第29話『心と、涙』

「ん……」


「目が覚めましたか。 全く……あまり心配させないでください」


 私は言い、成瀬君の顔を覗き込んだ。 成瀬君はそれに対し、静かに「悪い」と、呟くように言う。 まだ具合が悪いのか、腕で顔を隠すようにしており、体温が上がっているのか顔は若干紅潮していた。 さすがに竹刀で叩かれるというのは経験したことがないのだろう。 もちろん私だって経験はない。


「間に入らずとも、秋月さんは脅すつもりでやっていたのは明白だったではないですか。 分かりませんでしたか?」


 嫌味、というつもりはもちろんない。 ただ、私から見ても明らかだったことに、成瀬君が気付かなかったとは思えなくて、そう聞いた。 何より成瀬君は人の嘘が見破れる、秋月さんがあのとき発していた言葉も嘘だと分かっていたはず。


「いや、そりゃ分かってたけど……体が勝手に動いてた。 悪い」


「随分な自己犠牲ですね。 朱理さんが言っていた言葉の意味がなんとなく分かりました」


「……朱理なんか言っていたのか?」


「いいえ、それは乙女同士の秘密だと、口止めされていますので」


 昔、成瀬君は朱理さんにとってヒーローだったという話。 もちろん今でもそう思っていると朱理さんは言っていたが、少しだけ悲しそうに「おにいはそれでも変わっちゃった、根本的な部分では一緒だと思うけど」と、口にしていたのだ。 それが今日、なんとなく分かった。


「その話に乙女はいねぇと思うけど」


 成瀬君の顔を再度覗き込む。


「……傷は痛みますか? 痛ませた方が良いですか?」


「お前が言うと本当に冗談に聞こえない……」


 ちなみに、今のは一応、冗談のつもり。 少しずつだけれど、友達同士で言う冗談というのが分かり始めた。そしてそのやり取りは、少なくとも楽しいと感じられる。


「おお、起きたか」


 そこで、成瀬君を休ませていた部屋に秋月さんがやってきた。 彼女は成瀬君が倒れたあと、とても動揺した様子で一緒にこの部屋へと運んでくれて、しきりに申し訳ないと呟いていたのを覚えている。 今はそのときよりも幾分か落ち着いたのか、それとも変に動揺していると嫌な思いをさせると思っているのか、どちらかは分からないけれど、いつも通りの秋月さんである。


「本当だったら、止めるつもりだったんだけど……お前の振り全く見えなかったぞ」


「褒め言葉として受け取った方が良いのか、それは。 いや、ともかくまずは申し訳ないと謝罪するべきだな」


 秋月さんは言い、横になっている成瀬君の横に座る。 私はその反対で、ふと「両手に華ですね」と言おうと思ったが、それは今言うべき冗談ではないと思い至り、寸でのところで飲み込む。


「申し訳ない。 頭では分かっていたのだが、私のダメな部分を知られてしまったことで焦って……いや、違うな。 言い訳だ、それも。 申し訳ない」


 頭を深く下げる。 ただそれだけの動作だというのにとても美しく、こちらまで固くなってしまいそうなほどのものだった。 面倒臭がりだったとしても、するべきこととしなければならないことはしっかりとする、というのが秋月さんだ。


「別になんとも思ってないから良いよ。 こいつにはもっと酷いこと色々されてるから」


 成瀬君は言うと、笑って私を指差した。


 ……ふむ。


「それは心外です。 成瀬君のストーカー紛いのあれこれを今から警察に相談してもいいんですよ。 私はハッキリと関わらないでくださいと言ったのに、何度も何度も関わってきて」


「やめてくださいって言っとかないとお前マジでやりそうだな……やめてくださいね」


「ふふ、やはり仲が良いな」


 秋月さんでは優しく笑うと、一度その表情を和らげる。 しかし、そこにはどこか悲しさというのが含まれているような気がした。 幻想的な、儚い表情。


「……私はよく、礼儀正しく正直者で、大人びていると言われる。 だが、そんなのはあくまでも建前だ」


 静かに、秋月さんは語り出した。 私も成瀬君も、その話に耳を傾ける。


「本当だったら、巫女仕事なんて面倒でやってられない。 学校に行くのすら億劫なくらいだからな、私は。 私が秋月純連として、秋月神社の一人娘として生きて行く中では、そんなことは口にできないことだった」


 本音をぽつりぽつりと、秋月さんは口にする。 そのひとつひとつはゆっくりで、未だに言葉に迷っているようにも聞こえる。 本音を話す、というのは秋月さんにとっては初めてのことだったのかもしれない。 その気持ちは、なんとなく理解できた。 私も長い間、本音なんてものは決して口にしなかったから。


「秋月純連は、清廉潔白で礼儀正しく、誰の目から見ても良いイメージでなければならない。 そういう風に、私の形は凝り固まってしまっていた。 嫌気は差したさ……それでも心の中で思うことは変わらなかったから安心していた面もある。 だが、日が経つにつれて本当の私というのが分からなくなり始めた」


 本当の自分は、どんな人物であったか。 真面目なのか、それとも清廉なのか、不真面目なのか、怠惰なのか、しかし勤勉であるべきで……それらが入り混じり、心に不安を落としていく。 秋月さんは、高校に入ってからそれが加速したと口にした。 することが増え、それが助長しているということだろう。


「……お前らにこんなことを話すのは、本当に筋違いなのだかな。 しかしそれを知られたくない故、成瀬のことをそのつもりがなかったにしろ、殴ったのは事実だ」


 本当に申し訳なさそうに、秋月さんはまた頭を下げる。 成瀬君はそれを見ると、小さく笑った。 その顔を見て、秋月さんが嘘を吐いているわけではないと分かる。


 ……もしかすると、成瀬君がよく言う「顔を見れば分かる」というのは、このことかもしれない。 思考を聞くことでしか人のことが分からなかった、それが最近少しずつ、変わってきた。


「気にすんなよ、勝手に殴られたのは俺だし……お前が殴る気なかったのは、俺も冬木も分かってたから。 こう見えて、俺は人の嘘に鋭いんだ」


「ふふ、そうか。 お前は優しいな、そうして嘘でも言ってくれるだけで、お前の人となりが分かるような気がするよ」


「……嘘じゃないんだけどな。 いやまぁ、とりあえず最初に言っておくと、録音したってのは嘘だ。 俺と冬木の目的は、お前を脅すことでも弱味を握ろうってわけでもない」


「嘘……ふむ。 それを聞いた私は安心するべきなのか、それとも怒るべきなのか。 ともかくまずは、その目的とやらを聞いても良いか?」


「冬木、良いか?」


 自分だとうまく説明できないな、と成瀬君は思考する。 今回はタイミングよく、成瀬君の考えというのが伝わって来た。 私に任せた方が秋月さんが納得できる説明をすることが可能だとの判断。 私は頷き、口を開く。


「私たちの目的は、秋月さんの抱えている問題の手助けをすることです。 たった今秋月さんが話してくれた、外側と内側の違いの解決。 それが私たちの目的です」


「……待て、最初からということか?」


「はい」


 私が言うと、成瀬君は少しだけ不安そうな表情を見せた。 いきなりそんなことを言っても、意味が伝わるとは思えない。 そう思うのは当たり前で、普通のことだろう。


「誰かから、聞いていたのか……? 私の性格を」


「いえ、そういうわけでもありません」


 強いて言えば、北見先生がキッカケで秋月さんとは話すことになった。 ……もしかして、北見先生はこのことを知ってて私に仕向けたのだろうか? それは少し、深読みしすぎかな。


「私は多くの人から嫌われていますので、人の内面には敏感です。 その人が今、何を考え何をしようとしているのかというのが、ある程度の範囲で察知することができます」


「前から多少鋭いところがあるとは思っていたが、なるほどな。 それで私の性格にも気付いたということか」


 誤解されない言い方、更には私や成瀬君の持つ力を話したところで、単に頭がおかしいと思われるだけでしかない。 実際に能力を見せて信じさせても、多くの人に知られるのは、あまり良くないことが起きる気もする。 それに、第一にこんな力はない方が良いとすら思っているから。 人の思考を聞いてしまう女なんて、関わりたいと思うのは成瀬君くらいの変わり者くらいのものだろう。


「……だが、まだ納得ができないな。 私を手助けすると言ったが……別にそれ自体に文句はない。 余計なことをするな、お前たちに何が分かる、なんてことは私は言わない。 しかし、ひとつ教えてくれ」


 秋月さんは言うと、人差し指を立てた。 そうして秋月さんの性格について話しているときでさえ、秋月さんは礼儀正しく正座をしており、その背筋はピンと張っている。 私は痺れからきちんとした正座ではなし、成瀬君に至っては他人の家で布団で横になっている。


「どうしてそこまで世話を焼く? 成瀬からしてみては言い合いをしたほどの仲で、冬木に至っては……長い間、お前の受けている仕打ちを見てみぬ振りをしてきた奴だぞ」


 それは、真実だ。 しかし私は誰にも助けを求めていない、誰かにどうにかしてくれと思ったこともない。 私自身がそうだというのに、秋月さんがそう思ってしまう必要はどこにもない気がした。 余計なお世話とハッキリ伝えてもしつこく付き纏ってくるなんて、きっと成瀬君だけだろう。


 それに秋月さんの質問の答えは、決まっている。


「クラス委員だからです。 それに、私と成瀬君であれば友達もいないので言い触らす心配もありませんし、万が一言い触らしたとしても私たちの言葉を信用する人なんていません。 秋月さんのお悩みを解決できるかは分かりませんが……世話を焼く理由というのは、それだけです」


「……あまり自分のことを卑下するなよ、冬木。 君は自分で思っている以上に、素晴らしい人間だ。 ここしばらく、君と話して私はそれを知っている」


 嘘かどうかは、分からない。 秋月さんの思考は聞こえず、秋月さんの表情はいつもと変わらない。 ここで成瀬君の顔を見れば、その反応から秋月さんの言葉の真偽を知ることはできた。 しかし、どうしてか成瀬君の顔を見ようとは思わなかった。 もしかしたら、秋月さんの言葉を確認するという行為が怖かったのかもしれない。


「誰かの世話になるというのは、考えたことがなかった。 他人に迷惑をかけてはいけない、それが当たり前だ」


「……そうかな」


 秋月さんの言葉に反応したのは、成瀬君だった。


「そうだろう。 だから、今日私がお前にしたことは罪だ。 罰せられるべきことだ、よって私はお前の命令であれば何でも従う」


「また極端だなおい……朱里が聞いたら喜びそうなセリフだ」


 確かに、と思った。 朱里さんであればここで容赦なく命令しそうだ。 それも喜々としているのが目に浮かんでくる。


「なぁ秋月、人に迷惑かけるのってそんな悪いことか?」


「……何を言っている。 悪いに決まっている」


「俺はそうは思わない。 もちろん悪意があってやったことなら、そりゃ悪いことだと思うけどな。 でも、そんなもんじゃないか? 誰かに迷惑かけないで生きてる奴なんていねぇよ」


 成瀬君は言うと、私のことを見た。 それは、成瀬君自身が私に迷惑をかけているということだと思う。 私は逆だと感じているのに、成瀬君はそう思っているのか。


「……仮に、そうだとしよう。 誰かに迷惑をかけない人間などいない、誰かに迷惑をかけることはそんなに悪いことではない。 成瀬、お前の発言はそういうことだ。 そして、それが事実だとしよう。 ならば、何が正しくなる? 誰かに迷惑をかけること、それ自体が正しいことなのか?」


「あー、お前まさか一々正しいとか正しくないとか考えてるのか……?」


 秋月さんは、そういう人間だと思う。 物事の善悪、その判断が辞書に載っているかのようなハッキリとしている。 これは悪いこと、これは良いことといった具合に明確に分かれているのだ。 その判断の下から、秋月さんは善悪に区別をつけている。 成瀬君の態度について注意したように、自身の行いを反省したように。 善悪の境界線がしっかりと引かれている、それが秋月さんだ。


「それは、悪いことか?」


「でも、それでどっちが本当の自分か分からないんだろ? それなら試してみれば良い、お前がいつも思っていること、お前がいつも悩んでいること、お前が心の中でしたいと思っていることをすれば良い」


