青春に餞を
「すまない、待ったか」
相も変わらぬ文語調で、彼女は言った。
私はそんな彼女ににっこりと微笑んで、腕時計を巻いた腕を掲げて見せた。
「いいえ、時間五分前。流石ね」
「そうか、なら良かった」
ほう、と自身の腕時計を確認した彼女は安堵の溜息を吐いて、それからふわりと眦を緩めた。
「今日はありがとう」
「どうしたの、改まって」
「急だったろう」
彼女からのメールを思い出す。次の日曜日、大丈夫か。簡素で明快な、いつもと変わらぬ彼女らしい文面。確か、届いたのは一週間程前だった。
「あなたにしては、ね。でも、一般的には早い方だったわ。それより、良いの? こんな時に出掛けたりして。明々後日だったでしょう?」
「準備はとうに終わっているからな。このくらい良いだろう」
ふっと彼女が笑む。鋭い眼差しが、花の蕾の綻ぶように、柔らかくなった。
「さあ行こう。時間が勿体ないからな」
彼女の白い手が私の手首を掴んで、歩き出す。
「ええそうね、どこに行きましょうか」
彼女に一瞬だけ引きずられて、すぐに歩調を合わせる。彼女の歩く速さは、良く知っているから造作もないことだった。
「どこでも良い。適当に歩こう」
「珍しいわね」
「そういう気分なんだ。せっかくだし、良いだろう」
「そうね、それも、面白そうだわ」
彼女の言葉に頷いて、私は目を細めた。
そう、せっかくなのだから、彼女の我が儘に付き合ってあげても良いだろう。こんなささやかなものならお安いご用だ。
彼女は明々後日、結婚する。
私が彼女と出会ったのは、高校に入ってから、同じクラスに入ってからのことだった。当時の私は、金に見える程に色素の薄い髪と、日本人にあるまじき青い目の為に遠巻きに見られていた。それらはハーフとして産まれた私にとってはごく普通のものであったけれど、多分、周囲の人達からしたら、酷く奇異に見えたのだろう。私はクラスから浮いていた。
彼女は、そんな私とは正反対だった。
すっぱりと切り揃えられた黒く艶やかな髪を一つに高く結い上げていた彼女は、鋭い眼差しや凛とした佇まいも相まって、日本美というものを体現していた。
大和撫子、ではなく。
女武者、といった方が正しい。
決して目立つようなことはしなかったけれど、彼女の一挙手一投足は溜息が出る程に美しく、吐き出されるアルトの、文語調に飾られた声にはえも言われぬ迫力があった。古文の時間に源氏物語を読み上げる時などは、朗々と吟じられるその文言に誰もが聞き入った。
彼女は人当たりこそあまり良くなかったけれど、気付けば彼女の周りには人が集まっていた。人を引き付ける魔力のようなものを、彼女は持っていた。
外人めいた、孤立していた私と、純日本然とした、羨望の眼差しを集めていた彼女。
別世界の住人だ。
当時の私は、そんなことを思っていた筈だ。
今では、昔の話なのだけれど。
「にしても、意外だわ。あの男がこんな時期にあなたが遊びに行くのを許すなんて」
適当に街を歩きながらそんなことを言えば、彼女はきょとんと目を丸くした。
「そうか?」
「独占欲、強そうだったもの。私が男だったら、あんな男にあなたを渡したりはしないわ」
彼女と結ばれる男のことはそれなりに知っている。人当たりは良いし、顔も悪くない。少し胡散臭い奴だと思うのは、私があの男と馬が合わないせいだろう。
だが、彼女のことを第一に想っているのは、確かだ。
彼女があの男を大事に想っていることも。
事実、私がそうやってあの男のことを口に出せば、彼女の表情は柔らかくなった。笑みを隠すように、口元に手を当てる。
「そうでもない。知らない男と、だったら怒るだろうが、お前だからな」
「それ、喜んで良いのかしら」
唇を尖らせて言えば、堪えられない、とばかりに彼女はからからと笑声を上げた。
「喜んでやってくれ。あいつにだって別に他意はないんだ」
「仕方がないわね」
ふふ、と笑って肩を竦めると、彼女はまた愉快そうに肩を揺らして、ふと視線を私からずらした。ショーウィンドウに飾られた服を眺めて、一言。
「この店、好みだな」
「え? ……ああ、確かに。あなたの趣味に合いそうね。寄ってみましょうか」
「そうだな。行ってみよう」
私と彼女、接点なんて同じクラスというくらいだった私達が仲良くなったきっかけは、ある授業で偶然に隣の席になったことだった。高校に入学して、一か月程経った頃だったと思う。どういう経緯でそうなったかはもう覚えていないけれど、当時酷く驚いたことだけは覚えている。有名人、と言っても差し支えのない程の彼女の隣に、私が座るだなんて、と。無駄と知りつつ緊張もしていた。当の彼女は自然体だったのだけれど。
授業はもちろん極々通常通りに、それこそ彼女の存在など然程気にすることもなくつつがなく受けて、終鈴が耳朶を震わせる頃には隣が彼女であることにもすっかり慣れていた。
「お前のその髪は、地毛か」
そんな時だった。彼女が不意に、言葉を投げてきたのは。
「ええ、まあ……」
注意深く、私はその問いに答えた。
「染めたりは、していないわ」
敬語、と思いもしたけれど、彼女の口調に準ずるように結局砕けた口調で応じた。一体、彼女は何を言うつもりなのだろうか、と内心身構えながら。
しかし、彼女は私の言葉を聞いて、
「それはそうだろうな」
真顔で、そう返してきた。
「……どういう意味?」
「染めて、そんな綺麗な金茶になるものか。確認はしたが、初めからそうだろうとは思っていた。目も、見事な青色だしな」
私は、言葉を失っていた。余りにも彼女が平然と、真っ直ぐにこちらを見てそんな、ともすれば歯の浮くような台詞を吐くとは思わなかったのだ。
「……お褒めいただき光栄、とでも言えば良いのかしら」
そんな皮肉っぽい言葉で繕うのが、精一杯だった。
「ああ、お前の髪と目の色は本当に綺麗だ。入学当時から言おう言おうと思っていたのだが、結局こんな時期になってしまった」
彼女には全く効かなかったけれど。
「あなた、随分と人気者だものね」
けれど、次いで放った純粋な感想には、彼女は露骨に眉を寄せた。凛々しい彼女の、珍しい表情。
「……面倒なだけだ。ああ付きまとわれても、な」
「あら、そうなの?」
「性に合わないんだ、ああいうのは。静かな方が落ち着くし、好きだ」
それまでこうして話したことのなかった彼女の語り口は、思った以上に実直で、驚く程にさっぱりとしていた。
「大変なのね」
「お前もな。ただ色が違うからと皆が避けるのはいかがなものか」
「言う程、気にしてもいないのよ。いつものことだもの。余程のことがない限り、時間が解決してくれることよ」
「そういうものなのか?」
「ええ」
それは事実。遠巻きに見られるのは今に限ったことではなかったし、放っておけば好奇心が勝って声を掛けてくる人も出てくるから、下手に向こうを刺激せず待っていれば案外あっさりと馴染めるものだった。これまでの経験上、少なくとも私の場合はそうだった。
「大人数で賑やか、よりも一人でのんびり本でも読んでいる方が気楽だし、苦ではないわ」
「……そうなのか」
何故か、彼女の目が泳いだ。
「つまり、杞憂だったのだな」
「え?」
「憐れんだ、つもりではない。だが、少し心配で、腹が立った。から、声を掛けた。見目で、人が測れる筈が、ないのだから」
「………………」
しどろもどろに彼女はそう言うが、それはつまり、彼女は思った以上に私のことを気にしてくれていた、ということなのだろうか。
「優しいのね」
「放っておくのは、我慢ならなかった。それだけの話だ。結局は、私の独り相撲であったようだがな」
「そんなことはないわ」
恥ずかしいような、嬉しいような心地がして、私は笑ってしまった。
「ありがとう、とっても嬉しいわ。まさかあなたにそんなに気に掛けてもらえるなんて、思いもしなかったわ」
「だから私は」
「義憤に駆られて、でしょう? それでも、嬉しいものは嬉しいわ。意外に、あなたとは気も合いそうだし、ね」
存外に朴訥な人柄の彼女に、私はすっかり好意を抱いていた。思った以上に話していても気楽で、心地が好かった。
「まあ、確かにその点は私も同感だが」
「そうでしょう?」
だから、と。言葉を続けた私は酷く緊張していたと思う。
「今からお昼だし、せっかくだからご一緒しても良いかしら?」
「ああ、勿論だ」
やっぱり、彼女の返答は簡潔で、平静そのものだった。
「良かったわね、良いのが見付かって」
「ああ。お前も探してくれたおかげだ」
満足そうにそう言って、彼女は注文したココアを一口飲んだ。彼女の傍らに置かれたロゴの記された袋の中には、彼女の頬を緩ませる原因であるジャケットが収められている。
「丁度買い換えようかという時だったのだ」
「運命の出会いね」
「全くだ」
視線を交わして、二人して小さく笑う。注文した彼女のココアと私のコーヒーの湯気が、大きく揺らめいた。
「今日は、大事な話があってお前を呼んだんだ」
その湯気を目で追っていた彼女が背筋を正して、真っ直ぐに私を見つめて唐突に、そう切り出した。
「何かしら?」
同様に、私も居住まいを正して聞く姿勢に入る。何故だか、酷く胸騒ぎがした。
それでも彼女は、やはり常と変わらぬ調子で、
「引っ越すことになった」
そう、告げた。
「引っ、越し?」
「……あいつの仕事の都合でな。詳しくはまだ聞いていない。そう遠くはないという話だが、まあ、県は出るそうだ」
真っ直ぐに、私を見据えて彼女はそう言った。アルトの声は少しも揺らがない。
「他の皆には詳しいことが決まってから言う心積もりだが、お前にだけは、知らせておきたかった」
「……そう、なの」
震えそうになる手でカップを持ち上げ、傾ける。熱くて苦い液体が、私の口内を満たして、喉を通り抜けていく。苦味にかこつけて少しだけ顔をしかめてから、努めて平静な声を出した。
「仕事は、じゃあ辞めてしまうの?」
順調に昇進ルートを歩んでいると言っていた筈だけど。
「そういうことになるな。元より、あいつ、それなりに一人で稼いでいるから、私には引っ越しがなくとも辞めさせるつもりだったようだがな」
「わがままね」
「嬉しくなかった、と言えば嘘になるがな」
くるりとスプーンで丁寧にココアをかき混ぜて、彼女ははにかむ。うっすらと頬が赤く見えるのは、見間違えではないのだろう。
「あいつなりに、私のことを案じてのことなのだろうからな。過保護なのは否めないが」
彼女とあの男が想い合っているのは、紛れもない事実なのだ。胸の奥がざわついて、喉がひくつくのを無視して、私は話を戻す。
「それにしても、引っ越しね……。何のかんの、私達、ずっとそれなりに近くに住んでいたのに、何だか悲しいわ」
「そんなことを言わないでくれ。私だって、思うところはあるんだ。だが、あいつ一人を送り出すのも気掛かりであるし」
「分かっているわ。新婚だもの、一時離れるのだって惜しいのでしょう?」
「それは大袈裟だ」
「あら、どうかしら?」
わざとおどけてそう言えば、彼女はうっと言葉に詰まって、それからきりりとした眉をほんの少し下げて、口元に苦い笑みを浮かべた。
「お前はすぐそうやってからかうから調子が狂う」
「あなたはずっと、慣れないものね」
「そういうのは、苦手なんだ」
ぽつりと常より小さな声でそう言って、ココアに口をつける彼女。視線は斜め下を向いていた。少し臍を曲げてしまったのだろうか。つい、口元が緩んでしまう。
高校時代から、彼女は変わらない。愚直なまでに真っ直ぐで、冗談が苦手で、存外に感情が表に出やすい。少し踏み込めば、凛々しさ美々しさの内側には、驚く程に様々な一面を秘めている。憧れの一線を越えてしまえば、彼女を可愛らしい、と、そう評することも出来るくらいに。
こんな彼女を手に入れたあの男は、大層な幸せ者だ。
心の底から、そう思う。
