■五月十九日(火) 夏凛 2

「はじめまして。たちばなといいます」


 スーツ姿の初老の男が、夏凛に名刺を差し出した。

 白髪交じりの髪をきっちりセットして紺のスーツを着ている。五十歳過ぎくらいだろうか。名刺には『弁護士 橘純一』と書かれている。横書きで、左上に『井上弁護士事務所』とある。文字は、黒ではなく紺だ。


 高校が終わってから、夏凛は隼人と一緒に西尾の事務所に顔を出した。すると「弁護士が決まった」と夏凛だけ西尾に呼ばれたのだ。


「こんなこじゃれた今風の名刺作る事務所、大丈夫なの?」


 夏凛が横にいる西尾に訊くと、西尾はがっくりと突っ伏した。向かいで男──橘が、一瞬目を丸くして、それから楽しそうに笑い出した。


「さすがの逸材だ。……ABCD法律事務所って知ってる?」


 橘に訊かれて、夏凛は少し考えてから頷いた。


 夏凛の住んでいる養護施設の食堂にはテレビがあり、職員がOKを出せば見ることができる。他にもラジオが置いてあり、何人かラジオのヘビーリスナーがいる。テレビやラジオでCMを流している法律事務所なら、名前は知っているのだ。ABCD法律事務所は、テレビやラジオで、借金一本化やキャッシング利息過払いのCMを流している法律事務所だ。


「あそこの名刺は確か、文字は黒だけど、デザイン線が赤で、ロゴなんて金の箔押しだよ。ABCDをあしらったロゴを本職のデザイン事務所に発注して作ってもらったっていうもっぱらの評判だ」


「へえ、あそこそんなバブリーな金遣いしてるんだ」


 西尾の方が興味を引かれたらしい。


「ま、そういうわけで、うちはおとなしいくらいの名刺だよ。安心してくれていい。……で、安達博之あだちひろゆきくんと面会してきた」


 橘の言葉に、夏凛は真顔になる。


「西尾から聴いてた通り、本人は否認してる。おれ自身の手ごたえも、まあ西尾の話に引っ張られたのは否めないが、それでもやっぱり、『この子が人を殺して、その上、あとから来たふりをしたりできるか?』と考えると、できない気がする」


「できないよ。できるわけないじゃん!」


 夏凛の言葉に橘は頷いた。


「だろうね。……ああ、ありがとう」


 隼人が、橘には緑茶、夏凛には烏龍茶が入ったグラスを持ってきた。二人の前に置くと、隼人は黙って奥に引っ込む。


「警察は、何で彼が犯人だと思ってる感じ?」


 西尾が自席から持ってきた無糖アイスコーヒーの一リットルサイズのペットボトルに直接口をつけてから、橘に訊く。


「消去法じゃないかな。被害者、彼氏も家族もなし、あの怪しげな健康食品会社の人たちともうまくやってた、それだけじゃ食えなくてバイトもやってるけど、そっちはそんなに濃厚な人間関係なし、正直八方ふさがり。なところに、おあつらえ向きなのがいた、って感じ」


 橘の説明に、夏凛はぎゅっと拳を握りしめた。


「つまり、真犯人が見つかれば博之は無罪放免?」


「それはそうだろう。……その場合も、警察が謝ってくれるかは心許ないが」


「謝るかどうかは、この際どっちでもいい。博之は無実だから」


「まあ、あんまりこんなこと言いたくないんだが」


 西尾が夏凛を見た。


「俺が、博之を無実だと思って、その方向で弁護してほしいって橘さんに話したのは、夏凛が『無実だ』って言ったからだからな。もし夏凛が意見を変えたり、あるいは真犯人が分かったりしたら、絶対にすぐに報告してくれ」


 厳の言葉に、夏凛は黙って頷いた。それから二人が何か言いたそうな顔をしているのに気づいて、理由を求められているのだと推察し、小さく息をついて口を開く。


「あいつはバカだけど、人間を殺して、それを隠蔽するような頭はない。しかも美佐だろ。あいつ美佐とは仲良かったから、そんな人間殺してけろっと芝居できるような度胸はない」


