第三章:大牙 ~夏山星舟拉致事件~

第一話

 禁山の頂上に、巨大な異物が突き立っているのが夏山星舟の隻眼からも視認できる。


 天と地とを繋ぎ止めるような長大な円筒と、今彼が立つ園からはかなりの隔たりがあり、その間を霧がかかっているにも関わらず、遠望できた。

 トゥーチ兄妹の従僕として初めてこの地に踏み入れた時、あの奇異なる物質に心奪われたものだと彼は思い返した。


 あの時は天道を支える柱のように思えていたが、今となっては神の放った巨大な矢ではないかと感じている。


 だが方々に広まる伝承に曰く、あれは船だそうな。

 あれによってこの地に降り立った国連くにつらねの神々は、この地に蔓延る『闇の旧権力者たち』とやらを征討し、その後はこの大陸に竜を、次いで人を造ったという。

 むろん、人と竜との間では、この伝承に前後の違いや微妙な差異はある。



 夏山星舟はそこに神秘性を見出すよりも、道理や因果のようなものを感じている。

 すべてが真実ではないにせよ、まったくの偽りということはあるまい。おそらく先の神々に類する存在は、たしかに在ったのだと思う。


 今、竜が人に駆逐されんとしている事実もまた歴史の一部となり、文明が滅びた後は擦り切れた神話として綴られていくのだろうか。


「ずいぶんと、久しぶりとなったな」

「帝にもいろいろとご心配をおかけし、面目次第もございませぬ」


 二色の透き通った声が空の下に響く。それらによって、星舟の意識は神話の世界から引きずり戻された。


 今、彼らは龍帝の宮殿に招かれていた。

 白を基調とした、かつては神々が居住していたという庭園。割れた卵殻のような外壁と原生する見慣れない真紅の花々以外、神代の生活を識れる遺構はほとんどない。


 これでも人と争う前は洞窟同然の場所だったというから、相当に発展したと言って良いだろう。海の外より運ばれてきたと思しき、角灯や調度品の類も散見される。


 都に来たのはこれで二度目だが、初回と違い星舟が従っているのはトゥーチの家長である。


 警護のために外部に背を向けている星舟は、ちらりと隻眼を傾けて様子を盗み見た。

 そのアルジュナ・トゥーチが対しているのは、白磁のような肌を持つ、骨細の青年であった。

 最上等の染料と銀糸と技術で仕上げられた、上下ひとつなぎの衣服をまとっていなければ、誰も彼を竜の国における最高権力者とは認めまい。草莽の学者、という趣の聡明さは見受けられる。

 だが紛れもなく、彼は龍帝なのだ。


 そんな彼の背に控える見目麗しい妙齢の女性の列に、アルジュナはちらりと視線を配った。


「また、愛妾を増やされましたな」

「……目敏いな」

「尊い御身なれば、多少はお慎みなされるよう」


 そう言って、アルジュナは首を垂れる。

 この東方の物主が傅くのはこの青年だけであろう。また彼に渋面を作りながらも、ここまで踏み込んだ直言を受け入れさせられるのはこの老竜のみであろう。


「そういうアルジュナ殿こそ、近頃は帝都から足が遠のいている。もしや身体の加減でも悪いのか?」

「多忙な時期が続き、老体に鞭打ちましたでな。そもそも、寄る年波には勝てませぬ」

「それでも」


 龍帝はやおらに立ち上がり、くるりと星舟たちから背を向けた。

 やはり細すぎる。

 消息不明となったラグナグムスも召し抱えた海の男たちと比して半分ほどの太さと身の丈しかない華奢ではあった。

 だがその彼からさらに全身の骨肉を削ったような痩躯であった。

 その彼が、言葉を続けた。


「隠居は、まだ早過ぎはせぬか」


「……えっ!?」


 驚いたのは帝でも、女房たちでもない。ましてやアルジュナでも。星舟だけであった。


 思わず完全に振り向いてしまった。帝と目があった。理知の瞳に煩わしさがあった。羽虫を払うような手つきに詫びて、星舟は目を外部へ戻した。だが自身の背の向こうに、意識は残したままだった。


