□五月十八日(月) 厚子
「プラスアルファはただ商品を売るだけでなく、会員皆さんを健康にする、それがモットーなんです」
三十歳過ぎの女性が満面の笑みで説明をしている。くすんだ赤の目立つスーツ姿だ。
だがそれを聞いている二十代半ばの女性は、うんざりした様子でため息をつく。あからさまに「来るんじゃなかった」と思っている様子だ。テーブルにひじをついて、つまらなそうな表情で、目の前に広げられたパンフレットを見るともなく見ている。
「厚子せんせー、わざわざ休みの日にこんなことやってるんすかー?」
耐えきれなくなったらしい、その説明を受けていた二十代女性が、だらしない声を上げた。
「わざわざじゃないわよ! こっちが本業よ!! 渚先生はそうやってすぐに茶化すから……」」
厚子先生と呼ばれた三十過ぎの女性が、キッと二十代女性を睨む。
「山村先生からもおっしゃってくださいよ。わたしたちプラスアルファは、わたしたちの美容と健康を増進するだけでなく、まだわたしたちのことをご存じない方に勧めることによって、わたしたちの経済も多少なりとも潤う素晴らしいシステムなんです。そうでしょう? こちらの山村先生は日本全国から『直接説明してほしい』という声がある素晴らしい先生なんです。ね、山村先生?」
厚子に振られて、山村
「そうですね、厚子先生を見てください。立派なキャリアウーマンでしょう? もちろん幼稚園の先生は素晴らしいご職業ですよ。それを続けながら、二足の
「厚子先生、彼氏いるんすか?」
いきなり渚先生と呼ばれた二十代の女がテーブルにひじをついて厚子を見る。
厚子が、うっと詰まって黙り込む。大学の時までは彼氏がいたが、就職して時間が合わなくなって自然消滅して以来、彼氏はいない。正直、作ろうとも思わなかった。
「こっちの営業みたいな人、厚子先生の彼氏? 違うんですかー? だったら休日返上して肩の凝るスーツなんか着て、営業みたいな仕事するの、ちょー暇つぶし的」
「渚先生! だから、こちらの山村先生は、プラスアルファの社長さんでいつもは忙しくてこんなところに来てくださるような方じゃなくて」
「でも来てるし、暇そうだし。平日の昼間にこんなとこいるなんて、そんないそがしい人じゃないよね」
「暇じゃないわよ! 本当に日本中から『山村先生に来ていただきたい』って声があるのを、今日は特別に渚先生のために」
「っていう割には別に話もうまくないし、人間的に説得力があるわけでもないじゃないっすかー。これならうちの園長の方が百倍いいっすよ。この前の入園式の日も、保護者からどっかんどっかんウケ取ってたし」
「……うちの園長は、方向性が違うから」
厚子が思わずこめかみを揉みながら呟く。
実際、厚子や渚の勤めている幼稚園の園長は、三軒も幼稚園を経営している辣腕ながら、とてもユニークで話のうまい男だ。幼稚園児たちにも好かれていて、保護者会での受けもいい。
「今度はぜひその園長先生も連れてらしてください。そういう方がうちのビジネスを判っていただけるととても力になるんですよ」
山村の能天気な言葉に、厚子は露骨に顔をしかめてしまった。逆に渚がけらけら笑う。
「ないわー。うちの園長、こういうビジネス大嫌いじゃん。連れてってたりしたら、厚子先生、一発でクビっすよ」
「そういう方がうちのビジネスの良さを判ってくださると広がるんですよ」
山村が言うと、渚はひらひらと手を振った。
「ムリムリ。今の説明じゃ、あたしだって納得できないもん。園長だったら五分で論破した挙句、厚子先生には恐怖のお説教タイムスタート、最悪クビですよねー」
言って渚は立ち上がった。
「せっかく厚子先生が誘ってくれたから楽しみにしてたのに、まさかこんな話だとは思わなかったっすよ。誰にもしゃべらないから、厚子先生も早く足を洗ってくださいね。あ、あたしのコーヒー代置いときますから、おつりは明日ください」
千円札を伝票の上に置くと、渚はそう言って本当に喫茶店から出て行った。確かに港町市街からちょっと離れただけの場所なので、駅から厚子が連れてきたとはいえ、自力で帰れるのだろう。
厚子はため息をつく。この仕事は長い。こういうことは慣れっこだ。
しかし正直、しゃべり方などからもっとバカだと思っていた後輩からはっきりと言われたのが予想外だった。
