蝉と白

 じいじいと蝉が鳴く。むわりと湿気を孕んだ空気がじわじわと肌を撫でて鬱陶しいったらありゃしない。ふう、と溜息一つ、首に掛かる髪を掻き上げる。切る気はさらさらないけど、こういう時はバッサリ切ってしまっても良いかな、なんてゲンキンな事も考えてしまう。一瞬だけ。カッターシャツのボタンを二三個外して、ぱたぱたと扇ぐ。生温い風。多少はマシ、だろうか。

「あっつ……」

 さっきまでは全然気にならなかったのに。熱中とはげに恐ろしいものである。何て考えながら、草臥れた鞄の中からスポーツドリンクを取り出し、一息に煽る。

「だらしないな」

 涼やかな声が、俺の背中を打った。するりと喉を潤していったスポーツドリンクを味わって、背後を振り向く。酷く耳慣れた声だ。背後に立っていたのは予想に違わぬ姿。

「お疲れ」

 声を掛ければ、梓は顎を微かに引いて、それからきりりと吊り上がった眉を寄せて、はあと呆れ混じりの息を吐き出した。

「そんなに前を開けるな、だらしないぞ」

「ああ、これ?」

「人に見られていないからって、感心しないな」

「だって暑いだろう、今日」

「それでも、だ。仮にも部長だろう、お前は」

「そうだけどさ」

「……全く」

もう一つ、息を零すと梓は俺の隣に腰掛けた。アスファルトの階段だ。決して座り心地は良くない。ただ、日陰だから、少しひんやりしている。俺の座っている所はとっくに温いけど、梓は人心地ついたように表情を緩める。

「飲むかい?」

 思い付いて、スポーツドリンクを差し出せば、ああすまないな、と一言断ってから受け取って、顎を上向けて飲む。さらり。その動きに合わせて揺らめく黒髪に、俺はふと気付いた。何時もは高く一つに結い上げてられている立派な長髪が、無造作に背を流れていた。

「暑くないのかい?」

「ん? ……ああ、髪のことか?」

 スポーツドリンクの蓋を閉め、俺に返すと梓は鬱陶しそうに顔に掛かる髪を払った。

「ゴムが切れてしまってな」

「それは災難だったね」

 じっとりと薄く汗をかいている梓の額を眺めなら、声を返す。俺の長さでも結構暑いんだ、腰程まで伸ばされた梓の髪なら、孕む熱気だって相当なものだろう。

「切らないのかい?」

「それは少し、な」

 何となくの提案は、ぼんやりと切り捨てられる。普段も時折上る話題だ。俺も、多分梓も、深く考えずに言葉を吐いている。俺としても短髪の梓、っていうのは少し想像が難しいし、彼女が良いのなら、別に構いやしない。

 あ、そう言えば。

「……もしかして、俺ゴム持ってるかも」

「え?」

 昼休みに、クラスメイトから笑い混じりに貰ったような、そんな気がする。常葉って髪長いよね、結んだら? みたいなことを言われながら。正直大きなお世話だと思ったけど、礼を言って、それから……何処に仕舞ったっけか。

 大体、適当にポケットに突っ込んでるかな。

 記憶を辿りながら、ポケットに手を突っ込むと、手応えがあった。引っ張り出せば、それは予想通りのヘアゴムだった。

「あ、やっぱり。クラスメイトに貰ってたんだった。梓使いなよ」

「良いのか」

「どうせ俺は使わないし」

「そうか。ならありがたく使わせてもらおう」

 手の平を上向けて差し出された梓の白い手にゴムを落とすと、彼女は慣れた手付きで髪を整える。そして、一つに纏めた髪をぐっと持ち上げる。

 じいじいと、蝉は相も変わらず鳴き続けている。その、じとりとした夏の空間で、俺はなんとはなしに髪を結ぼうとしている梓を眺める。

 持ち上げられた髪の下に、ふと、視線がいった。

 常は結ばれてこそいるが、梓の豊かな黒髪で覆い隠されている項が、露わになっていた。

 驚く程に白い、場所。

 つう、と、その項を汗が一筋流れて行くのが、見えた。

「…………」

 何故だか、イケナイものを見てしまったような気分だった。

「どうかしたか?」

 梓の何気ない言葉すら、諌められているように聞こえて、一瞬鼓動が早まったのが分かった。

「いや、何でもないよ」

 努めて。

 俺は冷静な顔でそう返した。

「そうか。……ああ、やはり多少はマシになるな」

 気付けば、梓は髪を結び終えていて、満足そうに口角を緩く引き上げていた。

「助かった」

「俺は貰っただけだからね、そう感謝しなくて良いよ」

 丁寧に礼を述べる梓はすっかり常の見慣れたもので、俺はほんの少しだけ、罪悪感を抱きながら、笑みを作った。

 じいじいと煩い蝉の声と温い空気、それと、さっきの、白い、白い項。

 奇妙に鮮烈なイメージを押し流すように、俺はスポーツドリンクをまた、一息に煽った。

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