衣替え

「あづいっす……」

 言いながら圓井は机に突っ伏した。ひんやりとした感触は瞬く間に温くなっていき、おまけに汗で滑る。不快だ。唸りながら圓井は手で空気を仰いだ。やはり温い。

「夏ってこんなに早く来ましたっけー?」

「例年より半月は気温上昇が早かったねぇ」

 くすくすと笑いながら、圓井の向かいに座る倉科は手元の書類を捲った。

「梅雨開け早々こんな夏日になるとは流石に予想しなかったなぁ」

「でも此処は良いっすよね……上に比べれば極楽っすよ」

「まぁ、地下だからねぇ」

 祓衆は部隊によって屯所内での活動区域が異なる。その中でも情報を司る玄武隊は特別で、書類書物書簡等の情報の劣化を防ぐ為に地下に活動区域を設定していた。一足跳びでやって来た猛暑の中でも此処は幾分マシというものである。地上階の地獄絵図を思い出しながら圓井は言う。

「窓開けてもぬっるい風しか入ってこないんで皆汗だく。仮眠取るにしたって碌に寝れやしないんですよ。だから、ほら、今日は手伝い多いっしょ?」

「うん。人手があるからうちの部隊は本業に専念出来て有り難いねぇ」

 ちらほら見える青龍隊や朱雀隊の面々を順繰りに倉科は見遣る。戦闘部隊である二つの隊は、それ以外だと余り多くの仕事はない。寧ろ常に自らを万全の状態に整えておくのが仕事のようなものなのだ。だが流石にこの暑さではただ休むといった方が苦痛だ。少しでも涼を求めて彼らは玄武隊の手伝いにやって来ていた。そして玄武隊は玄武隊でここぞとばかりに溜まっていた資料の整理を彼らに任せていた。学者肌の人物の多い玄武隊にとって、情報に専念出来るというのは有り難い限り、なのだろう。でなければ眼前の玄武隊隊長は早々に自分たちを追い払っている筈だ。一見昼行燈にも見えるこの倉科という男の辣腕家ぶりを圓井も良く知っていた。だが普段は外見通りの温厚な人物なので、圓井としてはとても癒される。幾ら尊敬していたって怖いものは怖い。色々とぶっ飛んでいる直属上司とその幼馴染を思い浮かべる。どうせこの暑さの中でも彼らは平然と軍服を身に纏っているのだろう。根っからの軍人気質である彼らは暑さにも寒さにも強い。彼らから指示が無ければ夏服に移行できない自分たちからすれば、正直憎たらしい限りである。

「ねぇ倉科さんから掛け合って下さいよー夏服移行! このままじゃあ俺たち溶けちゃいますよぉ」

 兎にも角にも、この猛暑に際しては軍服が凶器だ。戦闘を考慮して多少は通気性などにも工夫がされているがやはりある程度寒い時期の物、限度がある。

「残念だけど、私はあの二人が移行指示を出すまで動く気はないんだよねぇ。此処はまだ暑くて暑くて堪らないって訳じゃないし、うちの隊員達は参った風もないからさ」

 丸眼鏡越しにへらりと笑われてがっくりと圓井は肩を落とした。予想はしていた。が、少しくらい考えるフリ程度はしてくれたって良いじゃないか。

「こういう時は白虎隊が羨ましいっすよ……」

「ああ、あそこは機動面を重視して軍服自由だもんねぇ」

 動きやすいからという理由で年中夏服を着ているような者もいる部隊だ。そもそもあそこは隊長が筋金入りの自由人だから、細かな規則は全て排除されている。何と言うか、何処の部隊長も変人ばかりだ。眼前のこの男を含めて。と、倉科の目が僅かに大きくなった。

「おや、噂をすれば」

 反射的に圓井は身体を起こし背筋を正した。条件反射だ。散々しごかれてきた身体に染みついているのだ。隊長の前では緊張感を保てと。

「失礼する。やはり此処にいたか」

「この暑さではねぇ。お茶でも淹れようか?」

「遠慮する。別件があるのでな」

 この暑さの中でも変わらないしっかりとした話し方と涼やかな声。やはりか。隊長に挨拶をしなくてはと背後にいる声の主を振り返った圓井は驚いた。

「あれ? 帯鉄隊長?」

「圓井、お前また倉科の邪魔を」

「何で夏服なんすか! ずりぃ!」

「人の話は最後まで聞け! 全く……」

 額に薄く浮き出ていた汗を拭って、帯鉄は溜息を吐く。流石の朱雀隊隊長もやはり人間なのか。ではなく。脇道に逸れ掛かった思考を戻して、圓井は若干の恨めしさと共に直属上司の服装を眺める。怒鳴られたからもう口にはしないが、すっかり夏の装いではないか。シャツの白さが妬ましい。そんな圓井の視線に籠められたものに気付いたのか、帯鉄は軽く圓井の頭を叩いた。

「いだい!」

「だから話を聞けと言っているだろう! 先程上と掛け合って来た。夏服移行を許可する。今すぐ着替えて来ても構わない」

「え? 許可? マジですか!」

「喧しい! 許可と言ったら許可だ! この暑さでは常の務めにも悪影響が出かねないからな。常葉と協議の上、黄龍所に報告し許可を頂いて来た」

「帯鉄隊長流石っす!」

 先程までの恨み言を投げ出して、小躍りしそうな勢いで圓井は弾んだ声を上げた。

「ああ、それで先に着てきたんだねぇ。君が着ないと朱雀隊は遠慮しそうだし」

「そういうことだ。……まあ、例外もいるが」

「お、俺だって隊長が着込んでいるのに着替えたりはしないっすよぉ!」

「誰もお前のこととは言ってないんだがな?」

 にやりと帯鉄が笑んだ。

「で、でも目が言ってるっす!」

「ああ言えばこう言う……ほら、着替えなくて良いのか? 他の者はもう着替えに行ったぞ」

「うっそ! あ、マジだ! 行ってきます!」

 気付けば一人取り残されていた圓井は、慌てて上階への階段へと駆けて行った。

「全く……落ち着きさえあれば一人前なんだがな」

 その背後、厳格な隊長がそう言って微笑していたことには気付かずに。

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