第四章 第二節「冒険の準備」
2037年12月17日(木)
星野新は自宅のリビングにいた。星野は飯塚の計画を聞いていらい一週間、自分の部屋に閉じこもって分子生物学と遺伝子工学をもとにした再生医療の研究をしていた。研究といっても今の時代は彼の学生時代のものとは大きく異なっていた。昔はいくつものぶあつい書物や難解な論文をあさり、必要な文献を探し出して、仮説を立て、気の遠くなるような実験を繰り返して研究をしていたが、量子コンピューターの登場で状況は一変していた。アイデアが一つ思い浮かべば、文献の洗い出しや仮説の検証、シミュレーションによる実験などはAIが全部やってくれた。今の研究者に求められるものは膨大な知識ではなく、だれも考えもしなかったような突拍子もないアイデアだった。
星野が仮説をたてタブレットに向かって質問や相談をするとAIが適切な文献を探しだしたり、実験をおこなって、彼に問題点を提示した。星野はコーヒーを片手に一週間、寝る間をおしんでタブレットのAIと対話していた。リビングの中では、飯塚がチエにあげたものと同型の猫型掃除機が無邪気に走り回り、彼の気を引こうとしていた。星野は考えにつまると、餌のかわりにテーブルの上に置いたジグソーパズルを摘まんでは床に投げて掃除をさせた。
瑞菜が自分がAIだと知ったのは五人でムーンランドに出かけたのが切っ掛けだった。瑞菜の脳を格納しているはずのスカルの酸素消費量がゼロだったのだ。驚いたオペレーターは計器の故障だと思って宇宙服の点検をなんどもおこなったが、どこにも問題が見つからなかった。オペレーターは彼女の脳に重大な問題が発生している可能性がないともいえないので瑞菜の連絡先を調べようとしたが、個人情報保護の壁に守られて連絡できずにいた。オペレーターが諦めかけていた時、街で偶然、瑞菜を見かけて声をかけた。オペレーターは念のため、瑞菜にスカルの中の脳を診断してもらうようにすすめた。瑞菜は心配になってサテライトシティ東京の量子コンピューターアスカに問い合わせした。アスカは彼女の本当の姿と存在理由を語った。
だとすると瑞菜の脳は存在しなくても彼女のスカルは存在することになる。彼女のスカルの中には小型の独立した量子コンピューターがあり、人間の脳と同じ活動をおこなっている。であれば、サテライトシティ東京の量子コンピューターと切り離されても彼女は生きていける。実際、現実世界で彼女のスカルをのせて人型ロボットは月面世界を自由に動き回ることができた。彼女は星野と一緒に惑星フォーチュンを目指すアルカディア号にのることができる証拠だった。
アルカディア号にはバイオプリンターが搭載されていて、遺伝子情報さえあれば動植物を分子のレベルで組み立てて再生できた。彼女のAIが遺伝子のレベルから計算して、人間とまったく同じ神経ネットワークをつくったものなら彼女の遺伝子情報が存在するはずだった。星野は彼女の遺伝子情報を元に彼女の脳をつくりだして、彼女の記憶を転送できるのではないかと思いついたのだった。星野はタブレットを使って彼のアイデアを検証し、実現する方法を探していた。
星野の仮説は的中し、ついにタブレットのAIは、瑞菜の脳をつくりだす手順と、記憶を転送する方法を導き出した。星野は携帯端末を握ると瑞菜に連絡を入れた。
「瑞菜さん。今から僕の家にこれないかい」
星野の興奮気味の声を聞いて、瑞菜が答えた。
「どうしたの。なにか良いことがあったの」
「ああ、とても。でも今は秘密。直接、話したいから」
「これからいくから少し待っててね」
携帯端末の音声通話を切って30分とたたずに来客を告げるチャイムが鳴った。星野が瑞菜を迎え入れると、彼女は星野の顔を見て笑った。
「星野さん。どうしたの。ひげがすごくて別人かと思った」
星野は自分のあごに手を当てた。一週間分のひげがそこにあった。
「仮想現実世界なんだから、ひげなんて伸びなくても良いのに」
星野が洗面台でひげをそっている間、瑞菜は猫型掃除機と遊んでいた。そんな日常的な彼女の姿を見るのが星野にはとても幸せだった。
星野は彼女に自分のアイデアを語った。瑞菜は彼女がみんなと同じになれることをとても喜んでくれた。
「星野さん。ありがとう」
瑞菜は星野の両手を握った。瑞菜の大きな瞳からは大粒の涙がポタポタと流れ落ち、二人の手と彼があげたダイヤの指輪をぬらした。星野の目からも涙がこぼれだした。二人はしばらく手を握り合って泣いた。
「星野さん。一つお願いがあります。フォーチュンについたら私の体も作ってください。私は生身の人間として星野さんと生きたいです」
星野は彼女の言葉にハッとした。飯塚の計画はフォーチュンにつくことが目的で、ついてからの生活が抜けていた。確かに現実空間で、船外作業用のロボットのボディで暮らすのは不便そうだった。しかし、人間の体に戻ることは老いと死を受け入れることを意味していた。瑞菜はそれを察して言った。
「星野さん。私、思うんです。このサテライトシティ東京は人類にとって本当の理想郷です。生活の心配もいらず、事故にあうこともありません。でも、毎日、楽しく平和に暮らし続けた先にはなにがまっているのでしょうか」
星野は瑞菜の言葉で彼が求めていたものを見つけだせた気がした。
「二人で人間になろう。そして家族を作ろう。畑を耕し、家畜を育てて暮らし、年老いたら家族に見守られながら眠るように逝きたい。新しい世代に夢を託して」
瑞菜は笑顔をつくって答えた。
「はい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます