第三章 第二節「ムーンウォーク」

 2037年09月15日(火)


 星野新は瑞菜を連れて『ムーンランド』にきていた。ムーンランドはサテライトシティ東京の北端に位置し、行動限界区域の手前にある研究開発と観光を目的とした施設だ。ムーンランドの奥には樹海があり、星野は一度、こちらの世界がどこまで広がっているのか樹海の奥をロードバイクで探検したことがあった。樹海の手前の外周道を離れて真っすぐ奥に進んでいくと、数キロメートル、森の中を走ったところで外周道に引き戻されてしまうのだった。樹海のどこかで空間が反転し、気づかないうちに逆戻りさせられる仕組みになっているようだった。

 ムーンランドは月面歩行体験ができる施設でサテライトシティ東京では唯一、量子コンピューターがつくりだした仮想空間ではなく、リアルな世界につながる場所だった。ムーンランドの施設に入り、地上10階までエレベーターでのぼると360度、全天パノラマ式の展望台があり、ドーム型の窓の外には現実世界の月面、『静かの海』が広がっていた。顔をあげれば本物の星空や太陽、そして彼らの故郷である青く輝く地球が見えた。後方すぐにはサテライトシティ東京の本当の姿である直径375mmの巨大な円形の量子コンピューターと、それにつながる150万個もの人間の脳を格納した巨大施設が見て取れた。施設のまわりには半径10kmにわたる円形のバイオプールがいくつもあり、150万個もの脳の栄養源になるユーグレナという微生物を培養していた。遠くを見渡すとサテライトシティニューヨーク、サテライトシティパリ、建設中の北京、メルボルンなどの他の施設も見ることができた。

 星野が瑞菜と出会って一週間が過ぎていた。彼女はいつも出会った時と同じような、星野が考えもしなかった質問を投げかけてきた。まるで子供が知識欲に目覚めて「どうして」と何度もたずねて大人を困らせるかのように。星野はその疑問を自分なりに考えて瑞菜に答えるのが日課となっていた。星野は瑞菜とのやり取りが刺激的であったし、星野の答えに納得した時の彼女の笑顔がとても好きだった。

 いつもの様に瑞菜が星野にたずねた。

「星野さんはなんで危険な岩山にわざわざ登るの?」

「冒険心かな。登り切った時の達成感みたいなものに中毒になっているのかもしれない」

「危険を冒すことが楽しいなんて変じゃない。やっぱり人間って不合理ね」

彼女がそう言った時、飯塚がチエとツキを連れて入り口のドアから現れた。

「シン。遅れてごめん」

彼は言葉とは裏腹に遅れたことを悪びれる様子もなく笑顔で言ってから、星野にだけ見える角度でウィンクしてみせた。星野と瑞菜が二人だけで景色を楽しむ時間を持てるようにワザと遅れてきたのだと星野は理解した。

「この人が香月瑞菜さんですか」

飯塚は彼女の前まできてあいさつした。

「初めまして。飯塚です。こちらがチエちゃんでこちらがツキさんです」

瑞菜が「iネットホールディングスの」と言いかけたので、飯塚は慌てて話をそらした。

「瑞菜さんはここにくるのは初めて。すごい眺めだね。月面に暮らしている実感がわくよ」

瑞菜は飯塚のそぶりで、彼がここにくる前の過去をみんなに知られたくないことを悟った。

「はい。初めてです。地球がとてもきれいですね」

瑞菜はそう言って地球を指さすと、気をきかせて、チエとツキを誘って三人で地球の見やすい窓に向かった。

 星野は、「チエちゃんに、まだそのことを話していないの」と飯塚にたずねた。飯塚は困った顔をした。

「タイミングを逸したみたい。昔のことを話したら今の関係が壊れそうで」

「これから先も秘密にしておくのは難しいと思うよ。カズは有名人なんだからいつか気づかれるし、チエちゃんはむしろ喜ぶんじゃない。ミーハーなところがあるし」

飯塚は観念して「ああ、機会をみて話すよ」と言った。

「ところで、シンはどうなの。ツキさんとのことは残念だったけど友達としてはうまくやっているみたいだし、瑞菜さんとはどうなの」

飯塚は地球を眺めてはしゃぐ三人をちらりと見た。星野も彼女たちを見て言った。

「まだ良く分からないけど、瑞菜さんと一緒に居ると楽しいかな。性格が合っているのか、ホッとできるし」

「なら大切にしてあげることだな。お互いに」

飯塚が話しおえるのにあわせたかのように、場内アナウンスが月面歩行体験の準備ができたことを彼らにつげた。

 彼らが準備室に入るとオペレーターが待っていた。

「こんにちは。これから皆さんには目の前の宇宙服を着て頂きます。と言いたいところですが、ハッチの外は仮想現実ではなく現実の世界です。ここにあるものは宇宙服に見えますが実際は人型のロボットです。これから皆さんには小一時間ほど眠っていただきます。眠っている間にあなた方の脳を格納したスカルを、量子コンピューターから切り離してこちらのロボットの中にセットします」

オペレーターはそう言って五人に睡眠薬を手渡した。

 星野たちが目覚めると彼らは既に宇宙服を着てベッドに横たわっていた。五人はベッドから起きあがりお互いを確認しあった。

 オペレーターの指示に従いエアロックを抜け、ハッチを開いた。実際に月面に出るのは宇宙服を着たロボットだったが、センサーからの情報は違和感なく彼らの脳に送られていた。宇宙服に取りつけられた計器や酸素供給機の発する音がリアルで、彼らは現実の体験としてそれを受け入れていた。飯塚が最初に月の地面に一歩、足を踏み出した。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」

飯塚の声が星野たちのヘルメットの中に響いてきた。

「観光用のハッチの前だから、人類の偉大な一歩がそこら中にあるね」

星野の一言でみんながどっと笑った。施設のオペレーターの笑い声までマイクを通して聞こえてきた。

「ロマンのないやつは嫌いだ」

そう言う飯塚の声にも笑いが含まれていた。

 重力が地球の六分の一しかないのと、宇宙服で動きにくいので歩くのもままならず、飛び跳ねるようにしか歩けなかった。昔の宇宙飛行士の苦労が良くわかった。なんとか手すりにつかまり、五人はアポロ計画時代のムーンバギーに似せてつくられた観光用の六人乗りの月面車に乗り込んだ。オペレーターの指示に従って命綱を外して月面車の手すりに接続した。月面車は自動運転でゆっくりと走りだした。

 月面の光景は殺伐としていたが、大気がないのでどこまでもかすむことなく見渡せた。星々の輝きに手が届きそうだった。ヘルメットのスピーカーを通してオペレーターがガイドを始めた。

「ここ、『静かの海』は1969年7月20日にアポロ11号の月着陸船が着陸した場所として知られています。アポロ計画でもちいられたコンピューターは現在のおもちゃのマイコンよりもレベルが低かったと言われています。東西冷戦の終結で宇宙開発は一時期停滞しましたが、コンピューターの飛躍的進歩で100年も経たずに人類は新しい形で月への移住をおこなうことが可能となりました」

 星野は子供時代のことを思い出していた。彼が生まれた時代は宇宙開発競争だけでなく、あらゆる場所で科学技術が目覚ましく進歩している時だった。彼が大人になるころまでには、自動車や電車は空を飛んでいたし、人々はなぜが球形の家に住んでいるはずだった。飢餓や貧困、公害に災害、伝染病や事故は駆逐されて幸せな未来がまっていると信じこまされていた。大人になって経済が停滞し、そんな未来がこなかったことにだまされた気分になった。

「右手に見える巨大なビルは、サテライトシティ東京の中核をなす量子コンピューターの格納施設です。そのまわりにあるビル群に、いつもは、あなた方、移住者の脳を収納したスカルが厳重に保管されています」

飯塚が、「不思議な気分だ。毎日、仮想現実の世界で自由に動き回っていても本当の脳はあそこにあるなんて。ピンとこないな」と言った。星野は「本当にそうだな」と思った。

「男の子はこれだから。自由に生きられるんだからそれでいいじゃない。深く考えてもどうにもならないよ」

スピーカーから、チエの声が聞こえてきた。

 月面車が月面の石を踏んで跳ねた。重力が少ないので思いのほか体が浮いた。オペレーターの声が少し強張った。

「注意してください。ここは現実世界です。あなた方のスカルは今は宇宙服の中です。万が一、脳を守る生命維持装置が壊れたら本当に死んでしまいます。月面車が動いている間は、安全バーから手を離さないでください」

 月面車はユーグレナ飼育用のバイオプールの脇を抜けて進んだ。少し進むと右側に彼らを運んだシャトルの数倍はある宇宙船が建造されているのが見えてきた。彼らと同じ宇宙服を着た作業員が数名、巨大な船体に取りついているのが見えた。

「今見えてきました宇宙船は、5年前に発見された人類が生存できる地球型惑星『フォーチュン』を調査・開拓する無人探査船『アルカディア号』です。シャトルの三倍の処理能力を誇る最新の量子コンピューターとバイオプリンターを搭載しています。同船の量子コンピューターには地球上の50万種に及ぶ動植物の遺伝子情報が記録され、到着した惑星上でバイオプリンターをもちいて地球の動植物を再生し、きたるべき移住に向けて人間が住めるように環境を整えます。現代版、ノアの箱舟です。惑星フォーチュンは地球から、たった2.7光年しか離れておらず人類が移住できる最も近い惑星です。それでも現在の技術では移動に300年以上かかってしまいます。残念ながら人間が搭乗するには、時間がかかりすぎることから無人での探査計画になりました」

星野は300年先までは到底生きられないので残念に思った。

「300年でも私はいってみたいな」

チエのノーテンキな声がヘルメットの中に響いた。

「私は今の生活で十分満足だから無理だけど、今度の私のリサイタルの収録音源がデータ化されてあの船に搭載されることになったの」

ツキの弾んだ声が聞こえた。突然のツキの発表に四人は驚いて彼女の功績を喜んだ。飯塚が、「それはいいな。音楽はきっと宇宙共通だから、宇宙人がいたら感動ものだね」と言った。星野は内心複雑な思いもあったが、彼女が幸せをつかんだことをうれしく思った。

 月面車は無人船の側を離れてアポロ11号の月着陸船の着陸地点へと向かった。着陸船の台座部と、その側のアメリカ国旗が今も朽ちることなく当時の姿のままそこにあった。月面は大気がないので、着陸船の台座部のまわりにはアームストロング船長たちが残した歴史的足跡が、風が起きることのない月面で、消えることなくクッキリと刻まれていた。

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