病犬
廊下の隅に蹲るように立っている姿を見付けて、常葉はふと足を止めた。
確か、あれは。記憶を探り、すぐに思い至る。己が相棒にして朱雀隊の隊長でもある帯鉄が殊更に目を掛けていた青年。確か、圓井、とか言ったか。
暗がりに佇む圓井は、立ち止まった常葉をじいっと睨み付けていた。大きな、男にしては丸い目を不釣り合いに眇めて、射殺してしまおうかという程に。それでいて、暗がりから少しも動こうとはしない。ざんばらな髪も相まって、その様はまるで手負いの獣のようであった。不思議に思った常葉であったが、その感情は緩やかに不快へ移り変わった。圓井の眼差しに、非難の色を感じたのだ。
かつりと、足音高く圓井に近寄る。青龍隊の者ならば肩を震わせる振る舞いの一つだったが、圓井は視線一つ揺らがせない。無知故か。断じて即座に常葉は否を唱えた。帯鉄が目を掛けているという若き逸材。この程度では揺るがない、ということなのだろう。
気に入らない。
湧き出た感情を隠しもせず、皮肉げに口角を吊り上げて常葉は口を開いた。
「何か用かな? さっきから見ているけど」
「…………………」
無言。圓井は相も変わらず常葉を視線で射抜く。常葉と比べれば華奢と言っても良いかもしれない体躯の癖に、纏う気迫は常葉にも負けてはいなかった。帯鉄に鍛えられたからだろうか。益々、常葉の苛立ちは増した。小さく舌打ちを零す。
「だんまりとは、随分なことだね。これ以上無粋な真似をするのなら、梓のお気に入りだとは言っても、看過出来なくなってしまうよ」
「黙れよ」
唸り声のようだった。低く、地を這うような声色で漸う圓井は常葉に応じてみせた。常葉は余裕を含んだ笑みで受け止めながら、思い出す。
そう言えば狂犬と、呼ばれていた。
「躾のなっていない犬だな」
そう嘲笑えば、噛み付いて来るかと思われた圓井は、しかし刃のような眼差しを向けつつも動かなかった。
「……手前、帯鉄隊長以外だとそんなんなんだな」
代わりに、そんなことを口にした。
「そうだけど、何?」
肩を竦めて常葉は答える。自覚はしている。帯鉄に兎角自分は甘い。けれど、それで誰を傷付けた訳でもない。
「梓は特別だからね。お前のような奴と同じ扱いは出来ないさ」
「トクベツ、ねぇ……」
かは、と乾いた笑声を圓井は零す。
常葉を憐れむような、嘲笑するような、酷く神経を逆撫でする笑みだった。ぞわり。常葉の中に殺意にも似た衝動が湧いた。
痛い目を見せてやろうか。
知らず、右手が鯉口を切っていた。
「俺を斬ろうってんですか? 常葉隊長」
それでも、圓井は嗤う。取って付けた敬語で常葉の胸裏を不穏にさざめかせる。
「良いですよ? 此処で抜いたって。斬ったって良い。俺は抜いてやりませんけど。まあ、それでも帯鉄隊長にはバレますかね。俺、頭は悪いけど人を煽るのは結構上手いんですよ。こんな貧乏で学のない奴に馬鹿にされると、皆、すぐにかっとなっちゃうらしくって。帯鉄隊長には効きませんでしたけどね。でも、まあ、そんな訳で俺の手の内知られてるんでこの状況じゃ俺が殴られますかね。要らんことをするな、って」
普通なら斬って捨てられても文句言われないんですけどねぇ。圓井は目を細めて、微笑む。とびきりの悪意に満ちた、無邪気を装った笑顔。
「隊長、俺に甘いんすよねぇ」
ざくり。
常葉の右手が、閃いた。
「……俺への当て付けと、そう取っても良いのかな?」
圓井の頭。その真横の壁に刃を突き立て、常葉も微笑んだ。
「俺が気に入らないみたいだね。良いよ、別に嫌ってくれても。お前に嫌われた所で俺は何にも困らないからね。勝手に嫌っていてくれたら良い」
美辞を諳んじる様に、毒を吐く。
「確かに、お前に嘲笑われるのは中々に、腹立たしいね。お前の様な下劣で粗野な人間が、賢しらな言葉を吐くんじゃないよ」
「忠告ですか? 優しいことで」
圓井は面白げに言う。初めの乱暴な言葉遣いの時の方が、余程が可愛げがあったな。常葉は思いながら、口の端を歪めた。