それに、確かに園長にバレるとクビになりかねない。実はその可能性について考えたことがなかった。
思い出してみれば、プラスアルファを始めた最初の頃は、バレないように気を使っていた。最近はそれも雑になっていたことに、今初めて気がついた。
「次は園長先生を連れてきてくださいよ。園長先生が我々の考えに同意してくれたら、あの子も判ってくれますよ」
山村がしたり顔で言う。
厚子はそんな山村の顔をじっと見た。今までずっと、ちゃんとしたことを言う人だと思っていた。
──今の説明じゃ、あたしだって納得できないもん。
もの覚えもよくなく、そんなに仕事熱心ではない渚。そんな渚にそこまで言われる男だったのか。
──園長だったら五分で論破。
確かにそうかもしれない。少なくとも、「園長を連れてきたら山村先生が説得してくれる」とは思えない。
考えてみれば、今までずっとそうだったのかもしれない。
他の会員も言っている通り、本当にプラスアルファを引っ張っているのは、社長の山村ではなく、常務を務めている妻の秋保だ。山村は、ただ理念を語っているだけ。
それは判っていたはずだ。だから今回も秋保常務に「本当に山村先生だけでいいの? わたしは行けないから申し訳ないのだけど」と言われたのだ。
初めてプラスアルファに連れて行かれたとき、乗り気ではなかった厚子をその気にさせたのは秋保常務だった。山村元は、ただその横で正論を言っていただけ。
考えてみたら、つまらない見栄だった。
小さい頃から幼稚園の先生になりたかった。その夢がかなった。そのはずなのに、現実は現実で、全然夢がかなった感じがない。小さい幼稚園の中で、目先の仕事に動かされているだけ。
そんなときに、大学の同級生に勧められて、今考えると少し危ない感じの自己啓発のセミナーを受けた。衝撃だった。今まで考えたこともなかったスーツを着てきれいに化粧をして、最高の自分をいつも演出しましょうと言われたのだ。
それまでも一応化粧はしていたものの、何しろ幼稚園児相手だ。スーツなんて着て行かないし、汚れてもいい動きやすい服装が基本だ。それでいいと思っていた。
けれどきっちり化粧をしてスーツを着た自分は、まるでキャリアウーマンのようだった。
貯金をはたいてその自己啓発のセミナーを続け、スーツを買い、そんな生活を続けていた時に、プラスアルファに出会ったのだ。
いや、プラスアルファに、ではない。
山村秋保に、出会った。
人生を決める、衝撃の出会いだった。自己啓発のセミナーに出会ったときよりも印象的だった。
──厚子先生は、もう自己啓発が必要な段階は終わってると思うんだ。
秋保は初めて自分を認めてくれた。
──でもプラスアルファには、あたしが見本にしたいような、目指したいような人がいない。
わざと蓮っ葉に言った厚子に、秋保は笑いかけた。
──それは厚子先生が、みんなの目標になる時期がきてるからじゃないかな。みんなに厚子先生の素敵さを見せてよ。そんな厚子先生をみんなが目標にするわ。そんなすてきな厚子先生を、うちのプラスアルファで見てみたい。
そう言われて、プラスアルファでビジネスを始める決意をした。そして自己啓発のセミナーで知り合った人たちを次々に連れてきた。仲が良かったと思っていたのに拒絶反応を示した人がいた反面、大して親しくなかったのにプラスアルファで今もがんばってくれてる人もいる。
プラスアルファでは、まず普通の会員、そして一定の売上があると、特約店になる。その次は代理店。
プラスアルファで輝いているのは代理店だ。当たり前のように厚子は代理店を目指した。そして自己啓発のセミナーで培った人脈を使って、あっという間に代理店に上りつめた。
こんなに早く代理店になるなんてすごい、と秋保常務がほめてくれた。うれしかった。代理店になれたことも承認欲求を満たしてくれたが、何より秋保常務に認められたことが、一番うれしかった。
今は、配下の特約店や普通の会員が連れてくる人たちに説明して、プラスアルファのよさを判ってもらい、商品を使ってもらうという営業に近い仕事をしている。
幼稚園と二足の草鞋は正直きつい。けれどプラスアルファの仕事をするのに大反対している両親と「幼稚園はやめない」という約束で、代理店を続けている。両親も、諦めたのか応援してくれているのか、プラスアルファの商品を買ってくれている。
