断絶
彼女の態度が変わった。
彼がその事実に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
彼女は元から刃のような人ではあった。絶えず鋭い眼差しで周囲を睥睨し、薄紅色の唇は何時も静かに引き結ばれている人であった。そんな彼女のことを触れ難いと思っている者はそれなりにいるだろう。
しかし、長く親しくしている彼は、彼女が信頼の置ける、そして存外に年相応な所のある人物であることを知っている。刀を交える時なぞはその黒い瞳が綺羅星のように輝くのを、彼だけは知っていた。負けん気の強い彼女は負けてもその輝く眼差しに闘志を燃え上がらせて、不敵に口の端を吊り上げてみせるのが常であった。
だが、最近の彼女は違う。
彼女の眼差しは棘を含み、交える刀には底冷えのするような気迫が纏わり付くようになった。それでいて、彼が彼女を打ち負かせば恐ろしい程に凪いだ眼差しで、彼をぼんやりと見返すのだ。
その不安定な彼女の様は、彼の肚の底をざわざわと不愉快に撫ぜていった。
理由の全く分からないのが、余計に彼の心に爪を立てた。
彼にとっての彼女は、強く、凛としていて、何時だって涼やかに佇んでいる月のような人だのに、何故。
ならば彼女に聞けば良い。彼は少しして、そんな回答に辿り着いた。彼の知る彼女は公明正大で清廉潔白である。真正面から問えば、きっと彼女は澱みなく、あの玲瓏な声で回答を諳んじてくれるだろう。彼はそう思い付いたのである。
ある夕暮れの日、道場から彼女の家に送り届ける折、とうとう彼は彼女に問うた。その日の試合で、彼は彼女に勝っていた。ここ最近、彼が勝ってばかりである。互角に競り合った上での事であるから、彼は何ら気にしてはいなかったが。彼女はずっと、彼と互角にあり続けている。彼にとって、その一点の事実は酷く喜ばしいことであった。
「ねえ梓、何かあったの?」
彼がそんな風に、他愛もないことのように最近の疑問を投げ掛けた瞬間、彼女は凍り付いたように足を止めた。不思議に思って彼は立ち止まり、彼女を振り返る。ぞっとした。彼女は、あのぼんやりとした眼差しで彼を見詰めていた。
「何故そんなことを聞く」
それでいて、紡がれる声は玲瓏と、何時もの調子を保っている。彼はただ、疑問を続けるしかなかった。
「ちょっと最近、色々とおかしい気がしてね」
「可笑しい、か」
反芻して、彼女は笑んだ。口の端ばかりが吊り上がった、歪な微笑だった。
「何も、そう、別段何もない。ああでも、そうだな、ここの所少し、思う所があってな。それの所為かもな」
「何もないことはないだろう」
彼は堪らず声を荒げた。
彼女は凛として、物静かでいて、それで獰猛さを秘めている強い人なのだ。そんな彼女が、ここまで変調を来すなど、おかしくない筈がなかった。
「最近のお前は、全くお前らしくないよ。何故隠す? 何にお前は悩んでいるんだ。俺にも何か出来ることがあるかもしれない。だから」
「何もない」
彼女の瞳が燃え上がった、ように見えた。夕日に照らされた彼女の瞳が、激情に揺らめいていた。
「何もありはしないさ、お前はずっとそう在ってくれれば良い。これは私の問題なのだから」
「そんなこと、分からないだろう」
「何も知らない癖に」
叩き付けるような、声だった。
「お前には一生、分かり得ないことだ。私が今思っていることは。私はお前のように、ずっと強くは在れないのだ」
その声が、次第に揺らぎ、芯を失っていく。
「お前は、何も知らなくて、良い」
黒曜の瞳が、そっと伏せられた。
夕日に照らされる彼女の影は、驚く程に細く、頼りなかった。
「嘘だ」
そんな彼女の有様をただただ息を呑んで見ていた彼は、漸うそんな言葉を絞り出した。
「お前は、何を言っているんだ? 梓は、強いじゃないか」
「何を!」
弾かれたように彼女が彼を見据える。その目が、静かに見開かれた。
「何を、言っている」
「だってそうだろう。何だ、何に思い悩んでいると思ったらそんなことか」
「そんな、こと」
「ああ、そんなことだよ。俺とお前にとってはね。そうか、最近お前は戦績が振るわなかったからか」
彼は、ほっと、胸を撫で下ろした。そうか、そうだったのか。
「でもお前は、変わらず強いじゃないか。俺は何時だって冷や冷やしているよ。少しでも気を抜いたらお前に勝利を譲ってしまうとね。だからそんなことで、お前が思い悩む必要はないさ」
梓は、強いんだからさ。
そう言って、彼は努めて柔らかく微笑んだ。
彼にとって彼女は、強く美しい人である。
凛と背筋を伸ばし、迷いなどとは縁なく真っ直ぐに道を歩む人である。
これからも、それは変わらないのだ。
変わってはならないのだ。
だから彼は、微笑んだ。これ以上、彼女がこんな些事に思い悩まずに済むように、と。
「昔からお前だけは、俺と互角に戦ってくれたんだ。だから、お前はこれからもそうであってくれたら良い。そう、今は少し調子を崩しているだけさ。きっとまた、調子は元に戻る」
彼女は、無表情だった。夕暮れの朱い日に白い面をただ晒していた。そして暫くして、ゆっくりと唇が弧を描いた。
「……そう、か。そういうことか」
吐き捨てるような響きなのは、きっと気の所為だろう。そうに決まっている。
「お前にとって、私はそうなのだな」
泣き笑いに見えるのは、この夕日の所為に違いない。
だって、強く美しい彼女がそんな顔をする筈がないのだから。
だから彼は、微笑で彼女に応じる。
「さあ、取り敢えず今日は帰らないと。そして、明日はまた、手合わせだ」
「そうだな、次こそ、お前に勝ってやらねばな」
そう言って挑戦的な、獰猛な笑みを顔に貼り付ける彼女は、何時もの姿と何ら変わりの無いように見えた。
それを見て、彼は心の底から安堵した。
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