砂の桃源郷

 逃げよう。

 らしくない。そう思いながら、俺は口にしていた。



   


 窓の外、景色が揺れる。がたんがたんと、ゆっくりと流れていく。住宅街。少しずつ、緑が多くなっていく。その様を、梓はぼんやりと眺めていた。頬杖をついて、遠い目をして。

「どうかした?」

 駅で買っていたボトル缶のコーヒーを窓際に置いてそう訊けば、すまない、と一つ礼を言って、コーヒーの蓋を捻る。

「別に、何もない」

 何処か沈んだ声で梓はそう言って、コーヒーを一口。彼女の顔に浮かんだのは、苦い笑み。

「……なんて言っても無駄だな。少し、思ったんだ。今頃大騒ぎだろうなって」

「まあ、それはそうだろうね」

 もう一本買っていたコーヒーを飲みながら、同意を吐いた。少し失敗だったかもしれない。苦味と酸味に口の端を歪めると、くすくすと梓が笑った。

「お前、普段はコーヒーなんか飲まないじゃないか」

「気分で買ってみたんだ。試しだよ試し。お前があんまり平然と飲むからさ」

「私は好きだからな。そんなの人それぞれだろう?」

「そうだけどさあ」

 言いながら蓋を閉めて、鞄に突っ込む。後で梓に飲ませよう。どうせ先は長いのだから。そうして空っぽになった手を、梓の左手にそっと重ねた。ぴくり。細い彼女の指先が、震える。

「……将宣」

「誰も気にしやしないさ」

 咎めるような密やかな声。知ったことじゃない。手の甲を包んで、梓の指の間に自分のそれを絡めて、やわく握り込む。じわりと、梓の体温が手の平に伝わった。

「将宣」

「何?」

 隣を見ると、梓は前を見ていた。真っ直ぐな、凛とした光を灯した瞳。その上に被さる長い睫毛が、僅かに震えた。

「……すまない」

「どうして」

「どうしてって、お前」

 幾分鋭さを増した眼差しが、俺に向けられる。

「言い出したのは俺だろう? 梓は、なんにも、悪くない」

 本心だ。心の底からそう思っている。だから、自然に微笑むことが出来た。繋いだ手に力を込めると、なされるがままだった梓の手が強張った。

「だが、その話に乗ったのは、私だ。お前にそんな話をさせたのも」

「だから悪い、って? そんなのは屁理屈だよ。幾らでも、原因なんて遡れるんだから」

 離してなるものか。強張った梓の手を、親指でさする。

「だから梓は何も気にしなくて良いんだよ。俺が、梓を守ってあげる」

「……恥ずかしいことを言ってくれる」

 うっすらと、梓の頬が赤くなる。と思えば彼女は俯いてしまった。さらり。すっぱりと切り揃えられた横髪が、白い頬に掛かる。

「でも、本気なんだ」

「解っているさ、そんなこと」

 強張っていた梓の手が、動く。離す訳ではなさそうなその様子にじっとしていると、彼女の手がくるりと返された。俺の手の平と梓の手の平が、ぴったりと合わせられる。酷く据わりが良かった。

「ずっと一緒にいたのだから」

 指を絡めながら小さく、梓は囁いた。



  


 梓の家――帯鉄家という字面からして大仰な家である――が所謂士族の家で、ずっと昔から続いていることは、幼馴染として幼い頃から幾度となく梓の家に通っていた俺もよく知る所であった。けれど、梓の両親も兄も昔気質な所は少なからずあれども基本的には穏やかな人たちで、ごく普通の中流家庭の生まれである俺のことも、特に何を言うこともなく受け入れてくれていた。だから梓が良家の御嬢様である、なんてことは殆ど日常では意識に上らない、取るに足らないステータスの一つに過ぎなかった。

 ――お前と別れないといけない。

 そんなことを、梓が言うまでは。





 何本乗り換えたろうか。朝早くに家を出た筈なのに、駅の改札を抜けた頃、辺りはすっかり暗くなっていた。

「身体、辛くない?」

「そんな柔な身体ではない」

 軽口を交わしながら、見知らぬ小さな町を歩く。

「宿があれば良いのだが」

「歩いて探すしかないね。どっか、店があればいいんだけど」

 携帯は、とうの昔に捨てていた。きっと、今頃沢山のメールと電話が入っているだろう。梓の家にはお金だってあるから、今頃捜索隊が組織されていたりするのかもしれない。

 否、それにはまだ早いか。

「早川たちは、どうしているかな」

「……きっと、上手くやってくれているだろう」

 同意の上とは言え、名前を借りてしまった。彼ら彼女らに、少しでも迷惑が掛からなければいいけれど。馬鹿なことと分かっていても、願わずにはいられない。俺と梓の背を押してくれた、両の手で数えられてしまう程の数少ない、けれど得難い友人たち。物思いに沈んでいた俺の手が、一際強く握られた。ずっと、列車を降りてからも繋ぎ続けていた手。

「大丈夫だ」

 静かに、梓は言った。そっと、彼女の肩が近付いて、触れ合う。

「大丈夫だ、穂香も、ゆきも、圓井も皆、度胸もあるし強かな所もある。……大丈夫だ」

「そう、だね」

 自分に言い聞かせるかの様な梓の声。俺はただ、頷く事しか出来なかった。





 ひっそりと経営する個人商店のお婆さんに教えてもらったのは、やはりひっそりと息を潜めるように建っている旅館だった。問題の宿泊代は、崩して来ていた貯金で十二分に支払えた。けれど、所詮こどもの貯金。何時までもつかは分からなかった。

 その後のことは、俺も、多分梓も考えていない。

「明日も、電車だな」

「鈍行だね」

「……何処まで行こうか?」

「お金が尽きるまで、行ける所まで行こうよ。きっと、色んな発見がある」

 海沿いに行っても良いし、山の中を行っても良い。鈍行で、二人で肩を並べて車窓を眺めて、知らない道を歩いて。

「二人なら、何処へでも行ける。きっとね」

「そうだな。何処へでも、逃げて行ける」

 明日になれば、いよいよ俺たちの所業が明らかになるのは時間の問題だ。帯鉄の家はきっと、俺たちを血眼になって捜すだろう。許嫁もいる愛娘を、たかが家が近所なだけの男になんか渡しはしないだろう。御両親が、御兄さんがという問題じゃない。そういう、決まりごとなのだ。

「ねえ、梓」

「何だ」

「好きだよ」

 それでも、俺は、この手を離したくない。こどもの我が儘と言われても、甘い考えだと言われても。

「私も好きだよ、将宣」

 梓が望むのなら、何処まででも、逃げていこう。

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