白の諦念
一面の銀世界だった。
「見事に積もったものだな」
白銀の地面を、彼女は歩く。心なしか、その足取りは軽い。否、実際軽いのだろう。彼女には、存外に子供っぽい所があるのだから。彼は知っている。
「凄いもんっすよねー!」
その上で自身も無邪気な歓声を上げて、彼女の後ろをついて行った。事実、今冬初めての大雪であったから、彼の心も鞠のように弾んでいた。何より、敬愛する直属上司とこうして二人きりで散歩出来ているのだから。雪の反射する日光に時折目を瞬かせながら、彼は雪原に自らの足跡を残す彼女の後ろをさくさくと歩く。
一面の白の中の彼女ははっとする程に浮き出て見える。彼は彼女の背を追いながら思った。元より自分達の纏う制服は深い藍色で雪の白とは相いれないのだが、彼女にはその上夜の闇より尚深い黒色を宿した長髪があった。彼女が無邪気な足取りで進む度、高く一つに結い上げられた黒髪はしなやかに揺れ、白銀の中に残像を描いた。それでいて、ふと視線をずらせば息を呑む程に白い手足が白銀に沈む事無く躍動している。
余りにも鮮烈な色彩の対比に、彼はただ静かに目を細めた。
「……おい、どうした」
どれ程息を潜めて眺めていただろうか。彼女は不審をその顔に浮かべて彼を振り向いた。普段、賑やかな彼が酷く静かなものだから、疑問に思ったらしかった。
「身体の調子が芳しくないのか」
「そんなことないっすよ! ただちょっと、寒いなーって?」
「ああ、確かにな。長々と付き合ってもらって悪かった」
彼女の問いに返したのは苦し紛れな言い訳であったのだが、どうも額面通りに受け取ったらしい。彼女の目には僅かな申し訳なさが滲んでいた。騙されやすい、という訳では決してないのだが、彼女は兎角身内のことを信頼してくれるのだ。
「あ、いや、全然嫌じゃなかったんで!」
「それで痩せ我慢して風邪でも引いたら、大変だろうに」
ふっと鋭く吊り上がった眦を柔らかく細めて、彼女は言う。時折見せる、常の苛烈な表情とは裏腹の温かみに溢れた表情は、彼女の配下にある者たちを心酔させるに足りていた。彼女本人が何処まで認識しているかは定かではないが――きっと、認識なんてしていないだろう――、それは間違いなく彼女の武器の一つであった。無論、彼とて例外ではなく、頬に熱が集まるのを感じながら、
「す、すんませんでした!」
そう言って、勢い良く頭を下げた。
「……変な奴だな」
頭上でくすりと、彼女の笑む気配を感じて堪らず彼は頭を下げたまま一度目を強く瞑った。そうしてこっそり深呼吸をして、頭を上げる。
「酷いっすよぉ」
彼が情けなく眉を下げてそう抗議すれば、ふっと、今度は小馬鹿にしたように片頬を上げて彼女は笑った。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい!」
そして、今度は彼が先導して元来た道を戻る。点々と、白銀の上には彼女と彼の刻んだ足跡ばかりが広がっていた。それ以外に何もない、という事実は、彼の心にほんの少しの優越感を生んだ。誰に対するか、という疑問からは目を逸らしたけれど。
「でも良かったんすか? 俺とで」
だが彼は、思わずそんな質問を零してしまった。
「どういう意味だ?」
当然の如く、彼女は問う。もうなかったことには出来ない。此処で質問を撤回しても、彼女にはひっかかりが残されてしまう。それだけは、避けねばならない。彼は、彼女にとってただの可愛がられるべき、部下に過ぎないのだから。
「常葉隊長と来たって良かったんじゃないっすか?」
だから彼は、偽ることなく、素直に口にした。彼女の幼馴染で相棒である、自分とは比べものにならない程に彼女に相応しい人物の名を。彼女に誘われてからずっと抱えていた、細やかだが彼にとっては重大な疑問を。彼は歩みを止めることなく、前を向いたまま口にした。
彼女は、答えなかった。
足音すら、止まっていた。
「……帯鉄隊長?」
まさか怒らせてしまったのか。
幾分顔を怯えに引き攣らせながら、彼は振り向いた。
そして、後悔した。
彼が振り返った先の彼女は、恐ろしい程に凪いだ微笑を浮かべていた。ただ瞳ばかりが、雨垂れを受け止める水面のように揺らめいていた。
「将宣と来ても、悲しいだけだ」
吐き出される言葉は、静かに響いた。
悲しい。彼女の言ったその意味は彼には解らなかった。だが、彼は解ってしまった。もう既に、嫌という程に解っていた筈なのに、その上から暴力的なまでに理解させられてしまった。
揺らぐ彼女の目は、彼など見てはいない。
「……すみませんでした。さ、先に、帰ってます!」
振り返らなければ良かった。
そうしたなら、この一時をただ綺麗な思い出として仕舞っておけたのに。
形ばかりの謝罪を吐き出して、彼は踵を返して走り出した。
とうとう、彼女の足音は彼を追っては来なかった。
「……私など、お前には勿体ない」
その好意は、余りにも眩し過ぎるよ。
彼女のそっと落とした呟きは、白銀の中に吸い込まれて行った。
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