第二十六話 花筏(後編)

 相撲の歴史は古い。

 神代の昔から続く「奉納相撲」に始まり、江戸時代から金銭を集めることを目的とした「興行相撲」が始まる。

 大坂での興行相撲は難波新地なにわしんちで行われ、各地の相撲部屋の力士達がこぞって参加した。


 神事に連なる相撲には「女人禁制」など儀式ばったところもあったが、興行相撲の方は見物客を楽しませることが肝要だ。

 今回の天野宗歩一門による「将棋相撲」にしても、あの天野宗歩が弟子を披露するということと、将棋相撲と言う聞き慣れない演目が世間の耳目を集め、すんなりと受け入れられたようだ。


 いよいよ三月の末日となり、春の陽気な天気のもと、難波新地に宗歩達が到着した。

 すでに力士たちの取り組みが始まっており、大勢の見物人やそれを当てにした行商人も集まっている。

 今日は千秋楽、天野宗歩一門を楽しみにしてきた客もさぞ多いことだろう。

 最初は乗り気でなかった市川太郎松も、ここに至っていよいよ覚悟を決めた。

 今は浴衣を脱ぎ両腕を組みながら、力士に晒しを巻いてもらっている。


「オー、すごい人だかりデスネ。ワタシ、ヤル気出てきまシタ」


 対戦相手の平居寅吉は会場の雰囲気に諸手を上げて喜んでいる。

 今日のために髪を黒く染め、真面目に相撲の練習も重ねてきた。

 はるか異国から流れ着いた孤高の異人は、記憶を取りもどすために衆目の下で相撲を取らされる羽目になったが、当の本人はこれはこれで楽しんでいる様子。


「それは良かった。寅吉さんも頑張って練習した甲斐がありますね」

  

 宗歩は、寅吉が失った記憶を取り戻せれば良いなと願っている。

 行事役を務める宗歩は、既に黒の烏帽子えぼしを被り、行事装束に身を包んでいた。

 左手には軍輩を握り締め、足はもちろん裸足のままだ。


(へぇ、なかなかさまになってるじゃねぇか)


 太郎松は宗歩の凛々しい姿に見惚れながら、誰にも聞こえないようひとりごちた。


 駒割りについては太郎松の「飛車落ち」と宗歩が判断した。

 素人になら指せる寅吉も、さすがに太郎松とは手合違いだったようだ。


「太郎松さん、寅吉さん、二人とも頑張ってや」


 次女の玉枝が観客席から大きな声で掛け声を送る。

 相撲が好きだからと東伯齋にせがんでついてきたのだが、その心中はさにあらず。

 玉枝は、人のために厭わず肌を脱ぐ太郎松に男気を感じて密かに想い始めていた。


「寅吉よ。ゆめゆめ怪我などせぬようにな」


 阿蘭陀おらんだ通詞の中山作三郎も寅吉を心配してか神妙な顔つきでこちらを見守っている。

 はるばる長崎から二人でつらく長い旅をしてきた仲だ。

 この男もまた、身寄りがなく若い寅吉を息子のように思い始めている。


「ハイ、皆さん。ワタシ一生懸命頑張りまス!」

「よーし、こうなったら真剣勝負だ。寅吉よ、手加減しねぇぜ」

「ほなそろそろ時間やな。宗歩はん、太郎松はん、寅吉はん、土俵下まで行こか」


 小林東伯齋が周囲の親方や世話人に挨拶しながら、三人を土俵下まで連れてゆく。

 目の前まで近づくと巨大な土俵を前にして、太郎松は固唾を飲んだ。


 (なんだこりゃ、めちゃくちゃデカいな)

 

「よっしゃ、ほなみんな頑張って盛り上げてや!」


 宗歩に何か耳打ちをした後、東伯齋は玉枝と中山作三郎が座っている観客席へと戻っていく。

 三人が着座して寄り添いながらしばらく待っていると、力士たちの取り組みも終わりに近づき、いよいよ最後の取り組みへと移ろうとしていた。


 颯爽と、一人の少年が土俵に駆け上がってきた――


「ば、番数も取り進みましたるところ、かたや天野門下の市川太郎松、こなた同じく天野門下の平居寅吉、この相撲一番にて、本日の打ち止めとなりまする~」


 「呼出」役を抜擢された渡瀬荘次郎わたせそうじろうだ——

 こちらにも伝わるほどの緊張を見せながら、扇子を広げて呼び上げを行う。

 その表面には、宗歩が自ら揮毫きごうした『自由闊達』の四文字が光っている。


「なにあの子。めっちゃかわええやん。宗歩様のお弟子さんかな?」

「ほんまや、女の子みたいやわ。あたし、あの子押しにするわ」  


 眉目秀麗な荘次郎の姿が、大阪の婦女子たちの眼差しをさっそく集めている。


 緊張しながらも役目を終えた荘次郎が宗歩と交代する。

 宗歩は荘次郎とすれ違う際に「おつかれさま」と目配せしながら、土俵の真ん中へと進み、

「さて皆様、私は将棋指しの天野宗歩と申します。此度は天野家一門による「将棋相撲」にお越しいただき、まことにありがとうございました。」

 と、良く透き通った声で前口上を述べた。


 「こちらは私の一番弟子、市川太郎松。江戸で五指に入るとされた将棋指しでございます。次にあちらに見えるは、平居寅吉と申す者。風来坊の棋客ではございますが、将棋の腕は確かな強さ。体躯も立派でまるで力士のようではございませんか」


 土俵の上から名を呼ばれた太郎松と寅吉がそれぞれ土俵の側に回り込むこむ。

 二人とも堂々とした廻し姿が良く似合っていた。


「此度の将棋相撲。一風変わった名前ではございますが。至極単純。将棋と相撲を交互に行い、どちらかで勝った者を勝者といたします。これは頭脳と体力、いずれも必要とする世にも珍しい真剣勝負でございます。天野門家によるこの取り組みをしかとご照覧あれ!」


 観客から盛大な拍手と歓声が沸き起こった。

 このことからしても、大阪での天野宗歩の名声が頂点に達しつつあることを伺わせた。


 土俵の側には将棋盤が置かれており、既に対局の準備が整っていた。

 だが、ほとんどの観客には盤上の駒が小さすぎて対局の様子が見えない。

 そこで東伯斎は観客席の前に盤面が描かれた大きな綿布を用意した。

 その布に一枚ずつまち針で刺し留められた紙の駒を対局の進行に応じて動かすのだ。


 二人とも将棋盤の前に着座し、ぐっと前傾姿勢になる。


「両者、見おうて」


 宗歩の左手にある軍配が二人のいる方向に振りかざされる。

 

 二人は深く呼吸を合わせ頭を下げて、

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いしマス!」

 と同時に声を重ねた。


 この将棋は、一手に掛けられる時間が極端に少ない。

 △3四歩、▲7六歩、△4四歩、▲4六歩、△3二金、▲4八銀、△4二銀、  ▲4七銀、△5四歩、▲5六銀、△4三銀、▲4八飛、△3三桂、▲3六歩、  △6二玉、▲6八玉、△7二玉、▲5八金右、△6二銀、▲7八銀。

 二十手目まで一気に局面が進んだ。

 ここまでは飛車落ちの定跡通り。

 寅吉が超攻撃的な「右四間飛車」の陣形。

 対して太郎松は飛車がない分、がっぷり四つで正面から攻めを受けとめる形。


「両者そこまで!」


 宗歩が扇子をピシッと突き立てて、貫くような声で対局の指し掛けを宣言した。


 太郎松は盤面をにらみながら黙って頭を下げ、腰を上げて土俵に上った。

 寅吉もまた両腕をぐるぐる回しながら後へと続く。

 その碧眼の目は先ほどとは別人のように鋭く光り出し、剥き出しの闘志を放っている。


「待ったなし!」


 土俵に並び立てば背丈は明らかに寅吉の方が大きく、太郎松の頭三つ分はゆうに超えている。

 互いがにらみ合い、立ち合いの動作にあわせぐーっと前傾姿勢をとる。


八卦はっけよい、のこった!」


 ドっシン!

