□五月十五日(金) 元
「あれ、秋保常務、今日いらっしゃらないんでしたっけ」
うららかな午後。昼休みのあと、元がパソコンに向かって十月に出す本の下書きを作っていると、午後から出社してきた事務の女性が、困ったように首を傾げた。
「いや、どうだろう。彼女の予定は把握してないけど。……ああ、京都って書いてある。昨日書いたのかな」
出席確認のホワイトボード、常務のプレートの横に、『京都』と書いてある。昨日の時点ではなかったはずだ。
「急な出張ですね。ほんと、秋保常務いそがしいですね」
その言い方に、元はふと何かを感じた。
「わたしだっていそがしいんだけどね」
「ああ、もちろん社長がおいそがしいのはよく判ってます。……ただ、請求書が来てるんで、秋保常務に確認したかったんですよ」
「請求書? どこから?」
「今、次の商品探してカタログ取り寄せたり、試作品作ったりしてるじゃないですか。そこの一社だと思うんですけど、万が一私用だったら、こっちに混ぜて会計しちゃうとまずいんで」
「ええ? そのくらいいいんじゃないの?」
元が雑な返事をすると、事務の女は困ったような表情になった。
「わたしは正直、いいと思ってますけど、秋保常務が『そういうところから税務署に目をつけられて、そっちから警察にいくとまずいから、絶対に私用のものは混ぜないように気を付けて』って言われてるんです」
「そうだったのか。……まあ、うちも大きくなると、目をつけられる可能性も増えてくるからな」
元が答えると、女は頷いた。
「そうなんですよ。秋保常務によると、まず税務署から入ってそれから警察沙汰っていうのが、過去に同業者であったらしくて、秋保常務、かなり神経質になってるんです。……メールで問合せして確認してみますね」
「ああ、頼むよ」
大きく頷いて、元はパソコンに戻った。
栄養補助食品との出会い。
本当は、栄美が生まれたタイミングで、勤めていた会社が倒産したのだ。失業手当とそれまでの貯金で何とか食べていたある日、秋保が友達に会うと言って、久々に外出した。
帰ってきて、秋保は言ったのだ。
──仕事、何とかなるかもしれない。
それが今のプラスアルファの前にやっていた、栄養補助食品の会社だった。
プラスアルファと同じような連鎖取引の会社で、秋保と元は二人で知り合いに片っ端から電話をして、人を紹介していった。そこの会社は、夫婦はペアで登録するのがルールだったのだ。一人で人を紹介している独身者よりも有利だった。
そして二人とも、長く続く友達は少ないが、一見明るくて知り合いが多いので、紆余曲折はあったが、何とか代理店になれた。
代理店になってからの秋保は、いっそう生き生きと、配下の特約店たちが連れてきた会員に勧誘を始めた。結婚した元から見ても、こんな面があったのかと驚くほどだった。
その会社が、連鎖取引をやめたのは、それから五年後。元たち大きな代理店には半年前に通達があった。
代理店仲間は大騒ぎだった。みんなこれで食べていたのだから当然だ。
配下を引き連れて他の連鎖取引をやっている会社に移る代理店が多かった。「田舎に帰る」と言ってやめた代理店もいた。
発表になったのはそれから三か月後。
元と秋保は、納得のできる条件の移動先が見つからなかった。
そんなある日、その会社の社長が「もし新しい会社を立ち上げるなら、仕入れ先の工場を紹介する」と言ってくれたのだ。
逡巡する元とは対照的に、乗り気だったのは秋保だった。
そして秋保が新しい会社を立ち上げた。
それからの秋保は、まるで水を得た魚のようだった。もといた栄養補助食品の会社が使っていたシステムを、秋保は改良して採用した。もちろん社長は元だと言ってくれたのも秋保だ。あなたが看板よ、と。
そして港町市街に事務所を借りて、派遣で事務を雇い、事業を展開した。
ついてきてくれた会員もいれば、やめてしまった会員もいた。
それでも今まで通り、いいタイミングで新規のグループが配下にでき、あっという間の十年、何とか会社はつぶれずにもった。
その頃のことを思い出して、元はパソコンに書きだした。
『娘が生まれた頃、会社が倒産してしまった。しかしこれは、栄養補助食品などのすばらしい製品に出会うための縁だったのだ』
パソコンに打ち込んで、元はにやりと笑った。
そう。これは縁だ。それも栄養補助食品の会社をつくるための縁じゃない。その会社が、宗教法人格を手に入れるのだ。わたしは教祖になるのだ。
教祖はもちろん自分だ。看板には、秋保と栄美が二人いるといいだろう。その頃には栄美も成人している。充分、看板を張れる年齢だ。
『恥ずかしながらわたしは、それまで栄養に気を配るということをせずに生きてきた。しかしここですばらしい製品に出会ってわたしの人生は変わった』
わたしが教祖になるための。
元はそう考えて、目次に沿って、当時の思い出をきれいに書き換えて、文章を作っていった。
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