紅と別れ
「口紅塗っても良いかい?」
唐突に彼から落とされた問いに、彼女は一瞬目を見開き、しかしすぐに仕方がないな、と言わんばかりに目を細めた。
「構わない」
非番の日だった。何とはなしに二人で予定を合わせていた。何処か、適当に街をうろつこうと決めていた。
彼女は常はきっちりと軍服を着込んでいたけれど、祓衆から離れる時は着物を纏っていた。彼女の生家は未だに力を持っている武家であったから、幼い頃から彼女は上等な着物を宛がわれていた。それは今でも変わらず、今日も彼女は一目でそうと知れる程に値の張るであろう黒地に牡丹の咲き誇る着物を纏っていた。下手な者が着れば不格好になりかねないそれを、彼女はまるで初めから彼女の為に作られたかのように綺麗に着こなすのだから見事なものである。今も昔も、彼は、彼女程着物の似合う女性というものに出会ったことはない。
彼女の許しを得た彼は、椅子に座った彼女の前に跪く。そして彼女から手渡された貝を開いた。彼女が部隊の者から貰ったのだというその真白の貝には真紅が詰まっていた。その真紅を紅筆に絡ませて、彼女の唇に押し当てて、引いた。驚く程に滑らかに、紅色が彼女の唇を滑った。常日頃はどうせ落ちるからと化粧をしない彼女に極彩色が乗せられる様は、彼の支配欲を満たしていった。
「普通に引いて行けば良いのかな」
「ああ、色が付けば構わない」
形の良い唇に紅を乗せていく。彼女の肌は白く、また今日に限って言えば白粉を付けているものだから、鮮やかな紅を塗った唇はいっそ目に毒だった。慎重に色を乗せながら、彼は彼女の面を盗み見た。峻厳に吊り上っていることの多い目は、はっとする程に長く黒々とした睫毛に覆われていて、時折ふるりと震えた。あのきつく涼やかに吊り上った目尻に紅を引いたらさぞ似合うだろう。ぼんやりと彼は思った。きっと、彼女が此処までの接近を許しているのは自分だけなのだ。そんなことも考えた。そうすれば、仄暗い欲望が満たされる心地がした。
彼女の自室で、彼女の許しを得て、彼女に触れ、その唇に紅を乗せる。
それは、酷く官能的で神聖な行為であるように、思えた。
氷のように冷たい頬にそっと触れる。力を籠めたら、ぼろぼろと崩れてしまうのではないか、そんな予感がした為に彼は指先のみを彼女の肌に乗せ、ゆっくりと滑らせた。曲線を描く頬から、閉ざされた口の端を経て、程良く尖った顎へ。彼のその行為に、しかし彼女は目を開きはしなかった。
「ざまぁないね、梓」
ふっ、と、彼は笑った。
「本当に、お前は俺より先に逝ってしまうんだから」
不思議な程に、彼の心は凪いでいた。彼女の死が知らされた時も、自分がかつて危惧していた程には心は乱れなかった。その時だったのだ。ただ、そんなことが脳裏を過っただけだった。彼女は彼女の為にその命を使い果たしたのだ。そう考えると、すとんと彼の胸にその事実は収まったのである。彼女はそういう奴だった。その時初めて彼は、帯鉄梓という一人の女性の在り方を思い出したのだ。己と肩を並べる程に強く、凛と在り続ける彼女の、その内の柔らかさに目を向けることが出来たのである。
多くの事務処理の後に対面した彼女は、思っていた以上に奇麗な姿をしていた。顔は無傷であったし、医師達が尽力したのだろう。身体にも目立つ損害は残されていなかった。虚ろの器を眺めて、彼はほう、と息を吐き出した。幾らこの肉体に手を加えようとも、中に、彼女はいない。誰でも解っているだろう。それでも、何かせずにはいられないのだ。彼も、その例に漏れなかった。
「お前、本当に皆に愛されているね。戦死だって、分からないくらいに奇麗にしてもらって」
台の上に横たわる彼女の隣に置かれた椅子に座って、彼は持ち込んでいた諸々を椅子の傍に据えられていた小さな机に広げた。
「無理を言って、ってお前は怒るかな。でも、これだけは譲れなくてね」
言いながら、白粉の入った漆塗りの入れ物を開けた。筆で白を取り、それに負けず劣らず白い彼女の顔にそっと乗せていく。化粧をしない為に肌理の細かな彼女の肌は、僅かに光を放っているのではないだろうかと言わんばかりに滑らかになった。頬には薄紅を、ほんの少し。壊れ物に触れるかのように、慎重に。息を詰めて、彼は彼女に死に化粧を施していった。
唇を色付ける為に貝を開いて、その中に詰まった真紅を筆に取った時、胸の奥が騒めいた。不意に、叫びたくなった。だがその衝動を深呼吸一つで抑え込んで、彼は形良い、存外にふっくらしていた彼女の唇に紅を乗せていった。この艶やかに彩られた唇が開かれて、その様には不釣り合いな堅苦しい言葉を吐くことはもうないのだ。凛としたあの声が、耳朶を震わせることは、もう叶わない。湧き上がる感情を頭を振って追い払い、彼は、幾度目かの紅を筆に絡ませた。そして筆が向かうのは、固く閉ざされた彼女の目。長い睫毛が影を落とす、その眦に一筋だけ紅を引き、指で馴染ませた。何時かの思い付き。実行して、彼は後悔した。その鮮烈な紅を刷いた目を、彼女は未来永劫開く事は無い。貝を閉じて、筆を空中に暫し彷徨わせた後に、彼はそっと机に置いた。
死に化粧を施した彼女は寒気がする程に美しかった。生きている何ものよりも美しく、そして同時に、もう決して躍動することのないことを如実に示してもいた。自らが施した化粧の崩れぬように、彼女の頬をそっと一度撫ぜてから、彼は立ち上がった。机に広げていた化粧道具を、片付ける。そして、彼女の顔を覗き込む。
滑らかな肌、すっと通った鼻梁、意志の強そうなきりりとした眉、涼やかでいながら烈火を宿していた目、そして、何時もは引き結ばれていて時折ふわりと綻んだ、今は紅い、紅い唇。息の掛かる程に、睫毛の触れ合う程に近寄って、身体を起こした。
「さようなら、梓」
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