高校時代、私と彼女は彼女の義憤故の行動から急速に距離を詰めていった。元より気の合う部分が多かったらしく、私達は気付けば二人でいることが多くなっていた。その頃には私もクラスに馴染めていたけれど、彼女と二人の方が気楽だったし、彼女もその方が良かったのだろう。結局私達は二人で昼食を摂り、帰路を共にした。彼女は剣道部の部長という立場にあったから、時にそれは叶わないことがあったけれど、出来る限り、私は図書館で時間を潰して彼女と帰ることを選んでいた。これまでの交友関係にはいないタイプの彼女と話すのは、至極楽しかったから。
二人でいる間、私達は他愛もないことを話し合った。彼女の口数は多くなく、私自身、饒舌な方ではなかったけれど、ぽつぽつと、雨垂れのように言葉を繋いでいくことは満ち足りた心地にしてくれた。そうした合間にふと、学校では特別視されている彼女が見せる内側の柔らかな部分を見ると、無性に嬉しくなった。
そんな風に順当に親しくなっていった私の前に現れたのが、彼女の幼馴染だという、あの男だった。人当たりが良く、笑顔を絶やさない、幼馴染であるところの彼女を酷く大事にしている男。
一目で、私とは馬が合わないと悟った。
悪い奴ではない。それは確かだのに、私はあの男に出会えば皮肉の一つでも投げ付けなければ気が済まなかった。けれど人の好さそうなあの男は、困ったように笑って、けれど卒なくそうした言葉の棘を往なすのだった。そしてその様に、やはり気に入らない、と私は意固地になっていった。今も、結局私はあの男のことが好きになれないでいる。
きっと、これからも。
私は、あの男のことが羨ましくて仕方がないのだから。
あの男の前だけで見せる、幼馴染であるからこそ、あの男であるからこその彼女の表情は、私の胸に容易く爪を立てていった。
私は知っていた。
かないはしないのだ、と。
「今日は楽しかった。ありがとう」
買い物をして、喫茶店で他愛もない会話をして、気付けばもう彼女は帰らなくてはならない時間だった。そろそろ帰らなくては、あの男も心配するだろう。
「私も楽しかったわ。引っ越しの話には、驚かされたけれど」
「それはすまなかった。だが、お前に告げておくことが出来て、良かった」
心の底から安堵の表情を浮かべて、彼女は笑む。きっと、これからも、私は彼女の中で特別な親友としてあり続けられるのだろう。それはとても喜ばしくて、切ない事実だった。
「引っ越して、落ち着いたら連絡を頂戴な。遊びに行ってあげるわ」
「それでは、引っ越しても忙しくなりそうだな」
「ふふ、楽しみにしているわね」
その時がやって来たのなら、私は全てを捨て去る覚悟を持って、彼女の元を訪れなくてはならないのだと思う。きっと彼女とあの男の新居には、私の知らない彼女の痕跡がたくさんあるだろうから。
高校時代と今。変わらないと思っていた彼女はいつの間にか、すっかり変わってしまっていた。昔なら、彼女と結婚なんて、少しも結び付かなかった筈なのに。
無意識のうちに私は、彼女と私が同じ道を歩んでいるものだと、錯覚していた。きっと、多分、そのまやかしに、ようやっと気付いたと、そう言うことなのだろう。
私ばかりが、あの高校時代に取り残されているのだ。
「そろそろホームへ行っておいた方が良いな。本当に今日はありがとう。それでは、またな」
彼女の言葉に、胸の内の、暗い情念を押し込めて、私は微笑む。思うところはたくさんあるけれど、やっぱり、彼女が幸せになれるのが一番だ。それは、紛れもない私の本音だった。
「ええ、また。結婚式、期待しているわ」
三日後、私はきっと、彼女の晴れ姿を心の底から祝うのだろう。
「ありがとう」
この上もなく、幸せそうな笑顔を浮かべた彼女はくるりと踵を返して改札口をくぐり、ホームへと向かっていく。
心なしか足取りの軽い彼女の背が見えなくなるまで、私は笑顔で手を振り続けた。
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