「その様子では、周囲の者へは伝えていなかったようだな」

「愚息には伝えております」

「あの者自身より聞いた」


 知らされていなかったのは、自分自身のみではない。後継者のサガラのみだ。当然のことであろうが。

 自身にそう言い聞かせながらも、星舟は疎外感と悔しさを噛み締めた。


「それは、此度の敗戦に責任を感じてのことなのか?」

「無論、それもございます。しかしながら、敵も味方も新たな世代に移りつつあり、真竜としてあれほどの力を持っていたブラジオも死にました。ならば愚老のみが、どうして時流の波をせき止めるようなことが出来ましょう」


 だが、吐き出した龍帝の呼気に、納得した様子はない。本竜の意向であればあえて留めはしないが、自分にとっては喜ばしいことではない。そう言いたげだった。


「……何か、ご懸念でも?」


 アルジュナはそう尋ねたが、貴人は答えなかった。


「サガラは近衛隊長と東方領主を兼任することになります。何かとご不便をかかるやもしれませぬが……あの者であれば、大過なく務め上げましょう。私やシャロンも補佐に当たりますが、それさえも必要ありますまい」


 ともすれば倅自慢ともとれるアルジュナの発言ではあったが、そこに偏愛の響きは感じられない。むしろこれが我が子に向けたものかと思えるほど、淡々としていて客観的だった。


 だがサガラの名を聞いた瞬間、帝の呼吸には乱れが生じた。やがて、細い嘆息へと変じた。


「なぁ、アルジュナ殿。笑わずに聞いてくれぬか」

「承りましょう」


 気鬱を隠さず切り出した天上の存在に、音もなく立ち上がってアルジュナは寄り添った。


「……余はな、正直なところ、あの者が恐ろしい。貴殿の子が」

「……」


 星舟は両者を改めて盗み見た。

 表情を変えずにいる老公は、すぐには返答をしなかった。若い帝の続きを待った。そして沈黙に耐えきれなくなって、堰を切るように口を開いたのは、帝の方からだった。


「いや! 害意などないことは分かっている! 苛烈な手段を用いることはあるが、それらが全て筋の通ったことであることも、竜のためになることも理解しているつもりだ! だが、あの黒竜はいったい何を最終的な目的としている? この戦争の勝利か? 竜の発展か? 人の駆逐か? 隷属させるのか? 余は、いや余のことをあれは、あれの余を見る眼は……っ!」


 感情の昂りとともに、言葉を継ぐごとに、その指先はわななき、ただでさえ色白のかんばせからは血の気が抜けていく。


 血が滲まんばかりに握り締められたその手を、枯れた老臣の掌が握って覆った。


「あまり、憂いなされますな。それこそ身体に毒というもの。……ご心配めされるな。役職からは身を退くとて、あれの父親まで辞めたわけではありませぬ。もしもあの者の道に誤りが生じたのであれば、この老骨の『牙』でもって正してみせましょう」


 細めた視線を真っ直ぐに向け、赤子を宥めすかすかのように緩やかに上下や前後に手を動かす。

 そうしているうちに不要な緊張が青年の手から抜けていくのが見て取れた。

 やがて帝は自らの意思と力でアルジュナから身を引いた。多少上体が揺らいだが、周囲の侍女が彼の肩を支えた。


「……少し風に当たりすぎたようだ。醜態をさらしたな。ありがとう、


 ほのかに笑う帝に、「いえ」と抑揚なく彼は応じる。


「時に、『宰相殿』の調子こそいかがですか」


 話題を転じた瞬間、また龍帝の表情が温和から遠のいた。その視線が伺うように星舟の方へと向けられる。だが、フンと鼻を鳴らし、すぐに玉眼は逸れた。

「聞こえたところで、どうせ理解できようはずもない」

 と、憐れみを込めて。


「あまり良くはない。近頃はますますその言が不明瞭になり、論理に矛盾が生じるようになった」


 そしてなるほど、星舟には見当の及ばない話だった。

 直属の群臣は掃いて捨てるほどいるとして、不思議と『宰相』に類する役職はこの国家において存在しない。

 故に彼らが語らっているものは何かしらの隠語であろうが、現在星舟には追及する気は起きない。


 サガラと帝の微妙の軋轢なども、ともすれば今後の役に立つ情報ではあっただろうが、心の琴線に触れないままに右から左へと素通りしていった。


 今、彼の関心はただ一点、アルジュナ・トゥーチの引退にのみ占められていた。


 そしてそれで手一杯になっている己の卑小さを、彼は嫌悪した。

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