第16話『猫と私』
嘘も嘘、人を騙すために吐くものもあれば人を救うために吐く嘘もある。 私が吐いた嘘は成瀬君曰く「人を救う嘘」とのことだった。 けれど、果たして本当にそれで良かったのかどうかは分からない、成瀬君にも秋月さんにも長峰さんにも、そして……瀬谷さんにも分からないことだったと思う。 見方も考え方も人によって違う、私は咄嗟に嘘を吐いてしまったけれど、それはそれで良いのではとも思っている。
ともあれ、私は私で成瀬君は成瀬君。 私とは逆に、成瀬君の場合の話をしよう。 成瀬君は人の嘘を見抜く力を持っている、そんな彼を騙すということは困難を極め、私でも彼を完全に欺けるというのは想像ができない。 だが、彼を騙す方法というのはないわけではないのだ。 今回はそんな話をしようと思う。
私は猫が好きだ。 自由に街を歩き、気まぐれで愛くるしい仕草はキュンとする。 と、言葉にするのは恥ずかしいのでいつも思っていることなのだ。 こんな話をしているのも8月の31日、夏休み最終日、成瀬君から連絡があり、その内容が「朱里が最終日に宿題溜め込んでるのが発覚して、手伝わされるの回避するために暇潰しに付き合ってくれないか」とのこと。 そういうわけで図書館へ行くことになっており、家の前で待ち合わせをしていたときのこと。 白い毛色の青い瞳の猫が私の足元へとやってきたのだ。 暑さなんて関係ないのか、私の足に体を擦りつけて丸まっている。
「……飼い猫ですか?」
私はしゃがんで猫を見るも、首には何も付けられていない。 野良猫だとしたら、随分と人懐っこい猫だ。
「暑くはないんですか?」
再度、私は尋ねてみる。 しかし猫は反応せずに私の足元で丸まっているだけだ。 体を撫でてみても無反応、無愛想な猫なのかもしれない。
「……」
一応、周りを見渡す。 人は見当たらない。
「……お腹が空いてるのかにゃー」
「にゃあ」
「おお」
なんと、猫語が通じた。 どうやらこの猫とコミュニケーションを取るには猫語を使わないといけないらしい。 そう考えた私は改めて猫に問いかける。 傍目から見たらとても奇妙な人物に映っているだろうけれど、幸いなことに今は人目がない。
「ええっと……寂しいのかにゃあ?」
「にゃー」
……可愛い。 まだ約束していた時刻には余裕がある、成瀬君は基本的にそれより早く来る傾向があるけれど、経験からしてそれも5分から10分の範囲に収まることがほとんど。 私は携帯で時刻を確認すると、再び猫と向き合った。
「寂しいなら私の体を使うと良いにゃ、何か食べるかにゃ?」
「にゃ!」
ああ、幸せ指数が上がっていく。 さすがの私でも猫の思考というのは聞くことができない、だから考えていることを予測しながらの会話は新鮮だ。 猫は私の言葉に反応するように鳴き声をあげ、足に体をスリスリしてきた。 それだけでもう幸せなのだが、この野良猫さんはお腹が空いている様子だ。
私は猫に少し待っていて、と伝える。 すると猫は大人しくその場に丸まり、小さく鳴いた。 本当に意思疎通ができているのかもしれない。 もしかしたら私が生きていくべきは人間の世界ではなく猫の世界なのでは、とも考えながら猫から離れていく。
そのまま私は家の中へと入る。 こういうとき頼りになるのはネットだけれど、生憎そこで調べている時間はない。 ということで、私は人生経験が豊富そうな人の下へと行くことにした。
「比島さん、相談があります」
「……ん、珍しいな」
比島さんは奥のカウンターで食器類の整理をしていた。 紫煙が浮かんでいることから煙草を吸いながららしく、衛生上どうなのかと思うが……。 その背中に話しかけると、比島さんはこちらを向かずに口を開く。
「外にお腹を空かせている猫がいまして、何か食べさせたいのですがゃ」
……危ない、猫言葉で喋るところだった。 大きな声で言わなくて良かった。
「……猫か」
比島さんは私の言葉を聞くと、数秒動きを止めた。 その後、カウンターの更に奥へと消えていく。
「……無糖のヨーグルトならあるが」
数分後、比島さんはヨーグルト一つを手に持ちながら私の下へと戻ってくる。
「猫に与えても大丈夫ですか?」
「……無糖ならな。 成瀬と出かけるんだろ? 時間があればで構わないから、いくつかまとめて買ってきてくれ」
比島さんは言うと、煙草を咥えながら私にヨーグルトとお金を手渡す。 お金はすぐにお財布へと仕舞い、ヨーグルトは手に持ったまま比島さんに頭を下げ、お礼を言う。 やはり、頼れる人がいるというのはありがたい。
「行ってきます」
その後、私はそう言うと比島さんは軽く手を上げて返事代わりとしていた。 こうした会話も最近では増えてきている、私も私で不器用だけれど、比島さんも比島さんで不器用なのだ。 似た者同士、案外うまくやっていけるのかもしれない。
「……猫ちゃん、にゃんこ、にゃんすけ……にゃん太郎。 あれ、男の子と女の子どっちなんだろう」
猫の名前を考えながら私は外へと出て行く。 すぐさま焼き付けるような日差しが視界を覆い、私は手で顔を隠しながら猫が待っている場所に目を向けた。
猫はしっかりとそこで待っていた。 ……成瀬君と共に。
「おー冬木、俺が先に着くって珍しいな」
成瀬君は猫を見ながらしゃがみ込んでいる。 対する猫はというと無反応、成瀬君に背中を向ける形で座り込んでいた。 ここで猫が成瀬君とじゃれ合っていたら私は心に深い傷を負うところだった。
「……ってあれ、それ猫にあげるために取ってきてたのか」
と、目ざとい成瀬君は私が手に持っていたヨーグルトを指差して言う。 私はそれを背中側に隠すが、どう考えても手遅れだ。
「違いますが。 私が食べるために持ってきただけです」
「ヨーグルト持参で図書館行くなよ……家で食えよ。 でもこの猫めっちゃ無愛想だぞ、どこかの誰かみたいに」
どこの誰の話だろうか。 しかしやはり成瀬君相手に嘘は通用しない、当たり前のように私がヨーグルトを猫にあげるために持ってきた、という前提で話を進めている。
「方法ならあるので大丈夫です」
猫の近くに私はしゃがみ込む。 成瀬君が嘘を見破ってしまうのならそれを突き通すことに意味はない。 よって無駄な抵抗は止め、私は素直になる。
「……」
猫を見る。 この猫と意思疎通を図る方法は確かにあるのだ。 だが、私のすぐ後ろには成瀬君。
「……あの、耳を塞いでもらっても?」
「え、なんで。 別に良いけど……」
言いながら成瀬君は耳を塞ぐ。 下手なペットよりも従順かもしれない、なんてことを思いながら私は口を開く。
「成瀬君、聞こえていますか?」
「……え?」
「成瀬君、聞こえたら返事をしてください」
「え、なに? 返事?」
「聞こえているじゃないですか、しっかり聞こえないように耳を塞いでください」
「……なんか今めちゃくちゃ理不尽な目に遭っている気がするんだけど」
確かに理不尽かもしれないが、聞こえてしまってはダメなのだ。 たとえ成瀬君であろうと、もし聞かれてしまったら私は今後家に引きこもることになる。 それを避けるためには仕方のないことだ。
私は成瀬君がしっかり耳を塞いだのを確認し、猫に話しかける。 猫に話しかけるというのもなんだか奇妙であるものの、そうしなければ反応をしないので仕方ない。
「ヨーグルトです……にゃ」
言いながら、成瀬君がしっかりと耳を塞いでいるかを確認しながら、私は言う。 聞かれていないと分かっていても恥ずかしい。
ヨーグルトの蓋を外して猫の前に置くと、猫は小さく鳴いてヨーグルトを口につけた。 おいしそうに食べている姿を見ているだけで幸せな気分になってくる。
「おー、冬木に懐いてるのか」
「っ……! 聞いてましたか!?」
「え、何を」
いきなり後ろから声がかかり、私は体をびくりと反応させつつも問い詰める。 成瀬君はそんな返しをしたが、嘘が本当かは私には分からない。
「……」
「……な、なんだよ」
「成瀬君の言葉が本当かどうか、私が聞くまで待ちます」
「それ場合によっては日が暮れるよな……?」
それから数分、私は成瀬君の思考を聞くまで微動だにせず、ジッと彼の顔を見続けるのだった。
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