冬空翡翠

 日課である稽古を終えて外に出ると、刺すように冷たい空気が圓井の汗の浮いた肌を撫ぜていった。ふっ、と思わず息を洩らしながら、慌てて上着を羽織り、首に掛けていた手拭いで汗を拭う。先刻まで激しく動き回っていた身体には未だ熱が篭っている。しかし、だからと言って防寒を疎かにしていれば、芯まで身体は凍え、風邪を引く。汗を拭け、身体を蔑ろにするな。そうしたことを、隊長には何度も教え込まれた。

 簡単に手拭いを畳み懐に仕舞う。今日はもう、業務はない。屯所に戻ろうか。否、少し歩いても良いかもしれない。思い立ち、ふらりと足を踏み出した。

 稽古の行われる道場は屯所本館の裏手にある。真中に広く取られた運動場を挟むように、二つ。道場を出れば、目の前を一枚、白い物が落ちていった。

 雪だ。

 は、と息を吐き出せば白い靄が浮かび、消える。

 そう言えば。思い出す。今日から酷く冷えるのだと、誰ともなく話をしていた。雪が降るかもしれない。そんな話も聞いた。冷え込むから、防寒には気を配れと、隊長も注意喚起をしていた。道理で。もう一度息を吐けば、降り落ちていた白はふわりと何処かへ飛んだ。それに目を向けることもなく、圓井は歩を進める。道場、屯所本館の裏手からぐるりと回り込み、表へ出るように。裏手にも出入り口はあるが、気分だった。歩きながら、ぼんやりと思う。

 冬は、好きじゃない。

 白い息を吐き、じとりと空を見上げる。鈍色の空からははつり、はつりと疎らに、しかし決して途切れることなく雪が落ちて来ていた。一枚が目に入りそうになって、慌てて頭を振る。ざり。釣られてか、足が地面を擦る。砂利の音。このまま雪が降り積もれば、この地面も白くなり、やがて泥濘む。それは好ましくない事態だった。

 冬は、嫌いだ。

 思う。

 冬は、死の季節だ。

 知っている。

 貧しい土地にしがみついて生きていた頃、冬は恐るべき脅威でしかなかった。低い気温は簡単に体力を奪い、実りの絶えた土地は、厳しい夏と侘しい秋の後に僅かに残った食料で食い繋ぐことを強要した。幾人が冬に呑まれて死んでいったか。数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程であったことだけは、確かだった。罅割れた手足を擦り、寒風吹き荒ぶ荒屋の中で身を寄せ合って、ひたすらに春の訪れを待つ季節。圓井にとっての冬は、それで全てだった。

 死に物狂いで村を出てこの桜鈴に辿り着き、軍学校から祓衆に入り、ようやっと、冬には冬の喜びがあるのだ、と学んだ。

 それでもやはり、冬は疎ましい季節だった。

 早く暖かくなれば良い。

 ひっそりと胸中で願いながら、圓井はふと足を止めた。物思いに耽りながらも歩き続け、もう屯所の表側、玄関も見える場所である。視線を滑らせれば、外の文化と絡み合った重厚な佇まいの門も視界に収まる。そこに、良く良く見慣れた人影を認めたのだ。くるくるとあちらこちらに跳ねた長い黒髪の、小柄な女性。

「ゆき!」

 呼び慣れた愛称を口にすれば、彼女はぴくりと僅かに肩を跳ね上げ、それからきょろりと辺りを見回し、こちらを見付けた。大きな瞳が一層見開かれ、きゅっと常から上がり気味の口角に喜色が乗る。

