■五月十日(日) 元
「えー、おれ別に、社長さんまで引っ張り出せっていう意味で言ったんじゃなかったんだけどなぁ」
綿シャツにジーンズという、いかにも若いサラリーマンの休日的な服装をした若い男が、本気で困ったような表情で頭をかいた。
「いや、おれは本当におまえにこの商品のよさが判ってほしいんだよ。できれば一緒にビジネスやりたいくらい」
「悪いけどおれ、ビジネスに関しては、今の自動車会社に満足してるから」
「前に会ったとき愚痴こぼしてたじゃん」
「そりゃあ愚痴くらいこぼすよ。上司にムチャ言われた直後だったしさ。でもあれから上司と話して、ちゃんとおれの問題点と、言いたくて伝わってなかったことをお互いに言い合って、それで落着したんだよ。本気で辞めたかったわけじゃない」
「ちょっと待ってくれよ。おれ、おまえの言うこと真に受けてこうやって段取りしたわけだしさぁ」
この男性を紹介した会員が、ムッとした顔で抗議する。
「えー、だって普通友達と飲んでて、『会社辞めてぇ』って愚痴ったからって、いきなり仕事相手の社長さん連れてくるなんて思わないじゃん」
「おれはおまえが『辞めたい』って言うから段取ったんじゃん。それなのに今さら本気じゃなかったなんて無責任すぎだろ」
「だからそれはただの愚痴だって」
二人の堂々巡りの会話に、
遠くまで来たのにとんだ無駄足だ。ちゃんと話を通してあるんだと思っていた。
元はそんなことを考えて、腕を組んだ。
元は社長だ。いつも段取りは他の人がやってくれる。そこで元は、プラスアルファの理念を述べるだけで事足りる。
それに慣れ過ぎていた。
特にここ数年は、不況の波も何のその、そこそこ業績は好調だ。社長の元はいつもみんなに段取りしてもらってその上で判り切ったことを解説しているだけだ。
そこまで考えて、心の中で元はほくそ笑んだ。
今回の件は「大阪まで行ったのに無駄足だった。だけどそれくらいわたしは努力してる」といういい実例になる。次からこの話ができるんだったら、今回のことも、悪くはないのかもしれない。自分だって苦労しているのだ。
結局、会員が連れてきた男は、自分のコーヒー代を置いて去ってしまった。
「すみません! 山村先生に来ていただいたのに、山村先生のお話しを聴く機会さえ作れなくて」
「しょうがないよ」
さっきまで「無駄足だった」と思っていたことをおくびにも出さず、元は言葉を続ける。
「ただ次から、ちゃんとティーアップしてわたしを呼んでほしい。ティーアップって判る? ゴルフではボールを打つとき、ティーにボールを置くよね? その高い位置にボールを置くことをティーアップって言うんだ。ビジネス用語では、それを人間に置き換えて、たとえばぼくがどれだけ忙しくて、ぼくに会えることがどれだけ素晴らしいことなのかとか、それを事前に言っておいてもらえると、相手の方にぼくの話を聞いてもらいやすくなるんだよね。それを『ティーアップする』っていうんだ。覚えておいてほしい。やっぱりそういう素晴らしい人の話だと思えば、聞いてもらえる確率が上がるだろう」
「はあ、そうなんですね」
相手の男が、びっくりしたような表情で頷く。
……そんなことも知らずにぼくを呼んだのか。
そう思って元は大きく頷いた。
この「ティーアップ」という考え方は、自己啓発セミナーやネットワークビジネスで好んで使われる。こういう、いかにもなコミュニケーション系の心理学を勉強して、判った気分になっている会員も多い。
「だから次から、ぼく、というか、まずはプラスアルファがどれだけビジネスとして素晴らしいか、そしてぼくたちがどれだけ忙しいかをアピールして、そんなぼくが、その相手のために時間を割く、そのことの意義を伝えてほしい」
要は「自分をもっと褒めておけ」と言っているのだが、自分でその自覚はない。言われている相手も、判っていなさそうだ。感心した表情で頷く。
「判りました。次から話してみます」
男が納得したのを見て、元は鷹揚に頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます