第二十七話 宗歩四天王

 市川太郎松と平居寅吉の激闘に決着がつき、聴衆たちの歓声が鳴りやまない中。

 観客席から見ていた阿蘭陀通詞の中山作三郎が、急に腰を浮かして土俵に向かって駆け出した。


「寅吉、どうだ? 記憶は戻ったのか?」


 将棋相撲の取り組みを無事に終えて、土俵から降りてきた寅吉に、駆け寄ってきた中山作三郎が心配そうに尋ねた。


 まだ勝負が終わって間もない寅吉は、呼吸をするのも苦しそうに肩を上下にさせて、

「……ハイ。全部ではないデスガ……」

「おお、それは僥倖ぎょうこう! して、おぬしは一体何者なのだ?」


 頭を抱えながら答えようとする寅吉に、周りにいた全員が固唾を飲んで待った。


「ワタシは、オランダのチェスマスター……デス」


 寅吉は俯きながらそれだけを答えた。

 すると、傍らで聴いていた東伯齋が素っ頓狂な声で、

「ちぇす? 初めて聞く名前やな」

「東伯齋殿、チェスは南蛮の将棋のことです。なるほど、おぬしが将棋に達者だったのもこれで頷ける。記憶にあった『駒の形が違うショウギ』とはチェスのことだったのだな。でほかには?」

「……イエ、それ以外は特になにも思い出せまセン……デシタ」

「なんと。すると手掛かりはほとんどなしか……」


 中山作三郎ががっかりするように肩を落とした。

 はるばる長崎から二人だけで旅をし、ようやく掴んだ手掛かりもとうとうここに来てついえてしまったことに相当気を落としているのだろう。


「まぁ、それでも一歩前進やないか。なぁ寅吉はん、あんたこれからどうすんねん? 祖国に帰るんか?」

「いえ、ワタシの祖国はとても遠いところにアリマス。ワタシはこの国でショウギの旅、続けよう思いマス。ショウギもこの国も好きデスカラ」


 寅吉が見せた顔つきは意外と明るく悲観に暮れているわけではなさそうだ。

 異国から流れ着き記憶を失ってなお将棋への情熱を失わないこの若者に、宗歩も他の者達も畏敬の念すら覚えた。


「ほな旅には先立つもんが必要やし、しばらくうっとこで奉公せえへんか? 男手が少のうて困ってるんや。それに将棋は宗歩はんに教えてもろたらよろしいわ」


 東伯齋の突然のこの申し出に、寅吉がどうしたら良いかと尋ねるように、中山作三郎の方を向く。

 中山作三郎もうんと頷きながら、

それがしもそれが良いと思う。異人がたった独りであてもなくこの国をさまよい歩けば、要らぬ厄介事にも巻き込まれるだろう。なに、長崎奉行様へのご報告は、某がしかと済ませておくゆえ心配するな」

「ワカリマシタ、アリガトウ中山サン。それでは東伯齋サン、皆サン、ワタシこれからもお世話になりマス」

 中山作三郎にも勧められて、気になっていた長崎奉行への報告の心配もなくなり、寅吉は晴れたお天道様のような笑顔を見せて、ぺこりと頭を下げた。


「よろしくな、寅吉よ。次は将棋だけで真剣勝負しようや」

「太郎松さん……望むところデス!」


 太郎松は数日前にあったばかりのこの素直な性格の異人に好感を覚え、魅かれ初めていた。


 このとき、太郎松の横で聞いていた宗歩には寅吉がまだ何か秘密を隠しているようにも見えた。

 だが、宗歩は何も言わずにおくことに決めた。

 いつか寅吉が自分たちに話をしたくなったときに話せば良いと思ったからだ。


 天野宗歩門下による将棋相撲は大盛況に終わった。

 東伯齋は、相撲部屋の親方から多額の謝金に加えて大変な感謝をされたらしい。

 だが、この賑やかな興行場所に一人の見知った男が紛れていたことを宗歩達はこのときまだ知らない。


「宗歩様が弟子を取られるだと……。こ、これは大変だ。すぐに当主様にご報告をせねばなるまい……」


 この者の名は吉田市舗、将棋家大橋本家の大阪支所を任せられた男であった……。


 後の世に、「天野宗歩四天王」と呼ばれた豪傑たちがいた。

 天衣無縫の一番弟子、市川太郎松

 眉目秀麗の少年棋士、渡瀬荘次郎

 豪放磊落の大坂商人、小林東伯齋

 異邦のチェスマスター、平居寅吉


 天野宗歩とこの男たちの戦いは今後熾烈を極めることになるが、その話はまだ少し先のことである。

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