第十八話

 たしかに、あの男の声を聞いた。

 次の瞬間、降り注ぐ鉛の雨は敗走中の藩王国軍の正中を射抜き、追い討ちをかけた。


 人馬、骨と血肉。かろうじて砲弾を逃れた生き残った騎手とともに討竜馬に同乗していた英悟は、それらの混合物とも言うべき醜悪な塊を、目の当たりにすることとなった。


「裏切ったな……裏切ったなっ! 恒常子雲ッ」

 彼は悲鳴を放つ代わり、裏返った声で目視できぬ相手を非難した。


 理屈に合わぬ。

 何故人間が竜の側に寝返る? この回天の時期に、あえて旗を畜生どもの側へと翻す?

 あの女王の、彼女の意志や夢に叛く?


 理屈に、合う。

 自分が負けたのは、あの卑劣漢が裏切り、自分たちの軍事行動を逐一星舟に漏らしていたからに相違ない。

 でなければ自分があんな男に負けるものか。そのための努力をした。勝つための、愛する彼女を勝たせるための修練を積んだ。本来ならば、正しく行われていた戦ならば完勝を収めていたのは自分だ。

 一兵さえ討ち取ることもできず、むなしく敗走しているわけがない。

 ――だが、悪夢は醒める気配を見せず、続く。


「ぜ、前方よりさらに敵っ!」

「さ、山上の伏兵が別動隊を破ったかっ!?」


 弥平が動揺し言葉を喪失している大将を代弁し、声を張り上げた。

 だが、網草英悟は腐っても将だった。麓の敵であれば進行方向がおかしい。山を駆け下ってくるはずである。

 だが、前方だ。しかも、星の標ではない。


 海と山。相反する紋所が一つの生地に染め抜かれた旗。

 敵の、本隊。

 戻ってくるのが、速すぎる。


 迎え撃たんと迫ってくる先鋒にいるのは、誰あろう、女丈夫である。であれば、誰あろう、ナテオに相違ない。


「も、もはや」

 誰かが、命さえも諦観したかのような嘆きを落とす。


 だがむしろ、英悟は勇をふたたびに得た。

 迂闊に攻め入る彼女を討てば、済む話である。


「どけっ!」

 愛馬はすでに喪った。あしが要る。速さが要る。ゆえに彼は、同伴者を蹴り落とし、馬を我がものとして真一文字に駆けた。


 手綱とは逆の手には短筒が握られている。撃つと同時に、『牙』を抜き放った彼女の姿も変わった。

 外殻の表層は青紫に歪曲し、さながら鬼火のようでもある。地を踏みしめるたびに、逆立つその毛飾りが揺れて、火花や硝煙にも似た独特の粒子が閃いて散る。


 それは何よりの重しであるはずなのに、速度はさらに加えられていく。

 真正面から弾丸を、避けもせず受けた。

 やはり、それが真竜の肉体に届くことはない。そも、本気になればたやすく避けられるはずだった。

 だがそれで良い。今はそう思わせておけばいい。最期の一発まで、一瞬まで。


 波を、注視した。

 竜殺しの男、霜月信冬の言う通り。その理屈が抽象的なれど真実のものだとするならば、同じ人である自分にもできるはずだ。


 そして、見えた。

 幻覚か、いやたしかに視た。窮地において最大限に高まった集中力が、極度の緊張状態が、それを可能にしたようだ。


 四発目。

 敵味方いずれの目にも無駄弾としか取られなかったであろうが、彼はたしかに、表装に揺らぐ波紋を見た。より薄くなる装甲の一部を見た。

 狙いは額。五発目で波を再度作り、そこに射込む。


 果たして、五発目にも見えた。

 これで自分も、女王にも認められる。称賛される。この失態を補って余りある栄光の煌めきが、眼前に広がっていたのをたしかに実感していた。

 これで英雄として、ひとりの男として、彼女に……


 音が、爆ぜた。


「……え?」


 だが、奇妙な感覚に襲われた。

 弾は、自分の側からは来なかった。

 銃声は遠く、熱はより近く。……痛みは、鈍く。

 撃ち尽くした拳銃は手元をぽろりと転げ落ちた。


 指が、銃を把っていたはずの親指が、ぶらりと付け根から所在なく垂れ下がった。

 血が滴り、一足遅れて自重によって、最後の皮一枚が千切れて、音もなく落ちた。


「あぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁ!?」

 今度こそ、憚りなく英悟は声を張り上げた。


 銃弾は、指を撃ち落としたのは、ただの馬に乗って猛追してきた夏山星舟の放った一発であった。


 痛みのみではない。竜殺しの極意を掴めるあと一歩のところでくだらぬ男が適当に撃ったまぐれ当たりによって妨害され、失敗したことを自覚し、彼は悲嘆した。

 その痛恨事が、この一瞬の彼の世界だった。ひっくり返って落馬したおのれを介抱し、呼ぶ弥平の声が、遠かった。


 だが彼が悪夢の世界に意識を浸からせようとも、現実はさらに追い打ちをかける。真竜なる脅威の塊が、眼前まで迫っていた。

 流麗な刃の切っ先を前へと傾け、敵将を討つべく。


 だが、それを身を挺して遮る一影があった。

 泡河隆久。

 かの若武者は己が腹にあえて『牙』を突き立てさせるようにして、英悟らをかばった。


「あとを、汐津を、義兄を、どうかお頼み申し上げる」


 死に場所と命数を悟った彼は、血の泡を口端より吹きこぼしながら、それでもなお、澄んで親しみやすい眼差しで同輩たちを顧み、確たる言葉でそう遺言した。


 彼を視認できたのはそれが最後だった。

 あとはどうしようもなく、星舟の追撃と本隊の挟撃、さらには丘に陣していた敵の伏兵も中遠藩兵を追い落としながら加わり、痛打を加えた。


 総大将網草英悟およびその副将は、見るも無残な様相で逃散した。

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