 夏凛が断言すると、橘はにっこり笑って頷いた。それから声をひそめる。


「博之さんから伝言があります」


「……何?」


 夏凛が首を傾げると、橘はなぜか嬉しそうに口を開いた。


「しばらく帰れないみたいだから、着替えの服を差し入れてほしい。それから、今着てる服を洗濯して、長引くようなら持ってきてほしい、とのことです」


「えー、あたしあいつの彼女じゃないんだけど」


 夏凛が露骨に顔をしかめる。


「彼女さんがいるなら、彼女さんに頼んでもいいのですが」


「今いないって言ってた。……別にあたしじゃなくてもいいんだよね?」


「もちろん」


「判った。望の服を借りて、望に洗濯させる。次に面会できるのはいつ?」


「明後日です。できれば明後日の午前中までにこちらに博之さんの服を持ってきて置いておいていただければ、それを持って面会に行って、着替えを引き取ってきますよ」


「お願いします」


「ところで、その望さんというのは?」


 橘が、夏凛と西尾を見較べる。夏凛が黙っていると、西尾が、仕方なくといった風情で口を開いた。


「博之の弟分。今呼び捨てにしてたけど、夏凛のいっこ上で、工業高校に通ってる。一見ワルっぽいけど素直ないい子だよ。ちゃんと工業卒業してかわいい彼女つくって結婚したいんだって」


「……どいつもこいつも」


 夏凛が毒づく。


「まあまあ」


 西尾が夏凛の肩をぽんと叩く。それに反応せずに、夏凛は口を開いた。


「……望は、いい奴だから幸せになればいいんだよ。博之も、いつまでもバカやってないで、さっさとかわいい彼女作って結婚して子供作って落ち着けばいいんだよ」


「夏凛は夏凛の幸せの形を見つければいいだろ。別にモデルがなくてもいい」


 西尾の言葉に、夏凛は顔を上げた。真顔で西尾を見る。


「ぶっちゃけあたし、今が一番幸せだよ。小学生の頃は、天才天才ってからかわれるだけだったけど、中学はほめてくれる先生がいたし、今の高校は割とみんな勉強して当然って雰囲気だから、居心地悪くない。ときどき林田みたいな奴が鼻につくけど、今までの嫌な奴に較べたら大したことないし」


「そんなに嫌ってやるなよ」


「林田、両親にめっちゃ愛されて育ってる匂いがぷんぷんしてちょームカつく」


「俺も十代の頃は似たようなこと思ってたから、気持ちは判るけどね」


 西尾の言葉に夏凛はふと顔を上げて西尾を見た。


「西尾さんの息子、見た。最初、全然似てねーって思ったけど、意味不明なところは意外と似てる」


「何だそりゃ」


 西尾が苦笑いする。


「西尾もいつの間にか、ちゃんと父親してるよな。若い頃は幸薄かったのに」


 不意に橘が、意地の悪い笑みを浮かべた。


「俺、別に幸薄くないけど!」


 妙にムキになった様子で西尾が橘を睨む。橘はそれに頓着せず、笑顔を作って夏凛を見た。


「俺と知り合った頃はまだ二十代で、女に騙されまくってたんだよ」


「うるせえよ。うすうす『騙されてる、かな』くらいは気づいてたし!」


 子供っぽい口調で反論してから、西尾は夏凛の視線に気づき、わざとらしく咳ばらいをした。


「今の話、息子には内緒にしてくれよ」


「言っても気にしなさそうな気はするけどね」


 夏凛が答えると、西尾は微妙な表情になった。


「そうかなぁ。あいつの母親と同じで育ちよさそうな分打たれ弱そうに見えるけど」


「うそ、あれ打たれ弱くないよ。西尾さん、意外と自分の息子は見えてないね」


 夏凛が断言すると、西尾は苦笑いして自分の髪の毛をくしゃくしゃとした。


 そのとき夏凛の携帯電話が鳴った。

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