第二話
そしてその暗雲と致死性を持つ奇病は、東進を続けて六ッ矢へと至った。
降りしきる雨は例外なく生活用水を赤黒く汚染した。雨と病、その関連性が掴めないままに領内の真竜種たちが出血と熱とを起こし、ついには死者が出る。
現当主が不在のまま、率先してその対応に追われていたアルジュナ・トゥーチは、決して屋敷内より外に出ていないにも関わらず、突如廊下にてその巨躯を崩れさせた。出血は見られなかったものの、今までありえなかった高熱を発し、床に臥すことになった。
「だめです! 井戸を汲んでもこの有様で……」
「だったら氷室から切り出したものを溶かして使え!」
「い、いくらなんでも領民すべては賄い切れません! トゥーチ家周りでも数日と保つか……」
「貯水とそれが尽きるまでの間に汚染されてない水脈を探して汲み出せっ、もうそれしかねぇ!」
元よりその旧本領にてアルジュナの補佐に当たっていた星舟が突如としてその役務と責任を一身に負うこととなり、多忙を極めていた。
「くそっ、なんなんだよこれは!?」
医師を呼んでも学者を招聘しても、それらしい見解や予防や治療法はなく、あの至上の生物たちがなす術なく衰弱死していくのを傍観するしかできないでいた。
「真竜種以外には使わせたら? 赤い水」
領主館内を東奔西走しながら指示を飛ばし、歯噛みし毒づく星舟の後ろで手伝いに来ていたグエンギィが蜜柑を剥いていた。
「効かないんでしょ、彼ら以外」
……そう、それこそがこの奇病の唯一の救いというか、一周回って厄介極まりないというか。
今のところ症状が出ているのは真竜種のみだった。
彼らより生命力で劣るはずの獣竜鳥竜、そして人間果ては蚕に至るまで、それに類する症例の届け出はない。たまに気分が悪いと訴え出てくる者がいなくもないが、たいがいは一般的な風邪や気の病という奴だ。
あくまで雨やそれの溶け込んだ水気を取り込んだ真竜種のみが罹患し、二次感染の例はない。
「それでも、立場ある奴がおおっぴらに言うことじゃねぇだろ……」
「他に手はないだろ」
グギ、と星舟の頬がきしむ。
やはりというかさすがのグエンギィと言うか。
この紫髪の獣竜は物事の本質を残酷なまでにざっくりと見抜いている。どれだけ道義を垂れようとも、真竜種には清水を選び、あの赤い水を民草に使わせるほかないのだと。
だが蔓延しているのは、病のみにあらず。
すでに流言飛語が口伝によって広められている。
曰く、これは奢れる竜に下された天罰だなどという益体もないものから、これは藩王国が開発した新兵器だというものまで。
いちいちそれを捕まえて否定するのも馬鹿らしいが、あえて言うのであればこの雲は西より流れてきた。すなわち帝都より。
すなわち藩王国側より仕掛けてきた謀略ではないだろうし、そもそも奴らが開発するとすれば、真竜種のみに限定することもなかろう。
しかし、悪貨は良貨を駆逐する。
荒唐無稽、有象無象の風説であれ、妄信する者もいるだろうし、それに乗せられ世情は揺らぐ。そんな中で清水を独占などすれば、選民、圧政、搾取、差別だなどと誇張して騒ぎ立てる愚か者が沸いて出ることは容易に想像がつく。
あの女楽師の網がそれを利用するということも。
「ではもっと現実的かつ早急に危惧すべきことについて話そうか」
そう話を切り出したのは、リィミィだった。
被害状況に目を通しつつ、胡瓜をかじる少女のごとき奏者は、声の調子を抑えて言った。
「扇動などというまどろっこしい手を用いず、あるいは併用し、藩王国がこれを機と捉えて侵攻してくる可能性についてだ」
リィミィの言うところは分かる。
真竜種が使い物にならなくなっている、というだけでは事足りない。
ただでさえ対尾の敗戦の傷が残っている中に、今回の最高権力者たちの相次ぐ病死により、政治と軍事の中枢は都鄙の別なくほぼ麻痺状態。
サガラは戻って来ないままで、アルジュナは病に伏した。唯一東部における総指揮権を持った者がシャロン・トゥーチしかいないが、彼女も新府の方を収集するのでかかりきりだ。
もし今戦を仕掛けられて来たら、各領主はそれぞれの持ち場でそれぞれの権限でもって自衛、応戦するほかない。となれば各個撃破されることは目に見えている。
「そうなったら……まぁお手上げだよな」
これが第一連隊長のご意見である。
事態の深刻さとはまるで乖離したあっけらかんとした口ぶりで、蜜柑を食んでいる。
リィミィはそんな彼女を、食ってかからんばかりに鋭く睨み据えた。
同僚を庇うわけでもないしそんな気は毛頭ないが、星舟はリィミィをたしなめた。
「この雨は、東へ向かって伸びている。つまり藩王国も現在同じような状況ってわけだ」
「だが、人間には効かない」
「それはまだ判明してない。ひょっとしたら種族別の時間差ってもんがあって、今は平気でも後々発症するかもしれねぇだろ」
みずから言っていて、うすら寒い憶測ではあると思う。
そうなれば戦どころか、この大陸から生命全てが絶えることになる。
「それによしんば無効だとしても、不安なのは向こうの兵だって同じだ。自分らには効かないってわかっていようと、こんな雨の下で野営行軍なんぞ、したくないに決まってる。士気なんて維持できるわけがない」
というわけであの女王らは、扇動をするだろうが大々的な軍事行動は控えて様子見と国内の収拾に務めるだろう、というのが星舟の見解であった。
「……そんなことも理解できず、手柄や名声欲しさに声を大にして出征を主張するような、そんな頭のおかしいガキみたいな奴が独断で兵権を行使しなければ、の話ではあるが」
そう鼻で嗤う星舟の下に、シェントゥが駆け寄ってきた。彼、いや彼女の体躯には有り余る館内を、上官求めて走り回ったのだろう。弾む息もそのままに、星舟にさらなる凶報を告げた。
「碧納の恒常さんから、その、急報で……っ!」
もっとも危惧し、かつ現状と『彼女』の性質ゆえに手立てがなく、かつ覚悟していたこと。
ポンプゥも肩で息をしながら参上し、グエンギィへと耳打ちする。
そして連隊長とその副官たちは、張り詰めた面持ちを見合わせた。
東部総領代行、シャロン・トゥーチ。
件の病に罹患し、自室にて倒れたという。
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