□五月十八日(月) 元
大きな鞄を肩にかけて喫茶店を出た
厚子とは話が合うと思っていた。幼稚園の先生だからプラスアルファでの呼び名も「厚子先生」だ。だが本人は上昇志向が強く、「キャリアウーマンのよう」という褒め言葉を喜んでいた。
「誰のおかげでプラスアルファが成り立ってると思っているんだ」
元が呟く。
プラスアルファの理念部分は元が担当している。元がイベントで話している内容をまとめた本も自費出版で出していて、当時の会員が買ってくれたのだ。今でもときどき増刷しては、大きなイベントのときにコーナーを作り、新規の会員に売っている。
数年前から始めた「心の教室」もそこに書かれていることをもとにやっているのだ。プラスアルファの基幹部分はそこに書かれている。次作の構想だって練っているところだ。
本を出しているのは、ゆくゆくはプラスアルファを宗教法人にするための足掛かりだ。もちろん、宗教法人にしたい一番の理由は税制上の理由だ。教祖になりたいという気持ちがないわけではないが、それより弱小ネットワークビジネスとしては、宗教法人の法人税無課税がうらやましい。
……もちろん、教祖になりたいという気持ちが、ないわけではない。
自分からなるのではなく、気が付いたら教祖になっているのが、理想だ。そんな理想像を描ける場所に、今、自分はいる。
元がそう思ったときだった。
「お待たせ。……厚子先生は? 一緒だったんじゃないの?」
入り口から妻の
「明るいビジネス」を演出するために、秋保は好んでパステルカラーのスーツを着用している。元にも、黒が強すぎない茶や藍のスーツを着るように、ネクタイは遊び心のある選択を、とアドバイスしている。
「帰った」
元は機嫌悪く答える。
「あら、わたしが来るって言わなかったの? ……まあいいわ。もうすぐ締めだから、発注の確認をしましょう」
秋保があっさり流して、紙の束を取り出す。一枚目が代理店名簿、二枚目が製品リストだ。それを合わせて今月の発注と売り上げに在庫、それから来月の必要数をチェックしていく。
プラスアルファは、港町駅から歩いて十五分少しかかるオフィスビルで一室借りている。せまい事務所で、社長の元に常務の秋保、それから事務に雇っている二十代の女性二人入るとぎりぎりなので、会員を呼んだことはない。バブリーな演出をしている手前、そんな内情を会員に知らせる気はないのだ。
秋保は今日はその事務所に寄ってからここに来た。
「昨日の事件のこと、どう思ってるんだ?」
元の質問に、秋保は手を止めた。小さくため息をつく。
「美佐ちゃんは、かわいそうだと思うわ。まだ若かったし、いろんなバイト経験があって、プラスアルファもがんばってくれて、本当にいい子なのに」
言葉を詰まらせて、秋保が涙をぬぐう
──なるほど、こう言えばいいのか。
元はそんなことを考えて、それからため息をついた。
自分の言葉が空虚なことくらい、自分が一番知っている。ただ今まで「人の死」というものが身近になかったから言えなかっただけだ。
「あなたは、美佐ちゃんのことに興味ないわよね」
涙を拭いたあと、不意に秋保が言った。
「……そんなに親しくないし」
元は言い訳するように答えた。確かまだ特約店だった。秋保が仲良くしているのが不思議なくらいだ。プラスアルファでは、代理店がグループの代表になって、特約店以下配下を掌握している。なので元たち本社の人間が接するのは主に代理店になる。代理店が窓口なのだ。
亡くなった原島美佐はまだ特約店だった。なぜ秋保が親しくしたのか分からないが、本来はそんなに自分たちと付き合う位置にない人間だ。自分たちが付き合うのは、あくまで窓口である代理店なのだ。
「それにまだ特約店だったんだろう」
元の言葉に、秋保は大きくため息をついた。
「普段は『人を肩書きで判断してはいけない』って言ってるのにね」
秋保が肩をすくめて言う。
厚子にも今さっき似たようなことを言われたばかりだ。
けれど、元の言葉は所詮建前だ。そんなこと、みんな判っていたのではないか。
正しいことを言うなんて簡単だ。道徳の教科書で習ったようなことを大人の社会に置き換えて言えばいいのだ。
その元の言葉にフォローをするのが秋保の役目だ。
ずっとそう思っていた。
今回のことだってそうだ。誰かが、「美佐ちゃんが亡くなったの、本当に気の毒ですよね」と言ってくれればよかったのだ。そうすれば元が「本当にかわいそうだ」と言えた。元の周囲のだれも、そうやってお膳立てしてくれなかった。だから厚子先生の前で「正解」が言えなかったのだ。
元にそのフォローをくれなかった周囲が悪い。あんなヤンキーな女、どうなろうが本来関係ないのだ。
そんな風に思って、元はネクタイを締め直した。
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