第十六話 水無瀬

 ——壱——

 道場を出て庭に涼みに行くと、彼はそこでいつも泣いていた。

 周囲の者たちにさげすまれても、この屋敷から逃げ出すことは決して許されない。


 ――自分には名人の血が流れているはずなのに。おかしいな……。


 彼がぼそっと呟く。


 将棋の家に生まれた、名人の血を引く子と、

 庶民の家に生まれた、天才児たち――


 黒く生まれた家鴨アヒルは群れに入れてもらえず自らの命を絶とうとした。

 彼は醜い家鴨アヒルの子なのだろうか。それとも——


 ——弐——

 天野宗歩と俺は、江戸を出て東海道をひた走りようやく京都にまで戻ってきましたよ。

 ここから大阪に行くには京街道を使った陸路もあるが、伏見港から快速船に乗船して向かうつもりだ。

 そっちの方が断然早いからな。

 今夜にでも伏見港を出られれば、淀川を下って明朝には大阪淀屋橋に到着する。

 いやぁ、今回の旅路は結構楽だった。

 なにせ、本家ご当主様から支度金としてたんまり路銀を頂いたからな。

 道中の宿や食事にも不自由しなかったし、この際船を使ってもばちは当たらねぇだろう。

 飛騨山中をさまよい歩いた頃とはえらい違いだ。

 初音……元気にしてるかな。


 せっかく伏見まで戻ってきたので、宗歩に「柳雪様のお屋敷に行くか」と聞いたんだが、『今はやめておく』とのこと。

 江戸を出てからあいつの様子が少しだけおかしい。

 思案顔のままずっと黙っている。

 変なもんでも食って、腹でも痛いのかね。


 伏見街道を下っていく途中で、「少し寄りたいところがある」と宗歩が言う。

 しかたねぇから俺も付いていくことにする。

 しばらく稲荷山の方面へ登っていき、鬱蒼とした森を抜けるとそこには神社があった。

 藤森ふじのもり神社だ——

 なんでもありがたーい刀剣が祭られていて、勝負事の戦勝祈願のご利益があるそう。

 宗歩は京都にいたとき、よくここで独りになっていたらしい。

 今回の対局に備えてきちんとお参りをしたかったとのこと。

 ご殊勝なこったぁ。涙が出てくらぁ。


「勝負に勝てますように」


 宗歩が目を閉じて手を合わせて祈っている。

 その立ち姿が神々しくて俺は少しだけドキッとした。


 ちなみにこの神社、菖蒲の花が有名でちなんで「勝負」ということらしい。

 洒落しゃれてるねぇ。


 藤森神社から歩いて中書島にある伏見港にようやく辿り着く。

 さっそく、船着場で乗船の手配だ。

 そのまま渡しの先までいくと、藁の屋根が付いた大きな船が浮かんでいる。

 船頭に聞くと、三十石船さんじっこくぶねって名前らしい。


「この船に乗っていくのか?」


 宗歩が不安そうに俺に聞く。


「ああ、そうだ。歩くよりずっと早いぞ」

「船旅はその……初めてなんだ」

「大丈夫、俺も初めてだ」


 出発までまだ時間があるとのことなので、付近の問屋で旅道具の補給と大坂の地理を調べておく。

 宗歩はこういった細々としたことができない。

 苦手とか面倒くさいとかそういうことじゃなくて全然気にしていない。

 あいつは将棋以外のことはからっきし子供なんだよ。

 よくもまぁ一人で京都まで辿り着けたと思う。

 街道で盗賊かなんかにかどわかされてても仕方がねぇくらいだ。


 そうこうしていると、船出の時間がやって来たので、二人で船に乗り込んだ。

「船に乗るのは鞍馬山以来だな」と俺がおどけて言うと、宗歩は「あれは狭かったなぁ」と少しだけ笑って答えた。少しだけ元気になったか?


 船が運行している間、客は座りながら静かに寝むっている。

 俺たちも隅っこで並んで座っている。

「太郎松……」宗歩がそっと声を出した。


「なんだ。起きてたのか」

「あのさ、おまえに少し言っておきたい事があるんだ」


 こいつは感情が高ぶるとつい女言葉が出ちまうが、普段は言葉遣いにも気を使っている。


「なんだよ」

小林東伯齋こばやしとうはくさいのことだ」

「おう、前から聞きたかったんだが、そいつは一体何者なんだ」

「おまえ、小林東四郎って名前、聞いたことがないか」

「ああ……あるな。そいつなら噂で聞いたことがあるぜ。確か大橋分家の門人だったやつだろ」

「そうだ。その小林東四郎こそが小林東伯齋本人だ」

「高段まで進んだけど確か破門になったんじゃねぇか?」

「その破門を告げたのが――」大橋宗与様なんだよといって宗歩はそのまま目をつぶった。

「そいつはなんで破門になったんだ」

「詳しくは私も知らないが、宗与様に何か反抗したらしい」


 大橋宗与ってのは大橋分家の現当主だ。

 狭量で有名で、若くて才能ある棋士に相当厳しいらしい。

 宗歩もしょっちゅう虐められたとか。

(まぁぜんぜん気にしてないんだろうけど)


 満点の星空の下、二人を乗せた三十石船が淀川を静かに下ってゆく――


 ――参――

 天保四年十二月。

 日の出と共に船が八軒屋浜に到着した。

 船頭に聞いたところでは、大阪には無数の運河が巡っているらしく、それを渡るために八百八もの橋が架かっているそうだ。


 豊臣家がかつて支配したこの城下町は、今ではすっかり幕府の直轄地(天領)として、全国各地の物産品が集まる商都になっている。

 船場の往来で見かける通行人たちも確かに江戸とは少し違ったように感じた。


「ここが大坂かぁ。とても活気があるな」

「あぁ、江戸と違って、武家より商人が幅を利かせている町らしい」

「商人かぁ。確かにいろんな店がある」


 宗歩がふらふらと軒先の店に近づく。

 いらっしゃい!といきなり店主に声を掛けられて焦ってる。


「おーい、いくぞぉ」


 とりあえず、俺たちは今後の拠点となるべき宿に向かうことにした。

 淀屋橋から南へ筋を真っ直ぐ下っていると、なにやら騒がしい声がしてきた。

 前の方を見ると、数人の男女が何か揉めているようだ。

「火事と喧嘩は江戸の華」なんていうが、大坂でもそうなのか?


「おい姉ちゃん、ちょっとこっちにこいや」


 あきらかに「その手の者です」という感じの悪党が若い女に絡んでいる。

 その女は——身長がそこそこあるが体の線はすらっと細い。

 目鼻立ちは整っていて間違いなく美人の部類だ。

 どこか上品でもあり、籠目の藍色の着物がよく似合っている。


「なんですの? あなたたち」


 おっと、ちょっと関西訛りがあるなぁ。

 少々キツイ感じがあっていい。


「うるせぇな。つべこべいわんとこっちに来い言うてんねん」


 悪党が美人の腕を掴む。


「ちょ、ちょっと、だ、だれか、助けて」

水無瀬みなせお姉ちゃん!」


 突然、見物人と俺の間から少女が走り出てきた。

 その両手には風呂敷で包んだ荷物を抱えている。


玉枝たまえ、あなたはこっちに来たらあきません!」

「なんやねん。もうひとりおったんかいな。お前もこっちこいや」


 悪党がぬっと手を出す。


「あ! こら! 汚い手で私の体に触らんといて!」

「何が汚いじゃ。失礼なこと抜かすな。このガキが!」


 玉枝と呼ばれた少女を悪党が突き飛ばした。少女は尻もちをつく。


「あう痛い! ううぅ。もうやめてよぉ」


 おいおい、女子おなごに手出しちゃぁいけねぇだろう。

 俺がたまらず制止しようとした途端。


 プチン!


 あれ?

 今何かが切れる音がしたよ。

 と、俺の横にいた宗歩が突然声を出した。


「おーい」


 後ろから不意に呼ばれたので悪党がくるっと振り向く。


「はーん?」


 ぐわしゃぁあぁぁぁぁぁ!

 材木が香車のごとく悪党に向かって飛んでいった。

 ぷす——。

 男の眉間にそのまま突き刺さる。


「痛ッテェェェェ!」


 出た。

 天野宗歩流、飛剣「雀刺すずめざし」


 ——そうそうこいつ、なぜか昔から投擲とうてき堪能ちーと級だったのよね……


 ——昔良くそれで雀を捕まえようとしてたよな。お前。


「な、何だ貴様は!」

「誰でもいいだろう」

「だ、旦那、こいつシバいてもええですか」

「おう、やったれや!」


 悪党の他に親玉もいたらしい。


 ……

 ………

 ……………


「すんませんでした……ほんまに堪忍してください」


 親玉と悪党が頭を下げている。

 俺達の勝利だ。


「よし、これに懲りたら反省するように」


 そのとき、町奉行所の岡っ引きがやってきた。


「どけどけ、天下の往来で狼藉ろうぜきを働くものはどこのどいつだ」

「おっと邪魔が入ったな。じゃ俺はこれで失礼するよ」

「あ! ちょっと待ってください。せめてお礼を」


 水無瀬と呼ばれた女が俺を引き留めた。

 近づくといい香りがする。


「そんなのいらねぇよ」

「で、では何か物入りでお困りのことがございましたら、こちらによしてください。うちの家は商いをしております。旅のお方とお見受けしましたので、なにかご入用のものでもご用意させていただきます」


 と言って、水無瀬さんは店の屋号が書かれた紙片を俺に渡す。


「じゃあ、またお邪魔させてもらおうかな。」

「ああ、ほんまにおおきに」


 二人の姉妹がこちらに何度も頭を下げながら歩いていった。


 ——まさか、この出会いがあんなことになるなんて……

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