そして秋保常務はそんな厚子を気に入ってくれていた。厚子が本気でプラスアルファを始めてから、いつも秋保常務の傍には、厚子がいた。
それなのに。
昨年の秋口くらいから雲行きが怪しくなってきた。もちろん秋保常務はいつも通りに接してくれる。しかしその秋保常務の隣には。
いつの間にかプラスアルファに来て、しかもまだ特約店だという原島美佐が、いた。まだ特約店なのに。しかも代理店になろうという気概さえない。
秋保常務がそんな女を横に置いていることに、嫉妬に近い感情を抱いていることは自覚していた。
そしてその原島美佐が昨日殺されたと、新聞に載っていた。自分の下の特約店から問い合わせも来ている。
「原島さんの件、どうお考えですか?」
厚子が訊くと、山村は露骨に顔をしかめた。わざとらしく大きなため息をつく。
「殺されたのはかわいそうだと思いますが、うちは関係ないでしょう? ヤンキーっぽい子だったし、本人の交友関係じゃないですか。正直あんなヤンキーな子、うちには合わないと思ってたんですよ。まあ自己責任ですね。因果応報です」
山村元の言葉。
──うちには関係ない。
──ヤンキーっぽい子だったし。
──あんなヤンキーな子。
──因果応報。
それを頭の中でくり返してから、厚子は肩をすくめた。
「いつも『人を外見で判断するものじゃない』って言ってる元社長とも思えないお言葉ですね」
厚子の発言に、元はさらに眉をひそめた。
「だって殺されたんですよ。じゃあ犯人がうちの関係者だって言うんですか?」
「まだ判らないですよね。だって彼女、プラスアルファのイベントは必ず出席してたじゃないですか。それだけじゃ食べられないってんでバイトはしてたみたいだけど。彼女の交友関係だと、プラスアルファの人が一番多いんじゃないかと……」
最後まで言い切れなかった。元が、ばん!と音を立ててテーブルをたたき、立ち上がったのだ。
「不愉快です。美佐さんの件がうちのせいだって言うんですか?」
「そうは言ってないけど、……せめて、『かわいそうに』くらいの言葉は、社長からほしかったですね。まさか保身だけじゃなく攻撃の言葉まで出てくるなんて、正直とてもがっかりです」
厚子の言葉に、元はさらに不快そうな表情になった。それを見て厚子はさらに口を開いた。
「秋保常務なら、もっとちゃんと悲しがってくれると思うのに」
「じゃあ常務をこの場に呼べばよかったんだろう!?」
「まさにね。ほんと、常務を呼べばよかった。常務がダメだからって社長を呼んだあたしがバカでした。じゃあ失礼します」
売り言葉に買い言葉、ではないが、厚子はそう言って、パンフレットなどを入れている大きなカバンを手に持ち、立ち上がった。商品説明用のパンフレットなどが意外とかさばるので、大きめのバッグが必要なのだ。それさえ「キャリアウーマンみたい」と喜んでいた自分が、バカみたいだ。
それから厚子は伝票の脇に渚が置いた千円札を取り、代わりに自分と渚の分のコーヒー代を足したものを置く。
「私たちのコーヒー代です」
幸い財布の中には小銭があった。
厚子は、まだ何か言いたそうな顔をしている元社長を置いて、喫茶店から出た。
月曜日。
勤め先の幼稚園がキリスト教系なので日曜日に仕事があって園児も登園するから、その代わり月曜日が休みなのだ。
──せっかく厚子先生が誘ってくれたから楽しみにしてたのに。
渚はそんなことを言っていた。
まさかそんな風に思ってくれているなんて、考えたこともなかった。
自己啓発のセミナーにハマって、その場その場では自分が高められたと思ったものの、現実はいつも幼稚園の現場だった。それが嫌で、プラスアルファで代理店までのし上がった。
だけど自分の「現場」は幼稚園だったのかもしれない。小さい頃からの夢で、担任を持っている子たちは今でもすごくかわいいと思う。面倒な保護者もいるけれど、それでも子どもはかわいい。
そう。少なくともプラスアルファは、厚子がやりたかった仕事ではない。達成感がすごいだけで。けれどその「達成感」も、何か違ったのかもしれない。
幼稚園をやめなくてよかった。秋保常務に話をして、今後のことを考えよう。
今初めて、厚子はそう思った。
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