幽き潮騒
「海に行かねェか」
唐突に落とされた言葉に、彼女は書類を検めていた手を止めて、ゆるりと顔を上げた。春の盛り、風が暖かくなってきた頃である。
「また随分な誘いだね」
多分の空気混じりに彼女は言う。
「ここからどれだけかかると思ってるんだい」
内地も内地。四方をぐるりと山に囲まれた土地である。海は遠い。潮の匂いすら届かない。しかし、彼は不思議そうな顔をする。
「一日走れば着くだろうよ」
彼にとって走ることは生きることと同義であり、疾く駆けられることは誇りだ。その彼ならば、成る程、常人には叶わぬその速度で海に辿り着くことも可能であろう。しかし。彼女は呆れ混じりに笑う。
「お前の足ならね。普通の人間はそんなにずっと速く走れやしないのさ」
「俺とお前が行くんだぜ。他なんで考えなくて良いだろう」
「尚更だよ」
羽織っていた上着を直し、そっと彼女は自らの足に触れる。
「忘れちゃないだろうね。私は歩けないんだよ。自分の足でこの建物を出ることすら出来ないんだ」
何年も昔に負うた傷を思い出しながら告げる。
「俺が背負う」
だが彼は退かない。唐突に彼女の傍らに置いていた椅子から立ち上がり、窓を開いた。風が吹き込む。彼の色の抜けた、銀色の髪が波打つ。その隙間から、はっとする程に鮮やかな萌黄の瞳が覗いていた。
「俺が背負って走っても、一日ありゃァ行けるさ」
「帰りはどうするのさ」
「また走れば良い」
「無茶苦茶なことをいうね」
「俺なら出来る」
「人一人背負って、危険な道を行くっていうのかい? 護身が心許ないと思うけどねえ」
彼の口振りからして、きっと、夜通しでも駆けて行くつもりなのだ。そんなこと、危険に溢れるこの地では、自殺行為でしかない。
「私は碌に動けないんだよ」
そう言えば、彼は押し黙った。
彼の癖のようなものだ。唐突に、思い付いたことをふっと口に出す。彼女の前で滔々と語られるそれに、彼女は耳を傾けてそれからやんわりと退ける。彼は別に、愚かでも馬鹿でもない。ただ、ふっと夢を見るだけなのだ。
「……なら、危険じゃなくなったらゆっくり行くか、海」
「ああ、それなら良いかもねえ。何か、乗り物でも使ってさ、それなら私もお前も楽だ」
そして、放られた取り留めのない夢たちは未来に仕舞われる。何時か、何時か彼女の碌に動かぬ足でも安全に旅の出来る世になったなら。そうしたら、仕舞い込まれた夢たちは全て、何時かの予定になるのだ。
「いんや、俺が連れて行く」
しかし彼は憮然として言う。
「何でさ。それじゃあお前が大変じゃないか」
「そんで良いさァ。俺が、お前の足になってやるよ」
「私は重いよ」
「軽いだろ、まだ」
「まだは余計だね」
「軽い軽い」
「どうだか」
「少なくとも、俺が負える程には軽い。だから、俺がお前の足になってやる」
「……そうかい」
何時までも引く気のない彼に、とうとう彼女は降参した。肩を僅か引き上げて、落とす。笑声を交えながら。
「なら、楽しみにしておくさ」
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