振り向いた。


「一、ここの探偵の西尾さんって人が、林田の知り合い。二、しかもあたしらと同じクラスの西尾潤の父親。三、あたしの弟分みたいな兄貴分が今捕まってるんだけど、そのバカを弁護する人を探してくれたので、あたし個人はまあまあ信用してる」


「ああ、それで今朝、『西尾潤ってどの子?』って」


 栄美が納得したような表情になった。


「夏凛が信用してる人ならあたしも信用する」


 栄美の言葉に、なぜか夏凛は困ったような表情になった。


「うわー責任重大」


 言いながらも、夏凛はなぜか足取り軽く、ドアを開けた。


「ただいまー。栄美連れてきた」


「おかえり。とりあえず奥のソファにどうぞ。まだ橘先生が残ってるから、夏凛ちゃん、質問や要望があれば、今のうちに」


 夏凛たちを出迎えたのは、六十歳くらいの白髪交じりの男だった。


「所長の風野さん」


 隼人が小さい声で説明する。


「……どうも。山村栄美です」


 栄美がぺこりと頭を下げると、風野はにっこり笑った。


「うちの事務所で出せるのはペットボトルだけなんだが、緑茶コーヒー烏龍茶、今日は紅茶もある。どれがいい?」


「……じゃあ烏龍茶で」


 栄美が答えると、夏凛が栄美の肩をぽんと叩いて、奥の席に先導する。


「おかえり」


 栄美たちが指定されたソファに座ると、パーティションの向こうから男が出てきた。五十歳前くらいでジャケットは着ているがネクタイは締めていない。ワイルドな雰囲気の男が、笑顔で栄美を見た。


「息子が同じクラスだそうですね。西尾潤の父親です」


「あ、山村栄美です」


 栄美は立ち上がって軽く頭を下げた。


「どうぞ座ってください。……学校には、記者とか来てないんだよね?」


 西尾の質問に、栄美は頷いた。

 いつの間にか夏凛が飲みかけのグラスを持って栄美の脇に立っていた。それに口を付けてから西尾を見る。


「言われてみたらそうだよね。何でだろう。東京から遠いから? いくらでもセンセーショナルに書けるネタなのにね。……あ、ごめん」


 栄美が俯いたのを見て、夏凛があわてた顔で謝る。

 西尾がふっと笑った。それを見て夏凛が眦を吊り上げる。


「西尾さん、何か知ってる?!」


「うん、まあ一応、とあるパワーを使った」


「とあるパワー?」


 うさんくさそうに夏凛が訊き返す。


「親父パワーだよね。あるいは権力?」


 第三者の声が入ってきた。西尾より少し年上の男。スーツ姿でサラリーマン風。しかし栄美はそういう外見でいかがわしい商売をしている男を山ほど見ているので、それだけで判断できないことを知っている。


「橘さん! ……栄美ちゃん、こちらは弁護士の橘さん。現在加害者と目されている人間の弁護人になってもらってる」


「加害者と目されてる……って、博之さんですよね」


 栄美が確認すると、西尾は少し驚いた顔になった。


「知ってるの?」


「名前と顔くらいは。目立つ方ですし」


「バカだからな」


 夏凛が茶々を入れる。それを見ておかしそうに笑ったあと、橘が説明を始めた。


「西尾くんのお父さんを通して、新聞やテレビ局に『お願い』してもらったんだよ。港町高校の子は犯人ではないから、取材しないでほしいって」


「へえ、それで言うこときくんだ」


 夏凛が驚いたような表情になる。栄美も不思議に思った。そんな程度のことで,取材自粛などあるのだろうか。


湊山県みなとやまけんの知事からのお願いだからね」


 橘がさらりと解説する。西尾が困ったような表情になった。ちなみに港町市は湊山県にある。


 納得しかけてから違和感を持って、栄美は口を開いた。


「県知事って、荻原政義おぎはらまさよしですよね」


「ああ」


 その意図を悟った西尾が、苦笑いする。


「俺、奥さんの子どもじゃないんだよ。だから母親の姓なんだ。……まあでも荻原さんはうちの高校のOBだし、荻原さんの年代と俺の年代から『お願い』を拡散したから、まあ協力してもらってるって感じかな。あくまで『お願い』だから、万が一犯人が港町高校の子だったら、さすがに止められないよ」


