幻想と現
「梓!」
常になく声を荒げながら自室に駆け込んできた常葉を認めて、帯鉄は苦さの滲む笑みを浮かべた。
「そんなに慌てずとも、私は何処にも行かないぞ」
この様だしな。言って寝台に横たえていた半身を起こそうとした。慌てた風に常葉がその肩に触れて、即座に手を離す。
「良い、そのままで。まだ痛むんだろう?」
「少し、な」
大人しく布団に身体を沈めながら、彼女は答えた。纏った寝衣の袷から白い包帯が覗く。腕や足にも、その白はあった。
「ざまぁないな。これでも斬り抜けられると思っていたんだが。……否、私の慢心が招いた事態だな。心配を掛けてしまって申し訳なかった」
目を閉じ、深く息を吐いて彼女は言う。
しかし、朱雀隊は予想外の事態にも関わらず戦死者を一人も出すことなく帰還しおおせた。負傷者はいたが、その怪我の程度は知れていた。
たった一人を除いて。
「皆はどうだった」
「お前の無茶の御蔭でどうってことないってさ。早川は怒ってたけどね」
「……説教かな、それだと」
「だろうね」
一人で最前線を支えて任務を果たした帯鉄は満身創痍だった。弓で足を射抜かれようとも、脇腹を刀で斬り裂かれようとも平然とした顔で、禍者達を斬り捨て続けた――とは真っ青な顔で彼女に肩を貸して屯所に戻って来た圓井の言である。彼自身は掠り傷程度であったが、敬愛する隊長の深手に動揺を隠しきれてはいなかった。隊長補の早川が宥めなければ、彼は腰を下ろすことすらしなかったであろう。
「お前は怒られるべきだよ。全く、そんな無茶をして」
「返す言葉もない」
「やり方が違うのは解っているつもりだよ。でも、お前は少し自己犠牲が過ぎるんじゃないの」
「……それも、そうだな。つい、身体が。なんて言うのは言い訳だな。以後気を付けるようにしなくては」
「お前の身を案じている奴は沢山いるんだからね。後で圓井にも言葉を掛けてあげなよ。彼、泣きそうな顔してたんだから」
「そうか……。しかし随分と優しいことを言うのだな」
閉じていた帯鉄の目が開いて、常葉を捉えた。黒々とした真円が、何処か鋭い光を灯していた。
「手元の者たちには冷たい癖に」
「酷いことを言うね」
「事実だろう。お前は、冷たいよ。今だって、自分の部隊を放って此処に来て」
真円の半分が、白い瞼に隠される。
「お前には、お前の部隊があるだろう。私にかまけている暇があるのなら、彼らに時間を回すのだな。でなければ、自身に回せ。私に今会う必要など、ありはしなかっただろうに」
「嫌だ」
刃のように眇められた彼女の目の上に手を翳して、常葉は言う。
「俺がお前に会いたかったから、此処に来たんだ。お前が大怪我を負ったと聞いたら、居ても立っても居られなくなってね。他は代わりが利くけど、お前は違うんだから。お前のことを優先するに決まっているじゃないか。昔っから、そうだった」
「昔と今は違うぞ」
「違わないよ、少しも」
「お前は、」
黒い瞳を一度瞼の下にすっかり隠して、それから彼女はもう一度その黒い真円を露わにした。
「お前は……私が死んだらどうするのだろうな」
「許さないよ、そんなこと。お前は俺よりも後に死ぬんだ。俺より先に死ぬなんて有り得ないし、許しはしない」
その言葉を吐くのに、常葉は何の躊躇いもなかった。口の端には薄らと笑みすら浮かべて、彼は彼女の目元に指を置いて、下へと滑らせた。頬、口角、顎、そして首。驚く程に細く白いその場所に手を添える。
「そんなのは、あってはならないことだからね。お前がいなくなるのなら、その前にいっそ殺してしまうかもね」
「そうすればずっと一緒、か」
帯鉄は、首に添えられた手に僅かも動じず、静かに口を開く。
「お前は、変わらないな」
「変わる必要なんてありはしない」
そうだ。常葉は思う。己があり、その隣に彼女。その構図は幼い頃から少しも変わらなかった。彼女がいれば自分は不満など少しもなかった。彼女は半身なのだ。誇張なく、そう思っている。彼女は自分にとって欠いてはならない存在なのだ。自分から離してはならない。誰かに、何かに奪われるのならば、その前に。常葉にとって、それは幼少期から変わる事のない絶対だった。
「私はお前より先に死ぬぞ」
なのに、彼女は平然とそんなことを口にする。
「私は、私の為にこの命を使う。捨てる時に、捨てる。その時はきっと、お前がそうするより早く来る」
「何で」
「私には大切なものが沢山あるからな。きっとお前に済まないと思いながら、それでも捨てるのだろう」
いっそ穏やかな顔で、彼女はそう言った。そして、首に触れる常葉の手に自らのそれを重ねる。
「お前は、変わらなくてはならないのだ。でなければ、お前は独りだ」
「梓がいる」
「こんな死にたがりには荷が重いな」
「気を付けると言ったじゃないか」
「私がどんな人間か、お前が一番知っている癖に」
「でも」
「嫌なら此処で殺すか?」
言って、彼女は笑った。重ねられた彼女の手に力が籠るのを、常葉は感じた。だが、肝心の自分の手は、まるで他人のもののようにぴくりともしないのだ。
出来る訳がない。
彼女の首には血が通っている。
「お前は冷たいな」
やがて、そんなことを、彼女は吐いた。
「お前の中にいる私は、一体誰なんだろうな」
その呟きに、常葉は何も返せはしなかった。
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