□五月十八日(月) 夏凛 1
「っす」
ちなみに職員から挨拶するように言われているが、夏凛は「ただいま」と素直に言えず、結局「(ただいま)っす」などの挨拶となっている。
ここ
かつては戦災孤児などを収容した広い施設だが、今は定員の三分の一ほどしか入っていない。子供の人数自体が減っているのだ。
それで、現在山麓園では、中学生までは相部屋、高校生は一人部屋が割り当てられている。高校を中退したら退園しなければならない。
今は子供の人数が減っているので、小学生でも一人部屋にできるのだが、教育上の理由とやらで、中学生までは相部屋にする規則になっている。
「博之さん、どうなったか判る? まだ携帯つながらないんだ」
望が夏凛に声をかけてきた。
「まだ留置所。西尾さんが安くてがんばってくれる弁護士紹介してくれるって約束してくれた」
「その西尾さんって人は大丈夫なの?」
食堂の端で、小学生に勉強を教えていたと思しき四十代の女性が、心配そうな声をあげる。山麓園職員で、厳しいが子供たちのことを考えてくれる職員だ。と夏凛は思っている。
だからといって夏凛が彼女になついているかというと話は別で、最小限の話しかしない。とはいえ夏凛から見て、信頼できる数少ない大人の一人、というポジションである。
「判らないけど、たぶん」
あやふやな夏凛の返事に、その吉田という女性は、眉をひそめた。
「気を付けなさいよ。女子中高生は高く売れるんだから」
「あたし売春だけは絶対やんない」
「夏凛ちゃん天才だから大丈夫でしょ」
吉田が勉強を教えていた小学生少女が、能天気な声を上げる。その少女の言葉に吉田は
「何言ってるの。天才ったって、ちょっと頭がいいだけの普通の子じゃない! だいたい頭のいい人がバカなことしないと思ったら大間違いよ。毎日ニュース見てるでしょ。官僚だの政治家だの、勉強できる頭のいい人が悪いことしまくってるし、アホな政策しまくってるじゃない」
吉田の身もふたもない意見に、小学生の少女がきょとんとした顔になる。まだ難しくてよく判らないらしい。
一方、望はそれを聞いて笑い出した。
「確かに夏凛、天才だけど中身普通のちょいヤンキー入ってる感じだもんな」
「ヤンキーじゃねえよ。あたし、あいつらみたいにつるんでないもん」
夏凛は即答で文句を言った。それを見て望が言葉を続ける。
「でも西尾さんが正体不明っていうか、信頼できるかどうか判らないのは事実だよね。博之さんが信用してるって言ったって、そんなこと言うなら、あの怪しい会社の人だって博之さん信用してたわけだし」
「……また、『ねずみ講は儲かりません』って講座やらなきゃね。ああ、今の子はねずみ講って言葉を知らないんだっけ。マルチ商法? ネットワークビジネス?」
吉田が呟く。それからふと吉田は夏凛を見た。
「夏凛、卒園生集めるから、講師やらない? 少なくとも夏凛は、あの手のが怪しいことくらい判ってるでしょ? 資料集めはこっちでするし、流れも相談するから話してよ」
「その手が胡散臭いことはよく判ってるけど、博之以外の卒園生の奴らなんてどうなってもいいから面倒くさい。ヤだ」
「今回の件がカタついても、また次に別の卒園生に誘われたら、博之ならやりかねないわよ」
吉田の言葉に、夏凛はふと真顔になった。それから大きくため息をつく。
「博之の件が片付いたら考える。……これが西尾さんの名刺。仕事先も行ったことがあるし、交通費の精算書類作ったりするバイトと引き換えに、博之のことやってくれるって約束してくれた」
「……やだもう、騙されてる匂いがぷんぷんする。……探偵事務所? うわぁ、怪しさ満載」
吉田が額に手を当てて、大仰にため息をついた。
「……あたしと同じ学校の奴が『友達の父親』って言ってて、そいつは西尾さんのことすごく信頼してる感じだった」
夏凛がぼそぼそと呟くと、吉田は少し驚いたような表情になった。
「ちょー詐欺とかやってそう」
「吉田さんでも『ちょー』とか言うんだ」
夏凛が小さく笑うと、吉田はふっと表情をほころばせた。それから夏凛が出した名刺をひらひらさせる。
「この人については調べてみる。夏凛が信用してもいいと現段階で思ってるなら、学校の勉強と、認められてるバイトの邪魔にならない程度に、その交通費の精算とやらをやりなさい。ただし、怪しいと思ったらすぐに逃げること。約束して」
真剣な吉田の勢いに押されて、夏凛は思わず黙って頷いた。
「返事は?」
「……はい」
小さい頃から吉田は、「声を出せ」と言ってきていた。それを思い出して夏凛は小さく呟く。
夏凛の返事を確認して、吉田はようやく納得した表情になった。
「今晩は美佐のお通夜よ。ちゃんと出てちょうだい。きちんと制服着てね」
吉田に言われて、夏凛は顔をしかめた。
「あたし出なくていいよね? あの女と別に親しくないし」
「残念。現山麓園生は全員出席よ。美佐は事故で家族を亡くしていて本当に家族がいないから、うちから密葬出すってことで補助金下りてるの。うちの子たちは全員出席」
「うわーマジか」
夏凛が思わず呟くと、吉田がわざとらしく大きなため息をついた。
「お葬式は私たち昼間出られる人たちだけでやるから、お通夜くらい顔を出しなさい」
「……はぁい」
不本意、という気持ちが前面ににじみ出た声で、夏凛は返事をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます