第十八話 菱湖
——壱——
「お久しぶりです。小林東伯齋殿」
「ほんまやなぁ。天野宗歩殿は最近五段にならはったんやて? とうとう儂よりも上に行ってしもたなぁ」
——東伯齋殿は、半年くらい前から関西の在野棋士と会合を開くようになりました。
——豪商として在野棋士の金銭的な支援もする彼を頼ってくる者は予想以上に多く、日に日に参加者が多くなっていきました。
——これに加えて江戸の息がかかった将棋家を嫌う大名や豪商まで東伯齋を支援し始めて、周囲の後押しもあり彼はとうとう「大阪名人」を自称するようになったのです。
吉田市舗の話が脳裏に浮かぶ。
確かに将棋家は名人の称号に限らず将棋に関するあらゆる権益を数百年独占し続けた。
腕に覚えがある在野棋士からすれば実力も伴わない将棋家の跡継ぎなど邪魔者でしかなかっただろう。
「早速ですが東伯齋殿、一体なぜ大阪名人などと名乗られたのですか。貴方ともあろう方が……」
宗歩が悲痛な顔をしている。
一方東伯齋は終始ご機嫌な様子。
「なぜって……大阪で一番強いのは儂なんやから「名人」を名乗っただけやがな」
「畏れ多いことに段位の認定まで……」
「それかて将棋家を名乗ったわけではないで。儂の名前で勝手に認定しただけや。儂の信用にかかわる話であって将棋家には一切迷惑かけてへんやろ」
「何を言うのです! 名人も段位認定も公方様のお許しをいただいたからこそ、これまで将棋家が担ってきたのです。一介の商人に許されるものではないでしょう」
「公方様ねぇ……」
東伯齋は宗歩をまるで子供でも見るかのように一瞥した。
——江戸にいらっしゃる宗歩様には分からないかもしれませんが、地方での将棋家の威信は日に日に下がっています。
——将棋の定跡が整備されその写本が世に出回るようになり、将棋家に直接教えを請わずとも自力で棋力を向上させる者も増え始めました。
——東伯齋殿は元は将棋家の人間ですが、今では全く将棋家に関係がない者でも六段以上の棋力を身につけ始めているのです。
これまで将棋の定跡は秘儀とされ将棋家がこれを独占し続けてきた。
情報を独占することにより威信を保ち続けてこられた部分もあるが、九世名人大橋宗英の頃から将棋の普及のためにと積極的にこの定跡を世に開示し始めた。
これが仇のひとつとなったことは間違いないだろう。
「ところで宗歩殿。あんさん東北で大飢饉が起きていることはもちろん知ってるやろな」
「詳しくは知りませぬが……彼の地では餓死者も出ているとか……」
「なんやぁその程度かいな。情けない。」
「その話と将棋との間に一体何の関係があるのですか」
宗歩のその言葉を聞いた瞬間、東伯齋の顔が急に険しくなった。
「大ありやわ!このあほたれ!」
東伯齋が突然のように怒号を発する。
宗歩はもちろん居間にいた全員が吃驚した。
だが、東伯齋はまた元の柔和な表情に戻る。
「あのなぁ、宗歩殿。あんたは一体何のために将棋を指しとるんや?」
「そ、それは……強くなるため……です」
「強くなってどうすんねんな。世の中で一番強なってしもたらその後は?」
「わ、私は……」
困惑する宗歩を尻目に、東伯齋はふぅと溜息をついた。
「もうええわ。あんたら将棋で勝負をつけに来たんやろ。おい
東伯齋が横に座っていた三女の菱湖の名前を呼ぶ。
「はい」
「あんさんが相手したり。儂の代打ちや」
「な!」
「あんたには菱湖で十分やわ」
おいおい、大橋本家五段格を相手に代打ちだとぉ。
このおっさん失礼にもほどがあるだろ。
「そこまで言うならこっちも代打ちだ」
「なんやお前は」
「市川太郎松。大橋本家四段格だ」
「ほぉ。ほんまやろな」
「証拠に書状もあるぞ」
俺が免状を放り投げる。
「確かに名人の花押があるな……。よっしゃ、菱湖は無段やから香落ちでええな」
「構わねぇ」
——東伯齋殿が破門されたとき、私はまだ江戸におりました。
——聞くところでは、彼は当主の大橋宗与様に向かってこう言ったそうです。
——「名人とはそれほどに価値のあるものか?」
——「名人より強い存在が生まれたときあなた達はどうするのか?」
——弐——
その後、屋敷の奥座敷に宗歩と東伯齋、菱湖、俺の四人が移ることになった。
奥座敷の中央には将棋盤と駒箱、座布団、脇息がすでに置かれており、彼がこうなることを予め意図していたことがよく分かる。
「さてと、ほな何を賭けよかな」
「は?」
「当たり前やろ。なんもなしでこんな大勝負を指すわけないがな」
「ならそっちが負けたら、大阪名人と段位認定について将棋家に詫び状を入れな」
「そんなんでええの? ほなそっちが負けたら儂と一晩付き合ってもらおかな」
な、なにぃ。
それってどういう意味なんだ……
ひょっとして宗歩の正体に気付いているのか、この
は!
ま、まさかこの俺の身体が目当てなのか!
そうなのか!
