第十七話 玉枝

——壱——

「4八銀、3二銀、5六歩、5四歩、3六歩、4三銀……」


 うーん、眠い。

 隣の部屋からパチ、パチと高い音が聞こえたせいで目が覚めてしまった。

 きっとあいつが朝から熱心に棋譜並べでもしているのだろう。

 長旅で疲れていたのでもう少し寝ていたかったのだが……

 しかたねぇなぁとぼやきながらさっさと着替えてしまい、俺は隣の部屋の襖を開けることにした。


「おはよう」


天野宗歩がこちらを振り向く。

 すでに着替え終わっていたようだ。


「あいかわらず早いな」

「太郎松が遅いんだよ」


 宗歩がアハハと笑っている。

 いや、まだ日の出前なんですけど……


「まぁいい。準備ができたのなら朝餉あさげを食って出掛けよう」


 今日からさっそく小林東伯齋こばやしとうはくさいの屋敷に向かう予定だが、その前に寄っておくべき場所があるのでまずはそちらに向かう。

 宿泊した宿を出てしばらく歩き続けると目の前に一際大きい運河が見えてきた。

 この堀は「道頓堀」というらしく、両側が岩で護岸されており堅牢な構造になっている。

 見たこともないような巨大な堀だ——

 かつてこの大堀は、安井道頓やすいどうとんという豪商が自らの資材を投げ売って作ったそうで、堀の名前は彼の名から由来しているらしい。

 なるほど、大坂では武家ではなく商人が町を創るのか——

 武家が支配する江戸で育ってきた俺には結構な衝撃な事実だ。


 その道頓堀沿いに並び立つ芝居小屋を通り過ぎた先に目指す長屋があった。

 通常、長屋には表と裏があり、表の方は道路に面しているため住居に店舗を兼ねていることが多い。

 どうやらこの表長屋では饂飩うどん屋を商っているようだ。

 宗歩が「御免ください」と玄関口で声を張ると、がらがらと引き戸を開けて中から中年の男が出てきた。


「宗歩様、おひさしゅうございますな」


 長屋から出てきた男が宗歩に懐かしそうに声を掛けた。


「市舗殿もお元気そうで何よりだ」


 この男、吉田市舗よしだいちほという。


「ご当主様からすでに伺っております。」

「うん」

「小林東伯齋殿の件について対処に来られたとか」

「そうなんだ。すまないが、東伯齋の居所を教えてほしい」

「お安い御用です。せっかくですから中に入っておくんなまし。腹が減っていれば饂飩でも作りやしょう」


 吉田市舗は笑顔で俺たちを「こちらへ」と手招きしている。

なんだか怪しい店の勧誘みたいだが、

「ありがとう。御邪魔させてもらうよ」

 と宗歩はさっさと玄関口から中へと入っていった。


 俺たちは何もわざわざ饂飩屋に来たわけじゃないんだ。

 そう、何を隠そうこの長屋には饂飩屋の他にもう一つ立派な役割がある。

 それは、ここが大橋本家の大坂支所だということ——

 将棋家ってのは、お節介にも彼等の目が全国にも行き届き渡るように、主要な町に支所をそれぞれ設置している。

 まぁ、とはいっても大阪在住の門弟の住宅を勝手に「支所」と呼んでいるだけなんだがな……。

 要するに、この吉田市舗って男は大橋本家から大坂支所を任せられている門弟ということになる。

 通常の支所では、在野棋士の監視、段位申請の取次、将棋家の人間が地方に来た場合の手配など雑多な仕事を一手に引き受けている。

 だから、彼のもとには自然とその町の将棋に関する情報が集約することになるんだ。

 小林東伯齋の件を江戸の大橋本家に報告したのも実際のところ彼らしい。


 宗歩に聞いたところ、彼は大阪の生まれだったが将棋の才を見込まれて幼少のころ大橋本家に入門したそうだ。

 が、遂に悲願は成就せずに齢三十を迎えることになってしまった。

 今後の身の振り方を思案していたところ、ちょうど適任者が不在となった支所を任せたいと本家から粋な取り計らいがあり、今こうしているというわけだ。

 本家からささやかな運営支援金が毎月送られてくるものの、家の中を見るかぎりどうやら暮らしは楽ではなさそうで、妻と子供を抱えながら細々と饂飩屋を切り盛りしているらしい。