 ハッキリとした言い方で、成瀬君は言い切った。 言葉に迷いはなく、それは私に向けた言葉たちと似ていた。 成瀬君は本当に、私ではできない方法をたくさん知っている。


「例えば、今この状況だ。 お前は沢山やることあんのに、俺と冬木は長く居座ってる。 この状況でお前が思うことを言ってみれば良い」


「……今、思っていることか。 しかし、それはあまり」


「俺も冬木もそういうのには慣れてるから気にしねえよ、言えば分かるだろ? 俺たちが良いって言ってるんだから」


 秋月さんはそれを聞き、しばし黙り込む。 だが、やがてその口を開いた。


「……私は早く、一人になりたい。 このようにお前らと話しているのも時間の無駄だと、思う」


 ぽつりぽつりと、言葉は放たれた。


「それになんだ、竹刀の一撃で気を失うなんて、鍛え方がなっていない。 軟弱男に付き合う暇など、私にはない」


 言われた成瀬君は苦笑い。 軟弱男というのが思いの外ダメージを与えたのかもしれない。


「……冬木も冬木だ! 落ち着き払ったその口調が心底面倒臭い! 私はお前らに絡まれるのが心の底から面倒だッ!!」


 最初は静かに、しかし段々と苛烈に、秋月さんは言葉を紡ぐ。 それは、今まで人に向けたことがなかった心の声。 それはとても綺麗とは言えなかったけれど、私には汚いものには見えなかった。


「私に構うな、私の時間を奪うな! 分かったら早く帰れ、お前らと付き合うなんて二度と御免だッ!」


 そこで、秋月さんは目を見開く。 自分に起きた違和感に気付いたのか、秋月さんは自身の頬に手を添えた。 しかしその変化は、私と成瀬君はとっくに気付いていたことだ。 心と心に生まれる軋轢は、こうして目に見える形となって現れる。


 ――――――――秋月さんは、涙を流していたのだ。 驚いたように、信じられないように、泣いていた。


「あれ、なんだ。 おかしい、な」


 自分の本心を言ったはずなのに。 思ったことを口にしたはずなのに。 まるでそう言いたげな顔をする。 泣きながらも、泣いているという事実を否定するかの如く、笑っている。


「……どうしてだろう。 言いたいことを言えずに、行動できずに……ずっと、ずっと我慢していたはずなのに。 どうして、私はこんなに虚しい気持ちになるんだ」


 いざ口にしてみたら、それはきっと秋月さんの気持ちとは違っていた。 いくらそう思っていたとしても、考えていたとしても、言葉にすればそれは考えているとは全く異なった形になっていく。 だから多くの人は、思ったことは口にせずに心に秘める。 嘘として取り繕うときもあれば、思考するだけのときもある。 人はそんな他人を傷付ける刃をいつも仕舞って隠している。 それらを見破ってしまうのが、私や成瀬君だ。 人の隠している刃に気付き、そして傷付く。 こうして考えてみると、私や成瀬君はもしかしたら自分から傷付きに行っているのかもしれない。 人は人の持つ優しさで、人を傷付けないようにと殆どの人がそうしているのだ。


「秋月」


 成瀬君は起き上がって、口を開く。 その声が怖かったのか、秋月さんは体を少し反応させていた。


「お前はやっぱ、良い奴だよ。 人の悪口を言って泣く奴なんて、俺は初めてみたしな」


「私もです。 ただ、口調が面倒臭いというのは少々言い過ぎでは」


「お前怒ってんの……? 俺なんて殴られた被害者なのに「軟弱者」扱いだからな?」


「それは事実なので、主張されても困ります」


「おい」


「……くく、はは、あはは! すまない……ふふ、お前たちは変わっているな」


 笑いが堪えられなかったように、秋月さんは笑い出す。 そんな秋月さんも、秋月さん自身で違いない。 人には全員、外面と内面というのが存在する。 それは成瀬君にも、私にもだ。 秋月さんはそれが少し行き過ぎてしまっただけの話で、しかしそれでも秋月さんの性格というのは何一つ変わりはしていない。 秋月さんがいくら頭の中で何を考えていようと、それを言葉にした瞬間に後悔してしまうような、そんな人なのだから。


「もし鬱憤でも溜まったらクラス委員室に来いよ、俺と冬木にならいくらでも文句言って良いからさ」


「意地悪だな、成瀬は。 そうやって冬木のことも泣かせたのか?」


「いやいや、まさか」


 ……私は泣いてなんていない。 秋月さんのは軽い冗談で、秋月さんが私と成瀬君の間に起きたことを知る由はないはずだけれど。


 とりあえず、私は泣いていない。


 こうして、一人の問題はひとまず決着を見せる。 私と成瀬君、二人でこなしたクラス委員の初仕事。 少し大変だったけれど、思いの外、それは私にいろいろ教えてくれた気がした。

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