「釘を刺しているんだよ。お前が勝手に何処かの誰かに殺されたって俺は構いやしないんだよ。寧ろ万々歳だって言っても良い。でもね、それだと梓に迷惑が掛かるんだよ。お前みたいな愚か者の為に梓の時間や思考が裂かれるのは、我慢ならないんだよ」
「我慢ならない?」
目を丸くした圓井が、反芻する。その瞬間だけ年相応の表情を浮かべていた面は、しかし一瞬で鋭く狂猛な一面を曝け出した。
「手前が、そんな事を吐くのかよ」
常葉の首元に、衝撃。気付けば、圓井の手が胸倉を掴んでいた。余裕の表情で圓井を見下ろせば、その双眼には激情の焔がごうごうと渦を巻いていた。
「そりゃあ、こっちの台詞なんですよぉ、常葉隊長!」
黒々とした瞳を眇めて、圓井が吼える。
「手前の方が、よっぽど隊長を苦しめてんじゃねぇかよ! あ? 自分の理想勝手に押し付けて善がってんじゃねぇよくそったれ! 隊長は手前の人形じゃねぇ! 隊長は手前が思ってる程強かねぇんだよ!」
「……汚い言葉を吐くな、駄犬が」
「るっせぇ盲目野郎。御高く留まってんじゃねぇよ。手前の方がよっぽど下劣な人間だ」
斬るか。
ふっと、酷く醒めた頭でそう思った。斬っても良い。最前そう言ったのは圓井だ。そう、圓井に非があるのだ。帯鉄も、この状況を見れば分かるだろう、と。
ならば、いっそ。
「良いんですか?」
にたりと、圓井は嗤う。心の底から馬鹿にし切った表情で、常葉を見上げる。
「予言しましょうか。本当に俺を斬ったら、帯鉄隊長は手前と縁を切る」
「ふざけたことを言う舌だ」
「ふざけてませんよ。真面目です。帯鉄隊長はね、自分の隊の連中をそれはそれは愛してくれているんです。家族の様にね。手前とは違って」
あてこするように圓井は続ける。
「だからね、どんな理由があろうと、手前に何の非がなくたって、手前が身内の俺を斬ったってんなら、きっともう、帯鉄隊長と手前は御仕舞ですよ」
「随分と知った口を利くね」
「ええ。俺と隊長は家族みたいなものですから」
「黙れよ」
「怖いですか? でしょうね? 手前は独りぼっちになっちまうんでしょうから。そう思い込んでんですから。でも、それって手前が悪いんですよ? たった一人に理想を押し付けて、依存して、そんなふざけた自慰行為に浸ってた手前が」
「本当に、斬られたいみたいだね」
「なら斬れば良い。やってみてくださいよ。俺の言うことを馬鹿らしいと一蹴するんなら、隊長のことを真実愛していて隊長に愛されてるってんなら――斬れよ」
ぐらぐらと、頭の中が煮立つ。刀を握り締めた右手が震える。斬れ。凶暴な声が木霊する。この目の前の、得体の知れない、何もかもを壊しかねない狂犬を斬らなくてはならない――。
だが。
「……馬鹿らしい」
ゆっくりと、壁から刀を抜いて、常葉は努めて穏やかに苦笑した。
「少し熱くなってしまったね。でも、そんな馬鹿な真似をする訳にはいかないよ」
ふっと力を抜くように小さく笑声を漏らして、刀を鞘に収める。
「お前だって、重要な戦力なんだから」
「……斬れないんですか?」
圓井が言う。嘲りや憐れみ、おおよそ常葉の神経を逆撫でするのに必要な要素を全て含んだ声色、表情で。それでも、常葉は己を制御して、困ったような、仕方がないなと言わんばかりの笑みを取り繕った。
「無駄だからね。それに、こんなつまらないことで梓の手を煩わせる訳にもいかないよ」
そして、一歩距離を取って踵を返す。
「お前も、あんまり馬鹿な真似をしてはいけないよ。朱雀隊と違って、青龍隊は俺みたいに寛大な奴ばっかりじゃないから」
「手前以外にこんなことしねぇよ」
「じゃ、問題ないね。ほら、お前も早くおうちに帰るんだよ」
「……玉無し野郎が」
最後に圓井が吐き捨てた言葉は聞こえない振りをして、常葉はその場を立ち去った。そして圓井が見えなくなると、盛大に顔を顰め、己が右手を強く握り締めた。
何故、斬らなかったのか。
常葉は、動かなかった右手が、心底不思議でならなかった。
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