 

 宗歩の声が高く響くと同時に、二人の身体がまともにぶつかる。

 間近で見ていた宗歩には、鈍重な衝撃音が発生し、白い閃光が二人の間に一瞬走ったかのように見えた。

 がっぷり四つになる太郎松と寅吉が、じりじりと互いの力をこねるように重ね合わせる。


「ドリャ!」


 先に寅吉の方が太郎松の廻しを掴んで手繰り寄せようとした。

 太郎松はなんとかこれに抵抗しながら、右手で寅吉の廻しを掴み返そうとする。

 が、そのまま押し込まれて一気に土俵際まで追いつめられる。


「ぐぬぬぬ、なんちゅう怪力じゃ」


 一気に押し出されそうになる太郎松がバランスを崩して倒れそうになった。


「あ、あぶない!太郎松さん」

 思わず玉枝が観客席から立ち上がって叫ぶ。


 その瞬間――


「くほぉ」


 太郎松は珍妙な声を出しながら、とっさに体をくるりと回転させてきびすを返し、華麗な体捌きを見せた。


 市川流格闘術、秘技「風車かざぐるま」である。


 不意に太郎松に逃られた寅吉は、肩透かしを食らったように体勢を崩してそのまま前につんのめる。


 そこに――


「くらえぇ!」


 太郎松が強烈な張り手を一発打ち出す。

 子供の頃からの得意技で、これをまともに食らって立ち上がった者はいない。


 が——


 ぐわし!


 寅吉の大きな掌が、太郎松の強烈な張り手を真正面から受け止めた。


「な! なんだと。この俺様の張り手を素手で受け止めただと……」


「ククク、その手は桑名くわな焼蛤やきはまぐりデス」


 寅吉がしてやったりという顔をしている。


「はん、恐れ入谷いりやの鬼子母神てなこのことだな!」


 先ほどまで歓声をあげていた観客が口を開けてポカーンとしている。


「あ、あいつら駄洒落や。駄洒落合戦を飛ばし合ってるで」

「きっとまだ余裕があるんでしょうなぁ」


 いつの世も、将棋に駄洒落はつきものである――


 ここで宗歩が最初の二十を数え終わり、組み合う二人の間に割って入った。


「そこまで!」


 あっという間の時間だった。

 だが、全力で戦った二人はすでに肩で息をしている。


「はぁ、はぁ、寅吉よ。お前なかなかやるな」


「ハァ、ハァ、そっちこそデス!私をここまで追い詰めたのは貴方が初めてダ」


 互いに目を逸らさず土俵を下り、将棋盤の前に忙しく着座する。


(ええい、頭の切り替えができねぇ。さっきの局面どうだったっけ?)


 さすがに太郎松は飛車を落としているので、無理攻めはできない。

 互いに膠着状態のまま、更に二十手ほど進んで、二人はまた土俵に戻っていく。


 が、相撲の番になって、二人はがっぷり四つに組み合うもののどこか上の空。

 さっきまで将棋に集中していたものだから、次の一手を考えている様子。

  

 二十を数えて将棋盤に戻ってきたときには、すでに太郎松の方は疲労困憊の状態でふらついている。


(くそぉ、予想以上にしんどいなこれ……)


 寅吉の方をちらりと見ると、調子が出てきたのか余裕がありそう。


(こ、これはやばいかもしれん。ならば、ここらで一気に――)


 と、太郎松が意を決したように駒台にすっと手を伸ばし、勝負手を飛ばす。

 

 バチン!


 四十一手目△3六銀打ち―—。


「うお! な、何だこれハ?」


 膠着状態が続く状況の中で、交換した銀を相手の桂馬の前にぶつける奇襲である。

 これが最善手かどうかは別にして、時間がない中で綾を求めて相手のミスを誘発させる勝負師ならではの怪しい一手には違いない。


「八、九、じゅう~……」


 まったくの予想外の手を打たれた寅吉の頭は、このとき真っ白になってしまった。


 しかし、宗歩のときを読み上げる声が、無情にも辺りに響く。

 持ち時間が一気に無くなり、観衆も固唾を呑んで見守っていた――


「寅吉、落ち着け! 考えるな、感じるんだ!」


 苦悶する表情の寅吉を見て、たまらず中山作三郎が意味不明の言を発する。


「十五~、十六~、十七……」


「うう、ダメダ! もう時間がないデス」


 何も応手が思いつかずにいたずらに混乱に陥り、焦りだす寅吉。


(よしよし。この勝負、時間切れで俺の――)


「じゅ~~は~~ち」


 いきなり、宗歩が異常な遅さで数えだした。


「え?」

「エ?」


 太郎松も寅吉もあっけにとられて宗歩の方を振り向いた。


(なんだそりゃ! そんなのありかよ)


「よっしゃ、それでええんや。宗歩はん!」


 東伯齋が宗歩の方に向かって腕を大きく振りながら声あげた。


「い、いったい、どういうことですか? 東伯齋殿」


 中山作三郎が何が起こったのかという顔で困惑している。


「こういう興行もんはな、勝負が早よ終わってしもたら場が白けるんや。時間切れで負けましたなんてつまらんやろ」


 したり顔の東伯齋が、

「そやからわざと読み上げを遅くするのもこれはこれで一興なんや」

「な、なるほど。そういうものですか」


(おせぇ! 十九はまだ読まれないのか!十九が全然やってこない)

 太郎松は生まれてこのかた「十九」をこれほど待ち遠しく思ったことは、ない。


「じゅ~~~きゅ~~~う」


 宗歩が口をゆっくり開けて数を読む。

 

 (よし! やっと来た、これで次は二十だ! 勝ったぞ!)