「市吾」

「今帰って来たのか」

「うん」

 走り寄り、問えば彼女はこくりと一つ頷いて、肩に掛けていた大きな鞄を撫でた。

「うちの隊長が文書館から何冊か資料を借りていてね、それを返して来たところ」

 鋲の打たれた、長方形をした皮の鞄だ。本を保護する為に、中には板が仕込まれていた、と記憶している。以前、使い走りにされた際、本を入れて駆け回った覚えがあった。

「俺が持つよ」

 その時の重さを覚えていたから、自然、そんな申し出が口をついて出た。

「空になってから言っても、って感じかもしれねえけどさ。重いだろ、それ」

「でも」

「少しだけ、な」

 右手を差し出し、暫し。彼女は逡巡するように視線を左右に振らして、それからにこりと微笑んだ。

「じゃ、お願い」

「よっし、任せろ」

 手渡された鞄は、記憶よりは軽かったが、やはり、ずしりとした重みをしていた。肩に掛け、うし、と一つ声を落とす。

「倉科さんの所か?」

「うん」

 頷いて、彼女はぐいと首に巻いていたマフラーを口元に持ち上げた。見れば、頬は随分と赤らんでいた。

「相変わらず赤えな」

「酷いなあ、気にしてるんだけど、これでも」

 むっと唇を尖らせて、マフラーに顔を埋める。白い靄が、溢れて消える。

「お前は白いもんな」

「北の生まれだから、かな。白いよね、確かに」

 すり、と剥き出しの手をすり合わせ、彼女はふと圓井の手を取り、並べる。男にしては色の白い方である圓井よりも、彼女はずっとずっと、それこそ透き通るように白かった。

「だから、すぐ赤くなっちゃう」

 はあ、と軽やかな溜め息を落として彼女は笑った。

「寒いのは良いけど、こういうのはちょっと困る」

「困る?」

「体調不良に勘違いされちゃう。風邪でも引きましたかって」

「成る程なあ」

「本人はすこぶる元気なんだけどね」

「お前は結構頑丈だもんな」

「……そう言われると、ちょっと心外」

「悪い悪い」

 軽口の応酬。白い息をもわもわと吐き出しながらのそれは、少しだけ普段とは違うような気がした。

 肩を並べて歩く。門から真っ直ぐに伸びる石畳の上を進み、屯所本館の玄関を潜る。そうすれば、刺すような冷気は少しばかりその鳴りを潜め、ぼんやりとした、ほんの微かな暖気に迎えられる。

「こうも寒いと、中も寒くて堪んねえや」

「ね」

 手を擦り合わせる彼女の眼差しが、ふと圓井を逸れる。懐かしむような光を灯したそれを追うと、大きな窓にぶつかった。

 しん、しん、と。少しずつ、雪は強くなっているようだった。

「雪だね」

「雪だな。……お前の故郷も、こうやって降ってたのか」

「ううん。もっと、ずっと酷かった。この頃はもう、どこも真っ白で、地面なんて見えなかった」

 それは。言いかけて、口を閉ざす。さぞ、生きにくい季節だったろう。

 しかし、彼女は楽しげに笑う。

「懐かしいなあ。大変なこともあったけど、冬になると皆で雪かきするの。じゃないと外に出られないから。そうしたら、小さい子は遊び出しちゃうんだよね。雪合戦したりとか。それで、びしょびしょになって怒られたりとかね」

「食い物の心配はあったのか」

「勿論。でも、御先祖様から伝わる知恵も沢山あったから、どうにかね。それよりも、私は普段忙しい家族と一緒にいられることが嬉しかった」

 赤らんだ頬を手の平で挟んで、ふふ、と笑声を零す。

「とてもひもじい思いをしたのに、ずっと冬が良いってだだを捏ねたりもしたんだよって、お父さんに教えてもらったんだ。今思えば、そんなのとんでもないって思うんだけど、でも、ちょっとだけそれでも良いかなって思ったりもして」

 冬は、特別な季節だったよ。

 笑いながら、彼女は言った。

 暖かな響きのある、言葉だった。

「明日、積もるかな?」

「どう、だろうなあ……隊長は積もって欲しくなさそうだったけど」

 水分を含んだ地面は、戦闘には向かない。万一、そんな時に襲撃がありでもしたら目も当てられない。不慮の事故も十分にあり得る。だから隊長が、隊長として天気を語る時は大抵、雨も雪も疎んじていた。

「危ないものね」

 そうしたことを無論熟知している彼女も、真剣な声色で同意の言葉を吐く。かと

思えばその表情を無邪気なものに変じさせて、圓井の顔を覗き込んだ。

「で、市吾個人としては?」

「え?」

「ちなみに私個人としては実は降って欲しかったり。久し振りに雪遊びとか出来たら良いなって」

 悪戯っぽく笑って、彼女は肩を竦めた。そして、もう一度問いを投げてくる。

「で、君個人はどう思う?」

 大きな瞳が、きらきらと答えを待ち望んで輝いていた。あんまりにも深く輝くそれが何とはなしに恥ずかしくて思わず目を逸しながら、圓井はぽつりと声を零した。

「……まあ、たまには積もっても良いんじゃねえの?」

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仇夢に生きる 閑話集 夏鴉 @natsucrow_820

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