花翳る

 がつん。

 常らしくない乱暴な所作で彼女は木刀を床に叩き付けた。硬質な音が、道場に響いた。けたたましいその音は、しかし彼女を癒したりはしない。

 負けた。また、負けた。口から衝いて出そうになる様々をぐっと呑み込んで彼女はきつく唇を噛んだ。そんなことをする必要は無い。彼女にだって解っていた。此処には彼女しかいない。彼女を散々に打ち負かした彼は彼女に握手を求め、それが拒まれると静かに立ち去っていたのだから。だが、彼女は一人であっても高潔であらんとした。それが、彼女に残された唯一の矜持であるように、思えたのだ。収まることのない激情の渦を胸の内で持て余しながら、彼女は胴着の袷に手を掛け乱暴に諸肌を脱いだ。そして足音高く壁の鏡まで歩み寄り、自身の姿を映した。

 丸い。第一印象は、それ。

 男よりも狭く丸みを帯びた肩、どんなに鍛錬を積んでもこれ以上筋肉の付かない腕、日毎大きく重くなっていく胸、頼りのない細い腰。

 彼女は両手を鏡面に着き、そんな自身を睨み付けた。その鋭い双眸にしても、男とは何処かが決定的に異なる。

 己が女である事。それは、酷く彼女を苛立たせ、恐怖に叩き落とす事実であった。

 かつてはこうではなかった。彼と木刀で打ち合えば全くの互角であったのだ。時に負け、時に勝った。彼女と彼は五分と五分であった。互いに切磋琢磨し高め合う好敵手であり良き朋友であった。

 だと言うのに、何だ、この様は。彼女は鏡面に爪を立てた。

 日を経、月を経、年を経る毎に、彼女と彼との間には差が生まれていった。互角であった勝敗が傾き始めた。彼の勝利が増え始めた。彼女は驚いたが、しかし取り乱しはしなかった。ただ粛々と、鍛錬の量を増やした。彼女は理解したつもりでいた。男と女の差。そんなものは些事であり、男に勝る鍛錬を積めば、その隔たりなど飛び越えられるのだと、考えていた。

 しかし、隔たりは埋まらない。

 寧ろ、広がっていった。

 それでも彼女は諦めなかった。倦むことなく、淡々と、粛々と武の道を歩んだ。身体を鍛え、技を磨き、彼を研究した。彼女は努力の人だ。一切の怠慢無く、自らに課した試練をこなしていった。

 そして、理解した。

 彼女は彼との隔たりを、一生埋めることは出来ないのだと。

 それはあってはならぬことだった。

 彼女と彼は対等であるべきなのだ。どちらが言い出したでもない、それは暗黙の了解だった。互いだけは共に高みへ。互いこそが互いを侵し得る存在でなくてはならない。そうでなくては、彼女はともかくとして彼は孤独になってしまうだろう。

 彼女だけが、彼の隣に並び立てるのだ。

 だが、それはもう叶わない。

 限界は、見えていたのだ。持久力、膂力、脚力、その全てが以前のように向上しなくなった。身体つきが女性のそれへと変化をしていった。それはかつてのように躍動することが出来ないことを示していた。

 彼女は、彼と同じではいられなくなったのだ。

 それを、認めなくてはならない。彼女の冷静な部分はそう告げていた。その差異を冷静に分析し、その長所を、彼に勝り得る部分を鍛えねばならないと。だが。彼女は眉根を寄せる。それを、理解するという行為が、彼女は恐ろしかった。

 実際の所、彼女は性差を理解出来ていなかったのだ。彼女と彼は同じように生きて死ぬと、何処かでそう信じていたのだ。

 それを、裏切られたかのようだった。

 手を握り締め、拳を作って鏡を殴りつける。

 何も変わらない。

 それでも殴る。何度も、何度も。

 やがて、幾度殴ったか数えるのも厭になった頃、彼女はずるずると、鏡の前に頽れた。

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