慌てて宗歩の方を見ると、意味が良く分かっていないようで、「太郎松、頑張れ!」とありがたーい励ましをいただいた。
おいこら、頑張れじゃねぇよ……
『お願いします』
互いに盤の前で呼吸を合わせて一礼する。
上手の俺が先手。左香落ちだ。
下手の菱湖は落ち着いた様子で盤の前に座っている。
なるほど。
東伯齋から厳しく手ほどきを受けたことが良く分かる
これは将棋家に機縁を持った者だけが出せる雰囲気だな。
油断ができないことは分かったが、俺は相変わらずいつもどおり時間をかけずに指すことにした。
まずは、居飛車の菱湖に対して△3二飛と三間飛車にして
不気味なのは彼女が▲1五歩と端歩を詰めてきたことだ。
その筋には俺の香車がない——
つまりこれは、「あなたの駒落ちの弱点をついていきますよ」という主張だ。
まったく綺麗なお顔してやってくれるぜ。
互いに陣形を整備していよいよ駒がぶつかり始める。
3筋で互いの飛車がもろにぶつかり合った。
このまま飛車交換に持ち込めれば振り飛車の俺の方がやり易いが……
三十二手目、菱湖ちゃんは間髪入れずに▲3五歩打と蓋をした。
なるほどねぇ、子供とは思えないほど落ち着いているじゃねぇか。
じゃぁ、これはどうですかね。
俺は△6四角と覗いて菱湖ちゃんを揺さぶってみる。
相手の攻撃陣に直射で睨むこの好角をどう対処するか高みの見物といくことにする。
ここで彼女の手が止まった。
盤上没我——
彼女は無表情で深く深く読みに入っている。
なんだこの感覚。
この子……誰かに似ている。
ふいに彼女の手が盤の端に伸びた。
バチィン!
▲1四歩!
まじか、ここで端攻めをやってきやがった。
ってことはこの後の展開を全部読み切ったってことかよ……
端を攻めるってことはその分相手に駒を渡すことになる。
はっきりした目算でもなければ簡単に着手なんてできない。
△同歩▲同香まで来て、俺は香車がないから取り返せない。
だが……よっと!
△3四歩
香車が成り込んできても飛車を追い返せばこっちのが早いでしょ。
▲2四歩
え……まじかよ手抜いた上にそこを突き出しますか……。
俺は仕方なく△3五歩とそのまま飛車を追い立てようとする。
▲2六飛
な、なるほどね。
3六の飛車を3筋から2筋に転回したか。
それでは、と俺は△3四飛と浮く。
香車がそのまま成ってくれば△2四飛として飛車交換で綾を求めいく。
ところが——
ダン!
▲2三歩成
まじかよ……ここまで読んでるのか。
あぁ、わかった。
この子の将棋がだれに似ているのか。
端攻めからの歩の連続の手筋……
——これって宗歩の将棋にそっくりじゃねぇか!
ちらりと盤側にいた宗歩を見る。
あいつも驚きを隠せない表情だ。
ふ・ざ・け・る・な!
江戸で五指に並んだこの俺が年端もいかねぇ少女にまんまと一本取られるとは……
なんでこれほどの手練れがこんな地方の商家にいるんだよ!
その後、飛車を互いに成りこみながらも菱湖ちゃんにじりじりと距離を離されていく。
なんとか苦し紛れに今度は俺から9筋の端攻めを見せるが……
▲6六歩
おいぃぃ。普通合いの手で▲同歩だろそこは!
俺の角を虐めながら将来的に端を突破されても6筋に玉の逃げ道を作る超ド級の大人の手だ。
な、なんちゅう鬼子だ——
東伯齋が俺を見てにったりと笑った。
ああ! 奴の狙いは俺なのか、ブルブル。
勝ちを意識しているわけでもないのに、なんだか手も震えてきましたよ。
だが俺にも意地ってもんがある。
あの手この手で怪しい手を連発して少しづつ距離を縮めてきた。
よしよし。
相手の玉は左辺が弱い。
竜を交換して飛車を相手左翼陣に打ち込めば逆転する。
しかし菱湖ちゃんもそれは十分承知していて竜を取られまいと逃げるわ逃げる。
が、それが俺の罠なのさ。
△9七角成!
よっしゃ先に馬を作った。
こっから一気に殺到し雪崩れ込めば……
カチン
▲6六角
うお。なんだこの手は。
9九の角が一気に世に出たことで、よく見ると左右からの挟撃体制が出来上がりつつある。
1筋から竜に攻められ、9七に馬を成りこまれれば俺の玉に退路は無くなる。
一方の菱湖の玉は右側にするすると余裕で逃げられるご様子。
やれやれだぜ。
こいつは完全に参った。
最後は▲6三馬から綺麗に寄せられて、
読み切っている菱湖は静かに駒台の駒を打つ。
▲7六桂打
俺の王手を防ぎながらの綺麗な逆王手だ。
これを見て俺は溜息をつく。
投げどころかな——
俺の玉にもはや逃げ道なく、相手玉を寄せる筋もない。
「ふぅー、参りました」
俺が投了の意を示した。
「はぁはぁ……。ありがとうございました」
菱湖ちゃんは無表情で頭を下げる。
うん、すこし疲れているのか?
なんか息が荒いような……
「それまでやな。菱湖お疲れさん。ようやったな」
「はぁはぁ……はい……」
「太郎松……」
宗歩が心配そうに俺を見る。
「すまん……不甲斐ねぇ」
「約束は約束や。一晩儂に付き合ってもらうで」
あーーッ
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