「アア! もう少しでなにか思いつきそうナノニ!」


 そのとき、宗歩が口をゆっくり開けて数を読みあげた。


「じゅ~~は~~ち」


(おいぃぃ! ときが戻ってるじゃねぇか!)


 観客がみな笑っている。

 ならば、これはこれでいいのだろう。

 まじめに勝負を決めるだけが将棋ではないのだ。


「と、ときを戻すとは……宗歩はんやるなぁ」


 そのとき、寅吉の碧眼が光った。


「クホホ、見えましタ! 出でよ我が銀将シルバージェネラルよ! 食らえ、エトワールの陣!」


 寅吉が、四二手目▲3八銀打ちを指した。


 虎の子の持ち駒である銀を自陣にぐりぐりと打ち込んで全面対抗する姿勢を見せる。


 これを見て思わず中山作三郎が、

「東伯齋殿。寅吉のこの手は良い手なのでしょうか?」

「最善手や。奇襲をかけられたときは焦ったり頭に血が上って、攻め合うことが多いんやけど、寅吉はんはじっくり腰を落ち着けて受けきろうとしてる。たいしたもんや」

 

「はい、両者ここまで! 土俵に上がって!」


 宗歩が二十手指し終わったことを二人に告げる。


「くそぉぉ、また相撲じゃねぇか!」

「太郎松サン、ここでケリつけまショウ」


 参加者一同が、前代未聞の将棋相撲の行方に固唾を呑んだ。


 だが、三度目となったこの相撲の番でとうとう山が動く——


 先ほどの将棋で精神力を使い果たしたかのように、寅吉の足がぴたりと止まってしまったのである。


 「お、おかしいデス……。あ、足が動きまセン」


 奇襲をかけられ、脳みそから絞り出したかのような対抗手が、思いのほか寅吉を消耗させてしまっていたのだ。

 複合競技は、常に頭を切り替え余力を残すという心掛けこそがものを言う。


 これを千載一遇の勝機ととらえた太郎松は、電光石火の如く寅吉の廻しを両手で掴み、そのまま一気に土俵際まで押し寄せた。


「くぅ、将棋はワタシのほうがまだ優勢……」


 土俵際ぎりぎりで、なんとか必死に踏ん張ろうとする寅吉。

 ここで勝負を決めようと最後の力を振り絞る太郎松。

 

「させるかぁ! どぅりゃあ!」

「オホォ……」

 

 寅吉の右足が一線を超えた——。

 太郎松が見事に寄り切ったのだ。


 その瞬間、宗歩が、

「寄り切り~寄り切り~」

 と決まり手を発しながら軍配を太郎松のほうに向けた。


「よっしゃぁぁ!」

「クゥ……。降参デス。参りまシタ」

 

 そのとき、観客から割れんばかりの歓声が上がった。


「将棋だけやのうて、相撲まで取れるとはたいしたもんや!市川太郎松!」

「おもろかったで!天野宗歩一門!」


 (ふぅ、なんとか成功したようだ)


 太郎松も肩の荷が下りたようにほっと息をつく。


「太郎松さん、寅吉さん二人ともよく頑張ったわ!」

「うむ!某もおぬしたちにはほとほと感動したぞ!」

 

 玉枝たちが席を立って手をしきりに叩いている。

 

 この瞬間、将棋と相撲という日本古来の伝統技芸を混合させた、頭脳格闘技が歴史の片隅に誕生した、のかもしれない――

 

 が、東伯齋はしまったという顔つきで、

「あちゃ。太郎松はん、将棋のお披露目やのに相撲で勝ってしもたがな」


 すると、隣で見ていた客が、


「いやいやどうだい。さすがは江戸の市川太郎松。

 あの人の寄り切りは大したもんだ」


 土俵際での「寄せ」がいいわけで、

 将棋指しだから。

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