「あ、だから初めて会ったとき、『親のせいであれこれ言われた』って」


 夏凛が納得したような表情で呟く。


「よく覚えてるな」


 西尾が苦い表情で煙草を咥えた。それから気が付いたように煙草を箱に戻す。


「別に吸ってもいいよ」


 夏凛が言うと、西尾が右の眉を上げた。


「おまえがよくてもここの部屋が禁煙だ」


「なあなあにすると、なし崩しになっちゃうからね。昔は吸い放題だったんだけど、十年前から事務所内禁煙にしてるんだ。……はい、山村さん、烏龍茶」


 所長が栄美の前にグラスを置いて、一礼して去っていく。


「記者がマンションを張ってるんだって?」


 西尾が栄美の顔を見た。栄美が頷く。


「はい。……そんな、テレビのワイドショーで見るみたいな多い数じゃないですけど」


「でも入りづらいよね。こういう場合、経済的に許せば、ホテル取ってほとぼりが冷めるまで待つのが常道だけど、高校生だしなぁ。ご両親は何て言ってる?」


「まだ連絡取ってません」


「じゃあまずはご両親と今晩の相談して。うちとか隼人のところに一晩ずつ泊めてもいいんだけど、同級生は男の子だから、いろいろ言われるからなぁ」


 西尾の言葉に、栄美は黙って頷いた。それからケータイを取り出して、母親に電話をかける。すぐにつながった。


『栄美! よかった。ちょうど連絡しようと思ってたの。スポーツ紙の記者がうちのマンションにいるみたいだから、家に帰らないで。信用できるお友達の家に行かせてもらうのが一番いいんだけど、どう?』


 信用できるお友達。


 その言葉に、栄美の中で何かが切れた。


「信用できる友達なんているわけないじゃない! ちゃんとした子は、マルチみたいなビジネスやってる家の子と友達にならないわよ!!」


 栄美の勢いに、電話口の向こうで息をのむ気配がした。


 言いすぎたごめんなさい。


 そう言おうとしたのに、言葉が出てこなかった。


 気が付いたときには、涙があふれていた。

 そのとき誰かが栄美のケータイを取った。誰か……西尾だ。


「すいません、お電話代わりました。栄美さんと同じクラスの西尾潤の父親です。……はい、お世話になっております。……いえ、わたしの勤め先です。安達博之さんの代理人をこちらで紹介しました。……残念ながらその通りです。……はい。……お嬢さんは、うちか林田隼人宅、あるいは別の場所をこちらで世話しようと思ってます。場合によっては相応の費用が掛かります。……もちろん。未成年だし息子の同級生なので、マージンはいただきませんが、実費は必要です。……ありがとうございます。……ではこちらに一任していただくということで、決まったらお嬢さんから連絡するようにします。では失礼します」


 西尾がしゃべっている途中で、夏凛にタオルを差し出されて、栄美はそれで涙を拭いた。西尾が電話を切る頃には、何とか涙も止まっていた。


「……興奮してごめんなさい」


「こういう場合に冷静な人はいないから大丈夫だよ」


 西尾が笑う。それからふっと真顔になる。


「しかし、よく考えてみたら同級生の男子の家は、変な勘繰りをされると困るから論外だな。女の子は……」


 西尾がそこまで言ったときだった。


 ドアをノックする音。それからドアが開いた。


「失礼します。こちらに西尾さんって方、いらっしゃいますか?」


 女性の声が響いた。

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