 それでも俺には彼がとても幸せそうに見えた。

 だって、案内された居間の隅っこにはきちんと将棋盤と駒箱が置かれており全く埃を被っていない。

 おそらく、毎日のように倅や近所の親父どもと楽しく指しているんだろう。

 この人もまた将棋に魅入られた者の一人ということだ。


 ——弐——

 吉田市舗に教えられたとおり船場の瓦町で小林東伯齋の屋敷を見つけた。

 屋敷は染物屋を商っているようでまだ午前なのに人の出入りが激しい。

 ううん?たしかこの場所って……


「あら、あなた様は昨日の……」


 騒がしい店の帳場机に座っていたのは昨日暴漢に襲われていた美人だった。


 水無瀬さんだ——


 え? ってことは……やっぱり……


「さっそく来てくれたんですね。うれしいわ」

「いや、その……」

「どうしたの?」

「実は、別の用向きで来たんだよ」

「あれ、そうなんですか? そういえばお二人のお名前何ていうの?」

「俺は市川太郎松。こっちは天野宗歩だ」

「市川太郎松様と天野宗歩様……ひょっとしてお武家さん?」

「いやそうじゃないんだ。ところで水無瀬さんはここの家の者かい?」

「そうよ。わたしはこの店の娘です」

「そうか。では申し訳ないんだが、ご主人の小林東伯齋殿を呼んできてくれ」


 すると、水無瀬が申し訳ない顔をして、

「ごめんなさい。あいにく主人は今出かけてておりませんの」と答えた。

「あ、でもすぐに帰ってくるからあがって待っててくださいな。玉枝ちゃーん」


 水無瀬さんが、店の土間奥に向かって玉枝を呼ぶ。

 すぐに廊下をバタバタと走りながら元気そうなもう一人の美人がやってきた。

 だが、一番目を引いたのは着物を着ていても分かるくらい胸が豊かなことだった。


「はーい。あれ、昨日の人やんか」


 玉枝がその大きな目をさらに大きく見開きながらビックリしている様子。


「そうそう、こちらは市川太郎松様と天野宗歩様よ。旦那様にご用向きがあるらしいわ。客間に上がって待っててもらって」

「はーい。」


 俺たちは玉枝に「こちらへどうぞ」と屋敷の中に通されることになった。

 土間を通り抜けたその先に中の間があり、そこに落ち着く。

 屋敷の全部を見たわけではないが、広くて結構大きい商家らしい。

 客の出入りを見ていてもわかるが、店も相当繁盛しているはずだ。

 在野の棋士が兼業で商売をすることは珍しくないが、ここまで豪商の棋士と言うのは今まで聞いたことがない。


 客間に入ると、壁際に何かが立っていた。


 目をよーく凝らしてみると、そこにはおかっぱ頭の座敷童ざしきわらしがいた——


 ああ、やっぱりこれだけ繁栄する商家には一体ぐらいこいつがいるんだなぁと変に俺は納得する。


「お主だれじゃ」


 うわ! いきなり喋りかけてきた。


「お、俺は、市川太郎松だ!」


 思いっきり動揺してしまい声が上ずってしまったではないか。恥ずかしい。


「こら! 錦旗きんきちゃん、お客様にそんな失礼なこと言うたらあかんよ」


 どうやら錦旗とよばれたこの子は物の怪の類ではなく、この家の立派な娘さんらしい。

 本当に紛らわしいな。


「ほら、お客様が来たから、あんたはあっちの部屋にいっといて」


 玉枝はしっしっと邪魔者を追い払うような素振りをする。


「わっちはいやじゃ」

「そんなわがまま言わんといて」


 玉枝が困った顔をする。


「私は一向に構いませんよ」と宗歩が微笑みながら言うと、「そう、ありがと。ほんまにしょうのない子やなぁ」と玉枝は錦旗を睨みながら溜息をついた。


「お主、意外といいやつじゃな」


 座敷童、いや錦旗ちゃんは胡坐を掻いた宗歩の膝の上にちょこんと座っている。

 宗歩のことが相当気に入ったらしい。

 おめでとう。


「そういやぁ、あんたらは昨日どうして絡まれてたんだ」


 東伯齋が帰ってくるまでの間、俺は時間つぶしにとでも思い、玉枝に昨日の件でも聞いてみることにした。

 何か情報が得られるかもしれない。

 玉枝は俺と宗歩にお茶と茶菓子を差し出しながら、「あのね。あたしら昨日、道修町どしょうまちに薬を貰いに行ってたんよ」と言った。

 道修町というのはここから歩いて数分のところにあり、薬屋が集中している地域だ。


「あたしの妹が体が弱くてね。ああ、錦旗とは違うよ。その子のために気付け薬をね……」


 玉枝はすこし寂しそうな顔をして客間の障子から外を眺めている。


「そしたら別の薬を買いにいってた水無瀬お姉ちゃんがあの人らに絡まれてて……」

「どうして絡まれたんだ?」

「それが、お姉ちゃんにも分からへんらしいねん。」

「どういうことだ」

「いきなり『お前、小林東伯齋の妻だな。こっちにこい』って連れていかれそうになったんよ。本当にあの時は助かりました。ありがとうございました。」


 玉枝は俺たちに向かって丁寧に頭を下げた。


 ……いや、ちょっと待ちたまえ。

 今なんて言った? 小林東伯齋の妻?


「あの、水無瀬さんって……小林東伯齋氏の奥さんなのかい?」

「そうやで。婿入り養子って奴やねん。」


 おお……なんと、人妻だったとは……


「太郎松、それが何か関係があるのか?」


 宗歩が俺に訝しげに聞いてくる。


 お前のような将棋馬鹿にはわからんだろうが、俺もいっちょ前に年頃の男なのよ。

 最近年頃の美人にめっぽう弱くてね。


 と、そんなことを考えていると突然、部屋の襖がすっと開いた。

 そこには肌の色が透き通ったように白い少女が立っていた。


「玉枝お姉ちゃん誰か来たの? ……あ……こんにちは」


 しまったという顔をしたその少女は男の子に間違えるくらい髪が短い。

 今まで寝ていたのだろうか、寝間着を着ている。


菱湖りょうこ。体の具合はええの? 無理しぃなや」


 玉枝がその少女に心配そうに声を掛ける。


「大丈夫だよ。ぼく今日は調子がいい……」


 菱湖とよばれたその少女はなぜか自分のことを『ぼく』と言う。

 この子は三女の菱湖ですと玉枝が俺たちに紹介した。

 ふーん。

 どうやら小林東伯齋氏はここで商家を営んでおられて、この家には四人の年頃の娘さんが住んでいるらしい。

 ひょっとして水無瀬さん以外の三人は東伯齋さんのお子さんかな?

 それとも四姉妹なのかな?


 えーと、少し頭がこんがらがってきたぞ。

 と、ふと自分の足元を見たらそこに何かが書かれている紙片が落ちていた。

 俺がそれを手に取って見てみると——


 長女 水無瀬みなせ(二十四歳)——スレンダー美人、人妻

 二女 玉枝たまえ (十八歳)——勝気でボーイッシュ、巨乳

 三女 菱湖りょうこ (十五歳)——薄幸の美少女、ぼくっ娘

 四女 錦旗きんき (八歳)——幼女、「わっち」萌え


 とだけ書かれていた——

 ——こ、これは誰かの覚書メモなのか……?


 菱湖ちゃんも加えて、しばらく五人で雑談をしていると、突然どこともなく何かを呟く声が聞こえてきた。


「6八玉、6二銀、7八玉、5三銀、6八銀、2二飛……」


 どうやら外を歩きながら将棋の符号を唱えているらしい…

 きっと相当な変人に間違いない。


「あ、かえってきた!」


 錦旗ちゃんが宗歩の膝からすくっと立ち上がって、そのまま廊下をとてとてと走り去っていく。


 しばらくそのまま待っていると、ドタドタと廊下を走る音が聞こえ、羽織を着た中年の男が部屋に入ってきた。

 一瞬、俺と目が合った。

 が、すぐに横にいた宗歩に視線を投げかける。


「おお、お客さんか。いらっしゃいませ」

「こちらこそ、お邪魔しております」


 宗歩がその男に丁寧に頭を下げた。


「妻からさっき伺いましたわ。昨日は玉枝ともども助けていただいたそうで。どうもおおきに」


 この男も宗歩に深々と頭を下げた。


「いえ……」

「それにしても、大きゅうなりましたなぁ。天野宗歩殿——」


 齢四十を超えた程度か。

 頭には白髪がすこし交じっているが、商人らしい恰幅のいい体格をしている。

 物事に動じそうもない風貌をしていて、終始笑顔を振りまいている。

 だが、この目は間違いない。


 これは——勝負師の目だ。

 間違いない。この男が小林東伯齋だ—— 

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